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やりたいことが色々あるってことから現代アートがどうとか言っちゃうのよ、30女は。

久々の友人と久々に長電話をした。
幼なじみの心の友で、声を聞いて話をしたらやっぱりだーいすきだった。

その電話で私はいつものように自分のことばかりを言葉数多く喋り、我が心の友、Tは、変わらぬのんびりした反応で相槌を打ってくれていた。

その相槌の中で「(藻女ちゃんは)やりたいこといっぱいあるのかぁ〜」と、私に向けてなのか、自分に向けてなのかわかないものがあった。

その少し陰った声色が耳に飛び込んだ途端、否定されるのが怖い私はすぐ「そうやってずっと目移りして生きてるから中々生活がうまくいかないんじゃない?」とやっぱり思った…?と疑ったが、もしそれがT自身に向かっていて、少なからず悩んでいたらどうだろうと考えたら思ったことがあった。

(例の如く前置きが長い)


まず大前提で、やりたいこと(今回は、新しくでも、やりたいと思っているけど先送りにしていることでもどっちも含んでいるつもり)が色々ないことが悪いことでも進歩してないことでもなくて、今やっている日々を続けている現在は偉大だし、それに費やしている力は膨大だと自分たちを褒めてから始めたい。

しかし、やりたいことがないことに不安がある原因や、解消、緩和したいようなモヤモヤした感覚がもし、Tだけでなく誰かしらにもあるのであれば、それは自分が日々以外に何をやったか、残したかの実感や記憶がないからかもしれないと考えた。
ある程度の年月を生きてこられると、日々の中での自分のリズムが掴めた人、その逆で自分のリズムが分からなくなる人やまだ掴めないのかと思う人とそれぞれの立場が違ってくる地点が出てきて、掴めた人はこれからを想い、後者たちはこれまでどうしていたのかと振り返るのではないだろうか。
その物思いの中で明確な手応えを感じなかったり、疑問を感じると途端に胸がスカスカするような焦燥感が出てくるはずだ。
加えて、やりたいことがないとなると「おいおい一体自分の人生どうなるんだ⁉︎」と悲観モードに舵を切ることになる。

きっと、多くの人は悲観モードに沈まないように気を紛らわす行動に出たり、そんなことで立ち止まってられずまた日々に戻っていくのだろう。けど、きっとどこかでまたその不安や焦燥感はやってくる。
その空虚でスカスカする不安を埋めるために、いつもの右の道を選んでうやむやにせずに、左の道を選んでみたら案外、道中や行き先は楽しいものになるのかもしれない。


ではじゃあ左にと、何をしたらそちらの方向へ足が動くのだろうか?


急ごしらえではあるが、例えば日常のどこかほんの一部を留め続けて貯めてみたりするというのはどうだろう。
決まった時間に決まった位置で空の写真をポラロイドカメラで毎日撮るとか?今ならInstagramなどを利用することも簡単だし…。
(我ながらほっっんとにやりつくしたキザな例しか浮かばない)

写真を撮るというのは、あるものを残そうとする時にパッと思いつきやすい行為の代表格かと私は思うが、そのように残せた実感や記憶を得るためという点から考えて、記録や形になることができ、物体として重なっていくこと言動を行うのがひとまずよいと思う。

かと言ってここでは恐らく「何かを続けて記録する」という枠しかなくてとにかく何を、誰をいつどんな風に記録するのか全てが自由で、このお題を自分という身体を使って何か生活に直接関係ないことをやってみれないか考えてみた時点で、右の道にはもう貴方の足は向いていない。

(ここでの記録は、“重なる”ことに比重を置いていて正確に日付や詳細さをそんなに要求していないイメージ。しかし、その細かさの程度もやる人の自由と思う。)

やりたいことがない…!と不安感に襲われて上記のようなことをやってもやらなくても、それはそれはそれで「こんなややこしいことを考えちゃってさ」と話のタネにできそう。なんというか少し寄り道をすることで、貴方という人の深みが増したって感じ。
そして、こんな戯言を読んでしまって(おい)、いつもの右の道に進まず、何かを記録し始めたら途中で他の自分に合ったやり方を見つけるかもしれないし、そのまま「人生における成し遂げたこと=“やりたいこと”」になるかもしれない。

そうやって、ただの長電話のなんでもない一言から思考遊びを繰り広げていった結果、
あれ、その日常の中である決まった言動を続けていく、そして記録していくって日常でありながら非日常でもある行為で、まさに現代アートじゃない???コンセプチャルアートの分野でありそう!!なんて面白いんだ…!

と、私は軽率にワクワクしてしまった。

浅い探究心でググってみたら、毎朝、何時に起きたと日付と時間だけを記した手紙を特定の相手に送っていた芸術家がいたそうだ。
芸術だとか文化や思想はほんとにややこしくて頭が抱えちゃうけど、その芸術家のように昨日の日常とは違う些細なことをやることで、もう貴方の世界は芸術的であって、文化的でクリエイトな驚きのある非日常になっていくと直感的に思う。

そして、貴方の自分のための積み重ねの記録がいつの間にか形になっていて外へ出ていき、他の誰かの目に触れることができたら。
その瞬間からその他の誰かは、となりの赤の他人に一瞬前より少し優しくなれる思い続けたい。だから芸術文化は面白くて、日常の近くにいてほしい。

その後、電話口でTに自分語りの多さを詫びると、「う〜ん、まぁいっぱい喋る人はいるよ。今は藻女ちゃんのターンだよ。」と笑い飛ばす。その声は私の不安をとても優しい叩き方で、吹き飛ばしてくれる。
私にとっていつだって彼女はそういう子。
だーいすき。