挑戦という言葉の無意味さ

「挑戦するんだ」という気持ちで挑戦していないことに、ポジティブに気がついた。


僕は今良いペースで挑戦できている。

2024年、色々なことが好転し続けている。


今まで溜まっていた負債を清算し、自分のやりたいことをやりたいようにやるために、


一歩一歩進んでいると言える。


今も、新しくやろうと思っていることの実現に向けてこれをして、あれをしてと行動できているが、


これは人から見たらすごい勢いで挑戦している、みたいに見えるのかもしれないとふと思った。


自分では挑戦していると思っていない。


V字回復の上で新たな増収に向けて新しいことをやっていこうとし続けいるんだが、


自分ではそれを挑戦だと思っていない。


定期的にプラスを積み重ねていく人生でありたいと決めたこと以外、


じゃあ何をしたらプラスになるのか、


プラスになった先にどんな世界があるのか、



それを実現するためにどうしなければいけないのか、



ということをシステム的に設定して実行しているだけで、そこにあまりやる気とか気持ちが乗っかっていないのだ。



ひょっとすると、だからそういう目標設定とかPDCAみたいなこと一つ一つよりも、


もっと根底的な部分に覚悟のようなものがあって、



だからいちいち気持ちで揺れ動く必要がない、ということなのかもしれないと思った。




挑戦し続けるマインド、という虚構


そう考えると、挑戦し続けるマインドの秘訣とか、PDCAサイクルの回し方、



ということよりも、


そのようなマインド、サイクルが根底的にどのような背景によって駆動するのか



覚悟を決めるということは何なのか、ということについて言及するほうがよっぽど効果があるんじゃないか、と思った。



来週から本格的に書きたかった記事を展開していきたくて、その内容にも抵触することなので、



うまく言語化できたらいいなあ、と思っている。

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