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親を捨てて、田舎を出て、自分の力で生きたい

私は東北地方の、人口6000人にも満たない田舎で生まれた。
公共交通機関はバスのみ。それも1時間に1本あるかないか。一車線の国道を通るバスは、雪が降ると平気で3時間は遅れる。
保育園、幼稚園、小学校、中学校はそれぞれ1つだけ。
いまだに、隣町まで行かないとスーパーはない。ドラッグストアも本屋もない。あるのは役場と簡易郵便局と農協と、寂れた飲食店だけ。初めてコンビニができたのは中学2年のときだ。1件のコンビニが、地元住民の唯一の溜まり場だった。

盆地なので夏は風が抜けていかず暑く、冬はバカみたいに雪が積もり極寒。
部落制度がまだ残っていて、県内でもあまり存在を知られていないくらいの田舎だ。

両親は隣町の出身だが、それぞれが住んでいた場所は20kmほど距離があった。
母は中学を卒業してすぐ、理容師の専門学校に入り上京。
不良少年だった父は高校を中退し、地元で就職。
恋愛結婚だったそうだが、母がいつ地元へ戻り、どこで父と出会い、結婚に至ったのかはよく知らない。

私が生まれたのは母24歳、父26歳のときだ。
父はとにかく酒癖と女癖が悪かった。仕事で稼いだ金のほとんどを飲みやパチンコに使う。私が産まれた瞬間も、パチンコをしていたと昔、母が言っていた。
父は、少し複雑な家庭環境で育っていて、4人兄弟の末っ子で兄や姉たちに甘やかされてきたせいか、ものすごくわがままで自己中心的だった。
自分が一番でないと気が済まず、思い通りにいかないと癇癪を起こし、面倒なことは人に押し付ける。子どものような人だった。酒を飲むと陽気になるか暴れるかのどちらか。
母は結婚相手を間違えたといつも後悔していた。

父がトラブルを起こすのは日常茶飯事。
飲酒運転で免停になる、サラ金に金を借りて取り立て屋がくる、喧嘩して顔をボコボコにされ帰ってくる。
こう書くと最低極まりない父だが、幼少期は一人娘の私を誰よりも可愛がってくれた。両親の性行為を目撃する前、私は父のことが大好きだった。

晩酌中にあぐらをかいた父の足の間に座り、タバコの灰が落ちそうになるのに気づいて灰皿を差し出したり、グラスが空く前にビールを注いであげると、父はものすごく喜んだ。
吐いた煙で輪っかを作ってみせたり、ビール瓶で笛を吹いたりと私を楽しませ、私が笑うと「お前はめんこいなぁ」と頭をなででくれた。

子どもにホステスのようなことをさせるな、と母はいい顔をしなかったが、めったに家にいない父と過ごせることが嬉しかった。
母が年子の弟ばかり可愛がるので、私はいつも悔しく寂しかったのだ。
甘えられるのも褒めてくれるのも父だけだったから、ここぞとばかりに独占した。母は相当気に食わなかっただろう。

私が把握している限りでは、父は高校を中退したあと、板金塗装の仕事をしていた。車やバイクが好きで、愛車とのツーショット写真を大量に見せられたことがある。
その後、自分の親(私から見ると祖父)が営んでいた林業を兄たちと一緒に手伝うが「親父の下では働きたくない」と言って、自ら造園の会社を立ち上げた。

母は、父が独立することに反対していた。祖父がなにかと援助をしてくれていたこともあり(私のピアノを買ってくれたのも祖父)、祖父の下で働いて給料をもらうのが一番いいと説得を続けたが、父は案の定、聞く耳をもたなかった。
「おれはいつだって最悪なパターンを考えてるから大丈夫だ」が口癖で、「おれは社長になるんだ」と言って、母や祖父や兄弟たちの反対を押し切り独立した。私が小学3年生のときだ。

父は職業柄、大型車だけでなく、ユンボやブルドーザーなど、たくさんの重機の免許を持っていた。大型トラックやミニユンボに弟とよく乗せてもらった。
父は運転が好きで、人が運転する車には乗りたがらなかった。タクシーに乗るのも嫌っていたので、飲酒運転が常だった。
電車や新幹線には乗ったことがない。飛行機には、商工会のゴルフコンペの旅行で一度だけ乗り、相当嫌だったらしく、もう二度と乗らないと言っていた。海が好きで、船舶免許を取って自分の船を買うと豪語していたこともある。
とにかく、なんでも自分でやりたい、人に動かされるのが嫌いな人だった。

そんな人だから、独立した仕事でもトラブルばかりだった。雇った若いアルバイトにいちいち説教し、盾突いてくる人間は容赦なく罵倒し、取引相手と揉めて玄関先で怒鳴り散らす。
父はとにかく地声がでかい。怒鳴ると空気が割れるかのような、がなり声になる。方言もきついので、威圧感が半端ない。私を「めんこい」と言うときとは全然違う父の声が怖くて、いつも耳を塞いでいた。

結局、祖父の下請けのような形になることで、父は自営を続けていた。
相変わらず毎晩飲みに出歩いて、家のことなど何一つせず、ろくに生活費も入れてなかったようだ。
物心ついたときから両親は不仲で、金のことでいつも口論していた。
「おれが稼いだ金、おれが好きに使って何が悪い」とか「金、金、金ってうるせえな、渡した金でやりくりできねえならお前も稼ぎに出ればいいだろう」みたいなことを言っていた。
「誰のおかげで飯が食えてると思ってんだ」とモラハラ夫の定番文句も何度も聞いた。

泣き虫の弟は、両親が口論するといつも怯えて泣いていた。
弟が泣いているから喧嘩をやめてほしいと私が言っても、どちらにも聞き入れてもらえなかった。昼間でも夜中でも、お構いなし。子どもの声や姿はまるで視界に入っていない。
父が怒鳴れば母がヒステリックになって文句を言い、さらに父がヒートアップする。
両親の激しい口論は、いくら聞いても耳慣れなかった。

子はかすがいという言葉を知ってからは、私はお父さんとお母さんのかすがいにはなれないんだな、と子どもとしての存在価値を見失った。
あんなに大好きだった父がどんどん嫌いになり、一番身近な親が信頼できなくなった。
他責志向かもしれないが、自己肯定感が低いのも、他人を信用できないのも、両親の不仲が間違いなく影響している。

そんなに嫌いなら離婚すればいいのに、と何度思っただろう。
一度だけ、思い切って母に訊ねてみたことがある。「お父さんと離婚すれば」と。
母はイライラしながら「お母さんひとりでどうやってあんたたちを育てていけばいいの。仕事もない、お金もない、住む家もないのに、離婚なんかできるわけないでしょう」と答えた。「あんたたちが家を出るまでは我慢して暮らすしかない」と。
そして「どうせあんたはオヤジ(父のこと)に付いていくんだろうけどね」と鼻で笑われた。

母はなんのために上京して、理容師の国家資格など取ったのか。
本気で自分の選択を後悔して、夫と離れて環境を変えたい、やり直したいと思えば、いくらだって行動できたはずだ。
父は正真正銘のクズ野郎だが、そのクズと生きることを決めているのは母だ。すべてを父のせいにして、子どもの存在を理由にして、現状に文句ばかり言って、できないと決めつけて何も行動しない。

「あんな人と結婚なんかしなきゃよかった。結婚式の日にやっぱりやめようと思ったのに、やめなかったから不幸になったんだ」と母は言った。
結婚式当日から父との結婚を後悔していたと聞いた私は、この先両親が関係を修復することはないのだと悟った。
仲が良い両親や家族だんらんなんて、いくら夢に描いても無駄だとはっきり分かった。

たとえ両親が離婚したとしても、どちらにも付いて行きたくない。
こんな田舎のボロ家から飛び出して、自分でお金を稼いで、自分でご飯を作って、自分で洗濯して、なにもかも自分で決めて、自分の力で生きていきたい。
子どもはなんて不自由なのだろう。
とにかく早く大人になりたかった。




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