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小説は荒唐無稽だから面白い

新型コロナウイルスの第1波が本当に落ち着いたのかどうか、定かではないまま、なんとなく落ち着いてる感じを良いことに、乗り切ったことにしようよ感が漂ってる今日この頃、一つ思いついたことが小説になるのかどうか、設定を書き連ねている。

政府の対応に一言二言、いや延々と文句を言いたい気持ちももちろんあるのだが、ただ文句をいうよりも、フィクションとしてこき下ろしたり、あげつらったり、馬鹿にしたりする方がずっと面白い(元々、偉そうなヤツは何につけても嫌いというわかりやすい性格なので)。

小説は遠回しに現実を皮肉ることができる便利な道具で、性格の悪さが現れないままにひどいことを言える。壮大なイニシャルトークみたいなものだ。
もちろん直截的に書いてしまっては、その目論見は露見してしまうわけだが、腕の立つ書き手にかかると、注意深く読まなければ気がつかないほど巧妙に、しかも相当に根深い悪意を込めて書かれていることもある。

とはいえ、小説である以上、何から何まで御都合主義で片付けるわけにはいかない。フィクションでありつつも、微かな可能性がそこになければ、それはただの妄想になってしまう。
現実の世の中と同じで、予想は常に裏切られ、予想外のことは必ず起こり、予定通りの未来に着地するには結構な努力を要する。

小説世界では、現実には必要になる資金とか能力を、作り手の思うがままに作ることができるわけだが、主人公がピンチに陥ったときに15メートルもジャンプしてビルを飛び越えてしまうとか、重さ10トンのトラックを持ち上げて、敵にぶつけてしまうとか、「実はスーパーマンでした」というのでは興醒めしてしまう。
物語上の矛盾を解決するために(あるいは障壁を突破するために)都合よく設定すると、フィクションのリアリティは一気に消え去る。
非現実だからこそ、現実味をどこまで持たせられるかが、小説の設定を考えるときにはいちばんの面白いところなのだ。

言い換えると、こういう作業はある種の知的ゲームのようなところがある。
自分で解くことができないようなパズルを作って、自分で「解けないぞ、これは」と言って喜んでいるような。ほとんど変態だ。
小説の多くは人間や生活や社会を否応無く投影するものだから、それだけ現実は複雑ということ。

小説世界では作家は創造主の立場になれるわけだが、神様というのも楽ではない。それどころか、万能と言いつつ、結構抜けてるところがあるんじゃないのかね、と思うことも少なくない。
もちろん、小説は荒唐無稽であっても良いから面白いのだけれど。

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