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書くことを楽しむための客観視

幸い、ご幼少のみぎりから好き勝手に想像することにだけは飽きたことがない。
はたから見ればただの妄想癖だが、空想は誰にも止められないし、こちらも止める気など全くない。いや、空想しようと意識しているわけではないから、自分でも止められないのだ。

空想を「書く」という形で出力できることに気づいたのは10歳のころのこと。
整った形などではなく、ただ「もし車が空を飛んだら……地面の道路で遊べていい」とか「もしテレビから匂いがするようになったら……チャンネルを変えるたびに違う匂いがして臭くなりそうだ」と、仮定と仮定に基づく展開を書き出す拙いメモでしかなかったが、イメージが文字という「形」を持って姿を現したのは新鮮な驚きだった。それが僕にとっての書くことの原点にあるものなのだと思う。

やがて空想は妄想を招き入れ、暗く重たい想像も頭の中でうごめくようになった。
ある時期から病的に書く量が増えたのは、このまま自分の内に想像をとどめておくと自家中毒を起こすかもしれないという危機感を察知したせいだったのかもしれない。
誰かに読んでもらおうとか、自分の考えたことを伝えたいというより、最大の目的は「自己防衛」だった気がする。

とはいえ自分の内部から外へ移管できた満足感が、書く楽しさのすべてだったはずもない。
無形だったものが有形になる面白さは、やがて物語性という体裁を整えていく方向に進んだ。
そしてイメージが細部まで具体化していくにつれて、自分が創造主であるかのような全能感に面白さを見出すようになった。

だが、知識も経験も乏しく、スキルもメソッドも持たない少年の作る世界など、芝居の書き割りよりも現実味がないシロモノだったのは当然。
書けば書くほど自分の想像力の足りなさ、粗の多さにげんなりするようになった。
誰に頼まれて書いているわけでもないのに、好きに書いて、勝手に壁にぶち当たって凹んでいるのだから世話はない。

幸運にも、いくつかの理由で僕は状況を客観視することに慣れていた。
キツさを感じる場面に遭遇しても、そのキツさが永遠に続くものではないことも、そのキツさが結果にどう影響するものかも、キツさの中にあって推測や想像ができたし、さらには推測が当たるかどうかを楽しむことすらあった。
その癖は書くときでも同じで、壁や行き詰まりに当たってしまった時でも、それ自体を「おお、そう来ましたか」などと、どこかで楽しんでしまっている。

おかげで穴に落ちてしまったような閉塞感に陥ることはあまりなかったし、極度の逃避で乖離してしまうようなことと比べたら精神的にもきっとよかったのだと思うけれど、客観視することに慣れ過ぎるのもどうかと思う。

「真剣さがないよね」
「親身になるとかなさそうだよね」
「なんか他人事って感じがするよね」
と、やたらと言われるのだ。
別に悪気はないのに、真剣さがないよねと言われても対処に困る。

困り過ぎて、「現実社会でうまくやることと比べたら、小説を書くなんてのはずっと簡単なんじゃないのか」などと、なじられている最中から考えてしまうのだが、そういうことはちゃんと見抜かれて、また怒られる。
やっぱり小説の世界を作る方が簡単なのだ。

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