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1年生の限界?暇な大人全員ボランティア生徒すればいいのに。

先日我が子の授業参観に行った時のこと。
授業はかなり自由奔放な状態だった。
1年生の教室では、立ち歩く子がポロポロといて、発言は自由に行われ、与えられた教材はカタカタと教室のあちらこちらで床に落とされる。
6、7歳の子なんて、そんなものだ。
言いたいことは言いたいし、道具を思うように扱えない。
我が子も自分の鉛筆一つうまく管理できないのに、学校ではどうなっているんだろうと思ったいたら、やっぱりそのままだった。
これは、、、先生の負担が大きすぎるのではないか?と感じた。
この状態は先生のせいでもなんでもない。
いくら何でも無理が多すぎる。
誤解のないように書き添えるが我が子は楽しく学校に通っていて、先生のことが大好きだ。

30人弱の子どもをほとんどの時間を大人1人で管理する。
管理する、というと言い方は悪く聞こえるかもしれないが、管理なしには30人の子どもを同じ方向に向かせることはできない。
ところが子どもを管理する、統制する、と言うことはなんとなくタブーになりつつある昨今。
そう見えないように、しかし確実にそうする必要がある。

先生に求められているスキルがべらぼうに高い。

一つの授業にしても、そのために必要な準備が、これでは莫大になることが想像される。考えただけでもブラック中のブラックだ。

「静かにしろ」と上からの立場を利用して命令できた時代はそれでもできたかもしれない。ところがいまはそれが許されない空気がある。
巧みに操作することが求められる。
これは、学校の先生が求められているスキルが度を越している。

30人対1人という今の学校の仕組みがもう限界なのではないか?

例えば、動ける高齢者の方が多い今。
ボランティアで、クラスに生徒と同じだけの大人が在籍してはどうかな。
先日参加してとてもうまくことが運んでいたワークショップには子どもの倍の数の大人がいた。半分はボランティアで半分は親だ。

大人は皆、サポート役というわけではなく、一緒にその会に参加している。

大人が同じように参加して、子どもと同じことをすることで、子どもはつられて落ち着いていた。
暇な大人は全員学校に通って先生たちのヘルプだと思って、
子どもの教育の担い手だと思って、
授業のボランティア生徒をしたらいいと思う。
ボランティア先生ではなくて、ボランティア生徒。

そしたら異世代間の交流も生まれるし、自分の孫に依存気味のじいばあ世代も、孫のような存在が増えて自分の息子嫁たちに煙たがられず、いいことづくしじゃないかな。

子どもと席を並べて、授業に参加する。
算数でおはじきを使えば手先の運動になるし、
体育では子どもの方が先生みたいになったりして、
道徳では意見交換して、一緒に考えて、思考をアップデートして。
楽しそうだよ。


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