見出し画像

C'est pas mal, 凡人 2.

※ こちらの内容は、ウェブサイト(現在は閉鎖)にて2016年~2019年に掲載したものを再投稿しています。内容等、現在とは異なる部分があります。ご了承ください。

凡人の方が良いくらいじゃないかと、ぼくが思うようになったのは随分大人になってからだった。

小学生のころは図画で描いた絵をコンクールへ出してもらい、卒業するまでに何度も賞状をもらった。
その中でも小学2年生のときに描いた絵は、全国だか京都府だかの(多分、全国だった気がする)大きなコンクールで銀賞をもらった。
何年も経ったある日、小学2年生のときの担任と街中で偶然出会った母は、当時コンクールの審査員から担任へ伝えられた話の内容を教えてもらったらしい。

「とても子供の描く絵とは思えない。子供らしくない」

およそ、そんな話だった。
だから銀賞になれたのか、あるいは銀賞止まりだったのかは知らないけれど、小学校の6年間はどの担任からも絵だけは褒められ続けた。
自分は絵が上手なんだと思っていたし、中高と進んでからもずっと自分の手先は器用だと信じて疑うこともなかった。

ところがぼくは不器用なのではないかと思うようになったのは、仕事として料理をはじめたときだった。自分でも嫌になるほど何をやっても上手く出来ず、そう思わざるを得なくなった。
自分のペースで絵を描いたりモノをつくるのとは違い、それが食材を扱う料理である以上何をするにもとにかく速さが求められた。そのプレッシャーや焦りからやることなすこと裏目に出ていた気がする。
それでも技術的なことは、よほど特殊や高度なものでない限り諦めさえしなければ遅かれ早かれ誰にでも身に付くものだと思っている。
そんな不器用なぼくも20代半ばを向かえるころには、人並みにはできるようになった。

このころにぼくが漠然と思っていたことといえば、大器晩成って言うし将来的に大化けするタイプじゃないか、店をやるころには才能が開花するに違いない、なんて痛い妄想だったけれど、自分が不器用であることをちゃんと自覚していたので調子に乗っていたのともちょっと違う気がする。

何者でもない自分が何者かになれるのではないか、自分には特別な才能があるのではないかと思ってしまう、あの滑稽で根拠のない自信や、自分への期待がどこから来るのだろうと考えると、やはり時間や可能性がまだまだあると感じることができた若さ故としか思えない。

歳を重ね大人になるのは、現実を突きつけられ諦めを覚えていくといった残酷な面もあるけれど、それも決して悪いことばかりではないと思う。
ぼくは自分の才能のなさ、凡庸さを受け入れることになったけれど、だからこそいまの自分があると思っているし、これがもし若いころにそうありたいと願った才能ある人間だったとしたら、これほど店を増やせることもなかったに違いない。

致命傷にならない程度の挫折感を経験するのは無駄ではないし、それによって自分が普通の人、凡人であるということを受け入れることができるようになるのは、良いことだとさえぼくは思っている。

つづく






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?