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伏線のバーゲンセール

今朝、誰かと言い争っている夢を見た。
珍しく一部分しか覚えていないのだが(いつもならおおよそ全部を思い出せる)、誰かと何かのドラマか小説かを巡って言い争いをしていたことだけをやたらはっきりと覚えている。
「そんなのは伏線なんて言えないじゃん!」と、言い争いをしている相手に半ば怒鳴っていた。
普段では出さないような強い口調だった。

9月に入り、テレビドラマも夏クールが最終回を迎える頃だ。
人気ドラマの最終回ともなると、SNSはファンが熱烈な感想を繰り出し、実に賑やかしい。
テレビ局もSNS上の盛り上がり方に注目して、続編や次回作のスポンサー集めの材料にしているのは明らかだ。

最近では何かにつけ、ちょっと流行ったものには「考察」と名付けた勝手な推測やら願望をもっともらしく語るのが流行っているらしい。
中には作品を丁寧に解説してくれているものもあるから、後追いで興味を持ったときなど、実に重宝している。
ただ、そういった中で飛び交う「伏線」という言葉の頻度には少々戸惑う。
有り体に言えば何でもかんでも「伏線」と言えばオッケー、みたいな感じに見えるのだ。

Twitterで「伏線」と検索すると、使いどころの見本市のようになる。
僕から見たら脚本上の布石にしか見えないものも「伏線」になっていて「回収」されていることになっている。
そもそもそれって「点」で「線」じゃないし、と思ってモヤモヤとしてしまう。
本来、伏線は無関係に見えて、実は本線と呼応して本線に影響するサブプロットのはずなのに。

繰り返しになるけれど、ドラマを作る側はSNSでの反応を注視している。
ファンが繰り返し「伏線」とバーゲンセールの呼び込みのように言えば、本来の伏線の価値は下がる。
「なるほど、これくらいの布石や前振りをしておけば十分なんだ」と思い込むかもしれない。
悪貨は良貨を駆逐する。
ファンの賛美によってドラマの質が下がっては本末転倒だ。

政治においては「国民はその程度に応じた政府しか持ち得ない」なんてことをしばしば言われるが、テレビドラマや小説でもやはり「読者・視聴者はその程度に応じた作品しか持ち得ない」のかもしれない。

そうなのか。
だからなのか。

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