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汽水域の本たち

先日読んだ吉田篤弘の『フィンガーボウルの話のつづき』はとても面白かった。
以前読んだ『ぐっどいぶにんぐ』はエッセイのようなフィクションのような、小説のような詩のような、どれにも属さない —— あるいは両方にまたがるような —— 汽水域のような本で、その曖昧さがとても心地良かったが、『フィンガーボウルの〜』にも似たような雰囲気がある。
連作短編のような、自分の過去の話を書いてしまっているような曖昧さがあって、読んでいる世界の中にもう1つ別な世界があって、でも繋がっているのは現実の中 —— 本の外の世界 —— というような構造が感じられて非常に面白く感じた。
海外の短編小説を翻訳したような物語のちょっと不思議で、鮮やかな切り取り方は日本人作家の短編小説とは少々違う雰囲気がある。

「どちらでもない」「どちらでもある」というのは僕にはフックのある感覚で(個人的に「汽水域モノ」と呼んでいる)、何かに「限ってない」ことで広がる感覚は窮屈な感じがなくて良い。
普通は「長編小説」「短編小説」「エッセイ」等々とそれぞれがカテゴライズされて、いずれかに分類されるのだが、汽水域にあるものはどこに分類しても妙に違和感があったり、座りが悪かったりする。便宜上「クロスオーバー」などと呼んで体よく誤魔化してしまうのだが、そういう収まりの悪いものの方が、僕にとっては受け付けやすいものらしい。

先日、久しぶりに読み返した片岡義男の『コーヒー もう一杯』も同じように汽水域の本だった。
表紙カバーの袖にはこんなイントロダクションが書かれている。

コーヒーをもう一杯のむ時間は、とても不思議な時間だと思いませんか。なぜ、もう一杯なのでしょう。みじかくて五分、ながくて三十分くらいのその時間の中で、しかし、いろんなことを語りうるのです。もう一杯は、さしむかいで、語り合いつつ飲むといいようです。この本とさしむかいでも、素敵だと思います。

「コーヒーをもう一杯」飲む時間の中で読むことができる文章を集めた本。したがって中身にはフィクションがあろうと、エッセイがあろうと、おかしいところは1つもない。
括りの面白さ、自由さは、まさにコーヒーをもう一杯のむ時間に費やすに最適だ。
『フィンガーボウルの〜』は『コーヒー もう一杯』よりもちゃんと短編小説集だけれど、読み心地は通底している感触がある。
梅雨を前に、まるで夏本番のような暑さになった昨日今日に読むにはちょうど良いものだった。

ちなみに「汽水域」が好ましく感じるのは小説を始め、表現活動全般に限ったもののようで、現実の生活の中でどちらにも分類できないようなものは、逆に避けがちだ。
ナポリタンが自慢の喫茶店とか、カレーを出すコーヒー専門店とか、焼売と刺身がメニューに並んでいる居酒屋とかはできればファーストチョイスにしたくないところがある。
飲食店の場合は「何でもあり」なだけだけれど、昨今はコーヒーが飲める古着屋とか、取り合わせが「ん?」というところもあって、ああいうのはタキシード姿で対局に臨んでいる棋士のような、コック帽かぶって寿司を握ってるような違和感が拭えないのだなあ。


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