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知的好奇心や認知的欲求も怪物なのかも知れない

昔から天才や才能に溢れた人を想起する際、自死によって早逝したイメージがついてまわる人も多いのではないかと思う。

パッと思いつくだけでもゴッホ、太宰治、芥川龍之介、三島由紀夫、川端康成、カート・コバーン、アーロン・シュワルツ、桂枝雀など(敬称は省略させてもらいました)、古今東西を問わず多くの天才たちが自死を選んでいる。
また若くして亡くなった海外のミュージシャンの中には、事故ではあるけれど自死とも思えるような薬物依存症や過剰摂取によるものもある。

無論、それぞれ時代背景もあっただろうし、天才や賢すぎたがゆえの苦悩や葛藤の末、という人もおられたとは思う。けれど、それと自死とに必ずしも因果関係があるとはぼくは思っていない。
それでも多くの人にそういった印象を与えてしまうのは、著名人や天才の自死という言葉のインパクトによるバイアスがかかっているためだと思っている。

またそういった残念な結末へと本人を駆り立ててしまう理由については、これは主観によるものだから実際のところは本人にしかわからない。だから一概には言えないけれど、やはり孤独感や絶望感はあったのだろうな、とは想像する。
しかし、それも天才や賢すぎる人に限ったものでないことや、仮にそうであったとしても自死を選択しない人の方が遥かに多いであろうことを考えると、やはりそこに蓋然性はあまりない気がする。
だからぼくは決して天才と死が近いところにあるとは考えないし、そうであってほしいとも思う。

少し前に「見ているけれど、見えていない」という話を書いた。
自分が興味あるもの、知っているもの、見たいものしか人は見えていない。という話だけれど、そもそも知らないことには興味の湧きようがないし認識もできない。逆に言えば、人は知ることで認識をすれば、もっと知ろうとする可能性も高い。
そして、知ることを求めるのは誰もが普通に持っている知的好奇心や認知的欲求でもある。

天才や類稀な才能を備えた人というのは、ある意味それを突き詰めた人たちだとぼくは思っている。ところが、その知りすぎた聡明さや作家性、芸術性の先に見いだしたものが孤独や絶望だったとしたら、知らなかったときの方が幸せだったのではないか、とも思えてくる。
孤独や絶望があるからこその芸術性という側面もあるのだろうとは思うけれど、それだと天才にはやはり壮絶な苦悩と葛藤が付いてまわることになる。
そして、それゆえ結果的に自死を選択したのであれば本末転倒なのではないか、と感じてしまうのは、やはり凡人なんだろうな。

それでも、知ることを追求しなければ、天才にならなければ、もっと長く生きることができた人もいたのではないか、と思えてならない。

深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いているのだとすれば、知的好奇心や認知的欲求も怪物なのかも知れないな。そして、それらを突き詰め天才になるような人には、強い精神力も必要ということなんだろう。

そんな風に思っていると、以前に書いた綾瀬はるかさんのことを思い出した。

俳優を目指す人たちは当然みんな売れたくて頑張るのだろうけれど、それにしても昨日書いた佐藤健さんのスケジュールといい、彼女のスケジュールといい、いくら人気俳優さんとはいえ、売れたら売れたでこれほどまでの多忙さとは驚かされる。
芸能人の中にも心を病む人がいたりするけれど、俳優として売れ続けるためには心と身体の両方が強くないと務まらないに違いない。
そして彼女は、心身共にとても強い人なのだと思う。

綾瀬はるかさん

やはり、凡人である方が幸せな気がする。





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