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読書記録(羅列版)#6

このところあまり読書のペースがよろしくない。
飽きっぽい性格があちらこちらに顔を出し、ひと所に落ち着かないせいだ。
それでも少しずつでも読んでいる本はちゃんとあるので、振り返ると数冊程度は記憶に残るものもある。
例によって余計なことを一言ずつ付け加えて、最近読んだ記録を残しておくことにする。

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『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』
ウンベルト・エーコ/ジャン=クロード・カリエール

 言わずと知れた『薔薇の名前』の著者で記号学者のウンベルト・エーコと、脚本家のジャン=クロード・カリエールが、コンピュータ社会の到来や書物の未来について語った対談集。
 『薔薇の名前』の読みにくさが体に強く残っていて、この本を手に取ることを躊躇したけれど、予感は大はずれだった。それどころか現代社会やこれから先、書物や知がどうなっていくかを語り合う著者ふたりの会話は興味をそそるままで、最後までかなりのスピードで読み通してしまった。
 この対談について語り出せばキリがない。
 百聞は一見に如かずということで、興味を持たれたら迷わず読むことをお勧めする。
 中には会話の礎になっている知識がないと良くわからないこともままあるが、そういったところは迷いなくすっ飛ばしても、まだまだ読み応えのあるものだった。

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『パンデミック下の書店と教室 —— 考える場所のために』
小笠原博毅 /福嶋 聡

 新型コロナウィルスの世界的流行の中を生きたのは、将来、歴史のテキストに間違いなく書かれるだろう時代を生きた感触がすでにある。
 パンデミックという言葉は知っていたが、現実にパンデミック下を生きるとはどういうことなのかを身を以て知ることになるとは想像もしていなかった。
 まだまだパンデミックを相対化して書物にまとめているものは多くないが、外出の自粛などさまざまな制約があるなかで「知」を担う分野がどんな状況に直面したのか、その一部を垣間見ることができた。
 感染防止の意図があるのか、対談ではなく、著者二人の往復書簡という形で議論が進む。
 小笠原博毅は神戸大学の教授で社会学者、福島聡はジュンク堂書店の池袋本店元副店長で、今は難波店店長。知と接触する場を仕事場とする二人がコロナウイルスに直面したときに、どう知を守るべきか、どうするべきだったか、何ができたかを語りあう。
 一つのケーススタディでしかないのも確かだけれど、現場の混乱とそれでも揺らがなかったものが何であるのかが垣間見えて、読みがいがあった。

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『月とコーヒー』 吉田篤弘

 アメリカ文学の短編小説の全体的な印象というと、「後味がスッキリしない」ということになる。レイモンド・カーヴァー然り、ジョン・チーバー然り、今回の記録の後段に出てくるスティーブン・ミルハウザー然り、どうも釈然としない結末というのが雑誌に掲載される基準なんじゃないかと思うほど、著名な短編作家の作品にはハッピーエンドのものが少ない。
 若い頃、O・ヘンリーの優しさやアーウィン・ショーの皮肉っぽさが3回まわって変身した洒落た感じや、ニヤッとする滑稽さがアメリカ文学の根っこにあるものだと思い込んでいたが、実際は奇妙であったり、ハッピーエンドとは程遠い失笑であったりするものの方がずっと多いように思う。
 そんなものを立て続けに読んだ反動で、吉田篤弘の短編集を手にとったわけだ。
 何らかの形で飲食が関係する(登場する)短編が24編。毎夜、睡眠導入剤がわりに1編を読むにもちょうど良い質感の良作だった。
 それぞれの作品の「途中で終わってる感」が僕にはとても心地よくて、遠因ぐらいの距離感でジャブのような影響を受けている気がする。
 収録作品の中では『青いインク』と『青いインクの話の続き』との装幀上の距離感がすごく良い具合だと感じた。さすが装幀家といった感じ。

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『スタンダード・ジャズ短編小説集』 三田真未/松坂妃呂子

 名曲には洒落たタイトルのものが多い。
 題名勝ちで、つい小説のタイトルに流用したくなる気持ちも良くわかる。
 村上春樹も『国境の南、太陽の西』ではナット・キング・コールの“South of the Border”をモチーフとして使い、エッセイ集『使いみちのない風景』ではアントニオ・カルロス・ジョビンの“Useless Landscape”がエッセイと呼応するタイトルとして使っている。
 ロックにせよ、スタンダードなジャズにせよ、小説のタイトルに用いられている例は枚挙にいとまがない。でもタイトルありきで小説を追随させようとすると失敗することが多いように思う。
 音楽の好みや解釈は人それぞれだし、ともすればそれぞれが思い入れやエピソードを持っていることもある。
 そこに作家が描いたストーリーを上被せしようとしても、苛立ちや反発が真っ先に生じる結果になる。
 そういう意味ではありがちなミスチョイス、間違ったアイデアで、この短編集はありがちな失敗をまた繰り返した一作のように思えた。

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『フィリップ・マーロウの事件1(1935−1948)』 バイロン・プライス

 本作はチャンドラーがフィリップ・マーロウを主人公に書いた短編の集成ではなく、チャンドラーやマーロウを愛する作家たちがマーロウを主人公に書いたアンソロジーになっている。いわば「トリビュート・アルバム」。
 かといってチャンドラーに似せて書くだけがすべてではなく、あえてチャンドラーっぽさを排除していたり、チャンドラー目線のマーロウではないところから「事件」を捉えて見たり、それぞれの作家も立ち位置等を十分に考えた上で、しかもファンであることは譲らずに「マーロウの事件」を仕上げている。
 今作には15人の作家が名を連ねているのだが、それでもマーロウはマーロウのままで、15人の作家の誰から見てもフィリップ・マーロウという架空の人物像が同じ人間として見えている。これはやはりチャンドラーの人物造形のすごさなのだろう。しかもチャンドラーが設定表みたいな者で事細かに設定したのではなく、いくつかの事件を経る様子を読者として眺めながら、それぞれの心の内に描いたマーロウ像が同じものになっている点がすごい。

 アンソロジーの最後に、チャンドラーの死後に発表された『マーロウ最後の事件』を収録。

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『ホーム・ラン』 スティーブン・ミルハウザー

 僕の中でのスティーブン・ミルハウザーは、良い具合に中庸の短編小説家だ。
 サリンジャーほど厭世的ではなく、ブローティガンほど耽美的でもなく、かといってO・ヘンリーほどのロマンチストでも、アーウィン・ショーほどの皮肉屋でも、ジョン・チーバーほどペシミスティックでもない。
 単純にマッピングすればレイモンド・カーヴァーと並んで座標の中間にポジションを取るような作家なのだが、とにかく作品がスッと入ってくるので(アメリカ文学の短編小説は持っている知識が不足していて、読んでいる途中に迷子になることもままある)、その分かり易さがやや癖になる感じだ。
 それは当然ながら翻訳の柴田元幸の腕の良さによるところも大きいのだが、僕が勝手に作った座標では、中央にいる作家が少ないがために、スティーブン・ミルハウザーの短編小説は読む楽しみを得ることができる貴重なものになっている。

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『ときには星の下で眠る——オートバイの詩・秋』 片岡義男

 先日、キャンプに行く計画を立てた際、起こした火の前で読もうと楽しみにしていたのだが、あえなくキャンプには行けずじまいだったので、都会の雑音の中で読んだ。
 17歳の頃から何度読んでいるのかわからないほどだが、今回もまたオートバイで高原の道を走る様子を思い描きながら読むことができて嬉しかった。
 最初に読んだ時には憧れだったものが、今となっては懐かしさに変容していて、自分が齢を重ねたことを思い知らされもしたけれど、それでも若かりし頃に読んだ小説というのは良いものだ。

 音楽と小説を比較して考えることが多いのだが、十代の頃に立ち戻る度合いで考えると、時間を引き戻す力は音楽の方が圧倒的に強い。
 それはおそらく時間の流れとともに変化していく生活習慣や文化、社会構造などが書かれた当時とは大きく乖離してしまって、時に陳腐化してしまったり、時に理解不能になってしまうこともあるような気がする。
 僕にとってはかつて自分を取り巻いていた世界がそのまま閉じ込められているように受け取ることができるが、生まれた時からインターネットがあり、スマートフォンがありという世代の人が読んだらどう感じるのか、ちょっと興味がある。
 でもやっぱり焚き火の前で読みたかったなあ。

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