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人は誰でも好奇心を阻害され、抑圧されている(フロイトのレオナルド・ダ・ヴィンチ論)

皆さんあけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

最近、『フロイト全集11』に収録された『レオナルド・ダ・ヴィンチ幼年期の思い出』という論文を読んだのですが、非常に共感できるところがあったのです。

フロイトはこの論文でレオナルド・ダ・ヴィンチを素材としながら、一つには人間の好奇心について述べています。

そしてレオナルド・ダ・ヴィンチこそは、万能の天才として全方向の分野に好奇心を働かせた人なのです。

(上記の動画を元に記事を書いております。アドリブのしゃべりをアレンジしてるので、その違いもお楽しみいただけます。記事は後半から有料(100円)ですが、YouTubeは全編無料で視聴できますので、応援していただけると大変に助かります。)

レオナルドの好奇心は、もともと絵を描くために人体の研究をしようとか、植物の研究をしようとか、そういう動機から始まりました。

にもかかわらず、そのうち作品制作の範囲を超えて逸脱し、科学を先取りした視線によって、あらゆる物を観察しながら考察を深めて行ったのです。

そして、作品のことなどどうでもよくなったかのように、とにかく研究のスケッチやメモが膨大に残されている割には作品数は非常に少なく、未完で投げ出したものも実に多いのです。

一方で完成された作品は、有名な『モナ・リザ』を筆頭に、どれも凝りすぎるくらい凝っていて、完成度が抜きんでて高く、レオナルドの研究の成果が存分に発揮されているのです。

それで、問題は好奇心についてなのですが、フロイトによるとまず子供は誰でも好奇心がいっぱいで、それがそのうち「性的なこと」に向かうと言うのです。

つまり、「赤ちゃんはどうやって生まれてくるの?」というような疑問ですが、これについて子供があまりに大人を問い詰めると、嫌がられてしまうのです。

そうすると、子供は「聞いて良いこと」と「聞いてはいけないこと」の区別が付いてきて、そのようなかたちで「好奇心の阻害」が生じるのです。

そして多くの人はそのような幼児体験を内面化したまま大人になり、「慎ましく分を弁えた」常識人になるのです。

ところがレオナルドの場合はその抑制のタガが外れており、全方位に向かって好奇心が作動したのだとフロイトは述べているのです。

そして、そう言われてみると、実は自分も「全方位に好奇心が働くタイプ」の人間であったことに思い当たるのですが、ですから「写真家・美術家」と名乗っているのに、それとは一見なんの関係もない哲学系の話をYouTubeやnoteで発信せざるを得ないのです。

ところがレオナルドと違って、私の場合は「全方位の好奇心」という特性が長い間疎外され、抑圧されてきたのです。

そもそも自分自身がレオナルド・ダ・ヴィンチと同じく「全方位に好奇心が働くタイプ」だと明確に自覚できたのは、フロイトのこの論文をつい最近読んでからなのです。

過去を振り返ると私は小学校以来ずっと劣等生できたのです。

何だったら幼稚園児の頃からヘンな子供で、ヘンな子供でダメな子供だという烙印を押されてきたのです。

学校の勉強が全然できなかったですから、大学も偏差値が高い大学には行けなくて、美大に入ったのです。

そういう具合にして、自分は頭が悪いと決めつけていたのです。

周りからもそう言われていたし、そもそも学校の成績でランクが下だと位置付けられてましたから、それは「お前は頭が悪い」と言われるのと同じなのです。

そして、そうすると勉強しなくなるのです。

勉強しなくなるのは好奇心が働かなくなるからで、その原因は自分自身で好奇心を阻害し、抑圧していることにあるのです。

そのようにして私は長年に渡って好奇心を抑圧し続け、今から十数年ぐらい前から哲学書の翻訳の原書を読めるようになったのです。

そしてそれ以前は、たとえ哲学的なことに好奇心が働いたとしても、「フッサールやニーチェなど難しい本は読めないだろう」と自分自身で決めつけ、そのようにして好奇心を阻害していたのです。

そうすると「読みやすい入門書」を読むことになって、今から考えると無駄な読書を沢山するのですが、そこからだいぶ経ってから、ちゃんとした哲学書を読んでも良しとする許可を、自分自身に下したのです。

もちろん、例えばフッサールの『現象学の理念』を読み始めたところで、難し過ぎてチンプンカンプンですから、本当にこれは自分で読んでいいのかどうか、分からないまま読み進めるしかありません。

しかし何年か経つうちに自分なりに分かるようになってきて、「自分で読んでいい」という許可そのものに自信が付いてくるのです。

そうすると哲学を幹として、さまざまな分野に好奇心が広がってくるのですが、その中でフロイトのレオナルド・ダ・ヴィンチ論を読んで、自分も「全方位に好奇心」を働かせてもいいという許可を、ようやく自分自身に下ろせたのです。

それでこの「全方位の好奇心」についてですが、実は私は最近、写真史に関連してレオナルド・ダ・ヴィンチについて調べ物をいろいろしていたのです。

するとルネッサンスから近代にかけての歴史的背景をいろいろと勉強する必要が出てくるのですが、歴史というのは知れば知るほど複雑な要素が絡み合っていて、知らなければならない項目がどんどん増えていくのです。

そして歴史が複雑なのは、そもそも「世界」そのものが複雑だからです。

ですから、何か一つの分野に好奇心を働かせたとしても、けっきょくは全方位に好奇心を働かせなければ、本来的に何かを「知る」ことはできないのです。

そしてそのようなことから私はふと、好奇心が阻害され抑圧されているのは自分だけではないと、あらためて気付いたのです。

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