JOHN J. MEARSHEIMER “Structural Realism” 【訳⽂】ジョン・J・ミアシャイマー 「構造的リアリズム

【訳⽂】ジョン・J・ミアシャイマー 「構造的リアリズム」  

  リーダーズガイド

本章では、国家が勢⼒均衡に深く関⼼を持ち、他国を犠牲にしてパワーを獲得するか、少 なくともパワーを失わないように国家間で競争すると主張するリアリスト理論を検討する。 このような競争をするのは、国際システムの構造が、⽣き残るためにほとんど選択の余地を 与えないからである。このようなパワーをめぐる競争は、国家が互いに争う危険な世界を作 り出している。しかし、構造的リアリストの間にも重要な差異がある。特に、防御的リアリ ストは、構造的要因によって国家が獲得できるパワーが制限され、それが安全保障上の競争 を緩和するように働くと主張する。⼀⽅、攻撃的リアリストは、システムの構造上、国家が 覇権を追求することを含めて、世界のパワーのシェアを最⼤化することが促され、それが安 全保障競争を激化させる傾向があると主張している。この後の分析は、次の 4 つの問いを 中⼼に展開される。国家はなぜパワーを求めるのだろうか。どの程度のパワーを欲している のだろうか。戦争の原因は何だろうか。中国は平和的に台頭することができるのだろうか (事例研究のテーマ)。  

 

はじめに 

リアリストは、パワーが国際政治における通貨であると考える。リアリストの説明では、 主要なアクターである⼤国は、経済⼒と軍事⼒を相対的にどれほど有しているかに細⼼の 注意を払うとされる。パワーが⼤きいだけでなく、他の国家が⾃らに有利なパワーバランス に急激に変化させないようにすることが重要である。リアリストにとって、国際政治はパワ ーポリティクスと同義である。  しかし、リアリストの間にも⼤きな差異がある。最も基本的な違いは、「国家はなぜパワー を求めるのか」という単純だが重要な問いに対する答えに表れている。ハンス・モーゲンソー(1948a)のような古典的リアリストにとって、その答えは⼈間の本性である。事実上、誰もが⽣まれながらにしてパワーへの意志を持ち、⼤国は⾃国が敵対国を⽀配することに執念を燃やす個⼈によって導かれることを意味する。このパワーへの欲求を変えることは できない。古典的リアリズムについては、第 3 章に詳しい説明がある。 構造的リアリストにとって、国家がパワーを求める理由には、⼈間の本性はほとんど関係ない。むしろ、国家にパワーを追求させるのは、国際システムの構造あるいは仕組みなので ある。⼤国の上に⽴つ権威がなく、ある国が他の国を攻撃しないという保証がないシステム では、各国が攻撃された場合に⾃国を守るために⼗分なパワーを持つことは、極めて理にか なっているのである。つまり、⼤国は鉄の檻の中に閉じ込められ、⽣き残るためには互いに パワーを競い合うしかないのだ。  

構造的リアリスト理論は、国家間の⽂化的な差異や 体制の違いを無視するが、それは主に、 国際システムがすべての⼤国に対して同⼀の基本的な誘因を与えているためである。ある 国家が⺠主的であるか独裁的であるかは、他の国家に対してどのように⾏動するかという点では、⽐較的重要でない。また、国家の外交政策を誰が担当するかもあまり重要ではない。 構造的リアリストは、国家をブラックボックスのように扱う。ある国家が他国よりパワーが あるかないかという事実を除けば、国家は同じものであると仮定しているのだ。 構造的リアリストの間にも⼤きな溝があり、それは、リアリストに関係する第 2 の疑問、 すなわち、どれだけのパワーがあれば⼗分なのか、に対する答えに反映されている。ケネス・ウォルツ(1979)の よ う な 防 御 的 リ ア リ ス ト は 、国 家 が 世 界 の パ ワ ー の シ ェ ア を 最 ⼤ 化 し よ うとすることは賢明でないと主張する。なぜなら、国家があまりにも⼤きなパワーを得よう とすると、システムは国家を罰することになるからである。覇権を追求することは、特に無 謀であると主張する。ジョン・ミアシャイマー(2001)のような攻撃的リアリストは、これ とは反対の⽴場をとる。彼らは、国家ができるだけ多くのパワーを獲得し、状況が整えば覇 権を追求することは戦略的に意味があるとしている。その主張は、征服や⽀配がそれ⾃体良いというのではなく、圧倒的なパワーを持つことが⾃国の⽣存を確保するための最善の⽅法であるというものである。古典的リアリストにとって、パワーはそれ⾃体が⽬的であり、 構造的リアリストにとって、パワーは⼿段であり、究極の⽬的は⽣き残りである。 パワーは国家がつかさどる物質的な能⼒に基づいている。パワーバランスは主に、装甲師 団や核兵器など、国家が保有する有形な軍事資産の働きによるものである。しかし、国家に は第 2 のパワー、潜在的なパワーがあり、これは軍事⼒を構築するのに必要な社会経済的 な要素を指している。潜在的なパワーは、国家の富と総⼈⼝の⼤きさに基づいている。 ⼤ 国が軍備を整え、戦争を⾏うためには資⾦、技術、⼈材が必要であり、国家の潜在的なパワ ーとは、敵対する国家と競争する際に引き出すことのできる純粋な潜在能⼒のことである。 国家がパワーを獲得する⽅法は戦争だけではないことは、この議論から明らかであろう。また、過去数⼗年間に中国が⾏ったように、⼈⼝を増やし、世界の富のシェアを拡⼤すること によっても、国家はパワーを獲得することができる。 ここで、国家がなぜパワーを追求するのかについて、構造的リアリストの説明をより詳細 に検討し、次に、国家がどれだけのパワーを欲しているのかについて、防御的リアリストと 攻撃的リアリストが異なる理由を探ってみよう。次に、⼤国間戦争の原因について、構造的 リアリストのさまざまな説明を検討することに焦点を移す。最後に、中国が平和的に台頭で きるかどうかを評価する事例研究を通じて、これらの理論的問題を明らかにする。


なぜ国家はパワーを求めるのだろうか?  

国家がパワーをめぐって互いに競争する理由については、単純な構造的リアリストによる 説明がある。それは、国際システムに関する 5 つの単純な仮定に基づくものである。どの仮 定も、国家が互いの犠牲の上にパワーを獲得しようとすることを意味しない。しかし、これ らの仮定が組み合わさると、絶え間ない安全保障上の競争が繰り広げられる世界となる。 
第 1 の仮定は、世界政治の主役は⼤国であり、彼らはアナーキーなシステムの中で活動し ているということである。これは、このシステムがカオスや無秩序によって特徴づけられる ということではない。アナーキーは秩序原理であり、国家の上に⽴つ中央集権的な権威や究極の裁定者が存在しないことを意味しているに過ぎない。アナーキーの対極にあるのがヒ エラルキーであり、これは国内政治の秩序原理である。  
第 2 の仮定は、すべての国家が何らかの攻撃的軍事能⼒を有していることである。⾔い換えれば、それぞれの国家は、隣国に何らかの危害を加えるパワーを持っているということで ある。もちろん、その能⼒は国家によって異なり、どの国家であっても時間とともに変化す る可能性がある。  
第 3 の仮定は、国家は他国の意図について決して確信が持てないということである。国家 が最終的に知りたいのは、他国がパワーバランスを変えるために武⼒を⾏使しようと決意 しているのか(修正主義国家)、それともパワーバランスを変えるために武⼒を⾏使することに関⼼がない程度に満⾜しているのか(現状維持国家)、ということである。しかし、問題は、他国の意図を⾼い確度で⾒抜くことはほとんど不可能であるということである。軍事⼒とは異なり、意図は経験的に検証することができない。意思決定は意思決定者の⼼の中に あるものであり、その⾒極めは特に困難である。  政策⽴案者は演説や政策⽂書で⾃らの意図を明らかにしており、それを評価することがで きる、という反論があるかもしれない。この主張の問題点は、政策⽴案者が時としてその真の意図について嘘をついたり、隠したりすることである。しかし、仮に現在の他国の意図を判断できたとしても、将来の意図を判断する⽅法はない。5 年後、10 年後、どの国家で誰が外交政策を⾏うか、ましてや攻撃的な意図を持つかどうかを知ることは不可能である。これ は、国家が、隣国が修正主義的な⽬標を持っている、あるいは持つようになると確信できる、と⾔っているのではない。むしろ、政策⽴案者は、相⼿が修正主義国家なのか現状維持国家なのか、決して確信が持てないということである。  
第 4 の仮定は、国家の主要な⽬標は⽣き残りであるということである。国家は領⼟の保全 と国内政治秩序の⾃律性を維持しようとする。国家は繁栄や⼈権保護など他の⽬標を追求 することもできるが、それらの⽬標は常に⽣き残りのために後回しにされなければならない。なぜなら、国家が⽣き残らなければ、他の⽬標を追求することはできないからである。  
第 5 の仮定は、国家は合理的なアクターであり、⾃国の⽣き残りの可能性を最⼤化する健全な戦略を考え出すことができるということである。しかし、国家が時折誤算を犯すことを否定するものではない。国家は複雑な世界において不完全な情報をもとに活動するため、時には重⼤な過ちを犯す。  

繰り返しになるが、これらの前提は、それ⾃体 国家がパワーをめぐって互いに競争する、 あるいは競争すべきであると⾔っているわけではない。確かに、3 番⽬の仮定は、システム の中に修正主義国家が存在する可能性を残している。しかし、それ⾃体では、すべての国家 がなぜパワーを追求するのかについては何も語っていない。すべての仮定が⼀緒になって初めて、国家がパワーバランスに気をとられるだけでなく、互いの犠牲の上にパワーを獲得 しようとする強⼒なインセンティブを獲得する状況が⽣まれるのである。 そもそも、⼤国はお互いを恐れている。⼤国の間にはほとんど信頼関係がない。⼤国は他 の国家の意図を気にしているが、その理由の⼤部分は、その意図を読み取ることが難しいか らである。⼤国が最も恐れるのは、他国が⾃国を攻撃する能⼒と動機を備えていることであ る。国家がアナーキーなシステムで活動していることは、この危険をさらに⼤きくしてい る。国家が助けを求めて救急⾞を呼んでも、国際的なシステムでは誰もその呼びかけに応じないのである。  

国家間の恐怖の度合いは事例によって異なるが、決して取るに⾜らないレベルまで下げる ことはできない。それを許すには、利害関係があまりにも⼤きすぎるのだ。国際政治は、戦 争の可能性が常に存在し、それはしばしば戦場の内外での⼤量殺戮を意味し、国家の滅亡に つながる可能性さえある、命がけのビジネスなのだ。 

⼤国はまた、⾃らが⾃助の世界で活動していることを理解している。なぜなら、他の国家 は潜在的な脅威であり、攻撃されたときに頼りになる上位の権威は存在しないからである。 これは、国家が同盟を結ぶことを否定するものではなく、それは危険な敵に対処するために しばしば有⽤である。しかし、最終的には、国家は、他の国家やいわゆる国際社会の利益よ りも⾃国の利益を優先させるしかないのである。  

他の国家を恐れ、⾃助の世界で活動することを知る国家は、⽣き残るための最良の⽅法は、 特にパワーが必要であることにすぐに気がつく。その理由は簡単で、国家が競合相⼿と⽐較してパワーがあればあるほど、攻撃される可能性は低くなるからである。例えば、⻄半球の どの国もアメリカを攻撃する勇気がないのは、アメリカが近隣諸国に対して⾮常にパワー があるからである。  

この単純な論理によって、⼤国は⾃国に有利なパワーバランスに転換する機会をうかがう ことになる。少なくとも国家は、⾃国の犠牲の上に他の国家がパワーを獲得することがない ようにしたいものである。もちろん、システム内の各国家はこの論理を理解しており、その結果、絶え間ないパワーへの競争が繰り広げられる。要するに、システムの構造上、すべて の⼤国は、そうでなければ現状に満⾜している国であっても、必要に応じて修正主義国家の ように考え、⾏動することを余儀なくされているのである。  

すべての主要国が現状に満⾜しているのであれば、平和は可能であるに違いないと考える かもしれない。しかし、問題は、国家が互いの意図、特に将来の意図について確信することは不可能であるということである。隣国は、⼀⾒すると現状維持のパワーで、実際は修正主義国家であるかもしれない。あるいは、今⽇は現状維持の国家であっても、明⽇にはその⽅針を変えるかもしれない。最終的な決定者が存在しないアナーキーなシステムでは、⽣き残 ろうとする国家は、他の国家の意図について最悪の事態を想定し、その国家とパワーを競うしかないのである。これが⼤国政治の悲劇である。 このような構造的な要求は、安全保障のジレンマ(Herz 1950; Glaser 1997 参照)という有名な概念に反映されている。このジレンマの本質は、⼤国が ⾃国の安全保障を強化するために取る措置のほとんどが、他国の安全保障を低下させるというものである。例えば、グローバルなパワーバランスの中で⾃国の⽴場を向上させる国は、他の国家を犠牲にし、相対的 なパワーを失わせることになる。このゼロサムの世界では、ある国家が他の国家の⽣存を脅かさずに、⾃らの⽣き残りの可能性を⾼めることは困難である。もちろん、脅かされた国家 は、⾃国の⽣存を確保するために必要なことを⾏い、それが他国を脅かすことになる。


パワーはどれくらいあればいいのだろうか?  

国家がどの程度のパワーを⽀配することを⽬指すべきかについては、構造的リアリストの 間でも意⾒が分かれるところである。攻撃的リアリストは、国家は常にパワーを獲得する機会をうかがっており、それが可能であると思われるときはいつでもそうすると主張する。国家はパワーを最⼤化する必要があり、その最終⽬標は覇権であり、それが⽣き残りを保証する最良の⽅法だからである。  

防御的リアリストは、国際システムがパワーをさらに増⼤させる強い誘因を作り出してい ることを認識しながらも、覇権を追求することは戦略的に愚かであると主張する。それは、 最悪の過剰拡張に他ならない。彼らの説明によれば、国家はパワーを最⼤化すべきではなく、ケネス・ウォルツが「適切な量のパワー」(1979: 40)と呼ぶものを⽬指すべきである。このような抑制は、主として次の 3 つの要因の結果である。  

防御的リアリストは、いずれかの国家があまりにも強⼒になった場合、バランシングが⾏わ れることを強調する。具体的には、他の⼤国が軍備を増強し、バランシング連合を形成して、 覇権を狙う国家の安全性を少なくとも低下させ、場合によってはそれを滅ぼしてしまう。ナ ポレオン・フランス(1792-1815)、 帝 政 ド イ ツ ( 1900-18)、 ナ チ ス ・ ド イ ツ ( 1933-45)がヨーロッパ⽀配に乗り出したとき、このようなことが起こったのである。どの覇権国家も、 他の⼤国のすべて、あるいはほとんどすべてを含む同盟によって、決定的に敗戦したのであ る。防御的リアリストによれば、オットー・フォン・ビスマルクの天才ぶりは、ドイツにと ってパワーがありすぎるのはよくないことで、近隣諸国がドイツに対してバランシングする原因になることを理解していたことである。そこで彼は、普墺戦争(1866 年)と普仏戦争(1870-1 年)で⾒事な勝利を収めた後、賢明にもドイツの膨張に⻭⽌めをかけたのであ る。 

防御的リアリストの中には、攻撃・防御バランスというものがあり、これは領⼟を征服し たり、戦闘で防御側を敗戦させたりすることがいかに容易か困難かを⽰すものだと主張す る⼈もいる。⾔い換えれば、攻撃は報われるかどうかということである。防御的リアリスト は、攻撃・防御バランスは通常、防御側に⼤きく偏っており、したがって、⼤きなパワーを獲得しようとする国家は、負け戦を繰り返すことになると主張する。したがって、国家は攻撃の無意味さを認識し、その代わりにパワーバランスにおける⾃らの地位を維持することに集中することになる。攻撃するにしても、その⽬的は限定的である。 防御的リアリストは、さらに征服が可能であっても、それは利益を⽣まない、つまり、費⽤が利益を上回ると主張する。ナショナリズムがあるため、征服者が被征服者を征服することは特に困難であり、時には不可能である。ナショナリズムのイデオロギーは広範かつ強⼒であり、すべてが⾃決を⽬的としているため、被占領⺠が占領者に対して反旗を翻すことが 事実上確実なのである。さらに、外国⼈が近代産業経済を利⽤することは難しい。主に、情 報技術は開放性と⾃由を必要とするが、それは占領にはほとんど⾒出せないからである。 要するに、征服は困難であるばかりか、⼤国が他国を征服した場合であっても、得られる利益は少なく、多くの問題を抱えることになるのである。防御的リアリズムによれば、国際シ ステムにおける暮らしに関するこれらの基本的事実は、すべての国家にとって明⽩であるべきであり、より⼤きなパワーへの欲望を制限するものである。そうでなければ、⾃国の⽣存を脅かす危険性がある。すべての国家がこの論理を認識しているならば、そして合理的な アクターであるならば、安全保障上の競争は特に激しくならないはずであり、⼤国間戦争は ほとんどなく、中央戦争(⼤国のすべて、あるいはほとんどすべてが関与する紛争)は確実に起こらないはずである。 

攻撃的リアリストは、このような議論を受け⼊れない。彼らは、脅威を受けた国家は通常、 危険な敵とバランシングすることを理解しているが、特にバランシング連合を形成する場 合、バランシングはしばしば⾮効率であり、この⾮効率性が賢明な侵略国に敵につけこむ機会を提供すると主張するのである。さらに、脅威を受けた国家は、バランシング連合に参加するよりもバックパッシングを選択することもある。つまり、他の国家にパワーある相⼿への牽制の負担を負わせ、⾃分は傍観者であろうとするのである。このような⾏動は、⼤国の間では当たり前のことであるが、侵略の機会を⽣み出すことにもなる。 攻撃的リアリストはまた、防御側が攻撃側よりかなり有利であり、したがって攻撃はほと んど報われないという主張も問題視している。実際、歴史的な記録では、戦争を仕掛けた側が勝つことの⽅が多い。覇権を握るのは難しいかもしれないが、アメリカは 19 世紀に⻄半球で覇権を握った。また、第 1 次世界⼤戦では、ドイツ帝国がヨーロッパで覇権を握る⼨前まで到達したのである。  

しかし、防御的リアリストも攻撃的リアリストも、核兵器が攻撃的な⽬的にはほとんど役 ⽴たないという点では⼀致している。理由は簡単である。双⽅が⽣き残ることのできる報復能⼒を有している場合、どちらも先制攻撃の優位性を得ることはできないからである。さら に、核武装した国家間の通常戦争は可能だが、核兵器レベルまでエスカレートする危険性が あるため、あり得ないというのが両者の⾒解である。  

最後に、攻撃的リアリストは、征服が報われないこともあることを認めつつ、報われるこ ともあることを指摘する。征服者は、情報化時代であっても、敗戦国の経済を利⽤して利益を得ることができる。実際、ピーター・リバーマンは、情報技術には「オーウェル的」な側⾯があり、それが重要な形で抑圧を促進すると論じている(1996: 126)。 ナショナリズムは確かに占領を厄介なものにする可能性を持っているが、占領された国家は、ナチス政権下のフランス(1940-4)の事例のように 、⽐較的容易に統治できることもあるのである。さらに 、戦勝国は敗戦国に対して優位に⽴つために占領する必要はない。勝者は敗戦国の領⼟の⼀部を併合したり、2 つ以上の⼩国に分割したり、あるいは単に武装解除して再武装を阻⽌し たりすることもできるのだ。  

これらの理由から、攻撃的リアリストは、⼤国が互いに優位に⽴つ機会を常に模索し、そ の最終的な報酬は覇権であると考えている。この世界における安全保障⾯での競争は激し くなり、⼤国間の戦争が起こる可能性が⾼い。さらに、潜在的な覇権国家が登場するたびに、 中央戦争という重⼤な危険が⽣じるだろう。  

過去の⼤国の⾏動は、防御的リアリズムというよりも、むしろ攻撃的リアリズムの予測に沿ったものであった。20 世紀前半には 2 つの世界⼤戦があり、3 つの⼤国が地域覇権を獲 得しようと試みたが、失敗した。ドイツ帝国、⼤⽇本帝国、そしてナチス・ドイツである。20 世紀後半は、キューバ・ミサイル危機(1962 年)を契機に、⽶ソが激しい安全保障競争 を繰り広げた冷戦の時代であった。  

防御的リアリストの多くは、⼤国がしばしば彼らの理論と⽭盾するような⾏動をとること を認めている。しかし、彼らは、それらの国家は合理的に⾏動していなかったと主張する。 したがって、帝国ドイツ、⼤⽇本帝国、ナチスドイツが、彼らが愚かにも始めた戦争で破壊されたことは驚くにはあたらないのである。パワーを最⼤化する国家は、⽣き残りの可能性を⾼めるのではなく、それを損なうものであると、彼らは主張する。 

これは確かに正当な主張であるが、防御的リアリストは、国家がしばしば戦略的に愚かな⾏動をとることを認めると、国家が彼らの構造的リアリスト理論の指⽰にしたがって⾏動する場合とそうでない場合を説明する必要があるのである。したがって、ウォルツは、⾃ら の国際政治理論を、誤った国家⾏動を説明できる別の外交政策理論によって補完する必要 があると主張しているのは有名な話である。しかし、その追加的な理論は、必ず国内政治的 な配慮を強調するものであり、構造的リアリストの理論とは⾔えないのだ。  

バリー・ポーゼン、ジャック・スナイダー、スティーブン・ヴァン・エヴェラといった防 御的リアリストの理論は、この単純なウォルツのテンプレートに忠実である。それぞれ、構造的な論理でそれなりの国家⾏動を説明することはできるが、構造的リアリズムでは説明できない部分も相当あると主張している。したがって、⼤国が⾮戦略的に⾏動する事例を説 明するための代替理論が必要である。そのために、ポーゼン(1984)は 組織論に、スナイダー( 1991)は国 内体 制論に、ヴァ ン・エヴェラ( 1999)は軍国主 義 に、それ ぞ れ 依拠 してい る。ウォルツの⾔葉を借りれば、それぞれが外交政策論を提唱しているのである。要するに、 防御的リアリストは、国家が国際システムの中でどのように⾏動するかを説明するために、 構造的リアリズムを超えなければならないのである。彼らは、世界がどのように機能するか を説明するために、国内レベルの理論とシステムレベルの理論を組み合わせなければなら ないのである。  

⼀⽅、攻撃的リアリストは、国際政治を説明するために、もっぱら構造的な議論に依存す る傾向がある。攻撃的リアリストが⾔うように、世界はそのように⾒えるものであるため、彼らは外交政策について明確な理論を必要としない。しかし、このことは、1900 年から 1945 年の間にドイツがヨーロッパで覇権を追求し、1931年から1945年の間に⽇本がアジアで 覇権を追求することが戦略的に意味があったことを実証する必要があることを意味する。 もちろん、攻撃的リアリストは、国家が時として戦略的に愚かな⾏動をとることがあり、そ のような事例が⾃らの理論に⽭盾することを認識している。防御的リアリストは、攻撃的リアリストにはない、戦略的でない⾏動の事例を別の外交政策理論で説明することができる。


⼤国間戦争はなぜ起こるのだろうか?  

構造的リアリストは、国家が戦争を起こす理由はいくつもあることを認識しており、その ため、戦争の主な原因として単⼀の要因を指摘する単純な理論を打ち⽴てることは不可能である。国家が敵対国に対するパワーを獲得し、⾃国の安全保障を強化するために戦争を始めることがあるのは間違いない。しかし、安全保障は必ずしも国家に戦争を決断させる主要 な原動⼒ではない。イデオロギーや経済的な配慮が最優先されることもある。例えば、ビスマルクがデンマーク(1864 年)、オーストリア(1866 年)、フランス(1870-1 年)に対して 戦争を仕掛けた主な理由はナショナリズムであった。プロイセンの指導者は、統⼀ドイツを作りたかったのである。  

⾮安全保障的な配慮を主な動機とする戦争は、侵略国がパワーバランスにおける⾃国の⽴ 場を損ねるような⾏動を意図的にとらない限り、構造的リアリズムと整合的である。実際、 戦争に勝てば、紛争を起こした理由にかかわらず、国家の相対的なパワーポジションが向上 することがほとんどである。1870 年以降に誕⽣したドイツ国家は、1862 年にビスマルクが⽀配したプロイセン国家よりもはるかにパワーがあるのだ。 

すべての戦争の原因を特定することは有益な試みではないが、構造的リアリストは、戦争 の可能性は国際システムの構造によって影響を受けると主張する。リアリストの中には、シ ステム内の⼤国や極の数が重要な変数であると主張する者もいれば、主要国家間のパワー 分布に注⽬する者もいる。第 3 のアプローチは、パワー分布の変化が戦争の可能性にどの ような影響を及ぼすかに注⽬するものである。最後に、攻撃・防御バランスの変化が戦争の可能性に最も⼤きな影響を及ぼすと主張するリアリストもいる。  


システムの極について
  

リアリストの間では、多極(3 カ国以上の⼤国)と⽐較して、⼆極(2 つの⼤国)が戦争を引き起こしやすいのか、そうでないかという議論が⻑く続いている。国家システムが 1648 年に誕⽣してから 1945年の第2 次世界⼤戦終結までは多極であったというのが⼀般的な⾒⽅である。第 2 次世界⼤戦直後に始まり、1989 年まで続いた冷戦の間だけは⼆極であった。  

多極よりも⼆極の⽅が平和的であることは、20 世紀のヨーロッパの歴史から明らかであ る、と主張したいところである。20 世紀前半の多極の時代には 2 つの世界⼤戦があり、後半の⼆極の時代には⽶ソの間で銃撃戦がなかったのである。  

しかし、この主張は、19世紀を含む年表になると、説得⼒を失う。1815年から1853年まで、そして1871年から1914年まで、ヨーロッパのどの⼤国間でも戦争はなかった。多極化したヨーロッパで起こったこれらの⻑期間の相対的安定は、冷戦の「⻑い平和」と⽐べて も遜⾊のないものである。このように、近代ヨーロッパの歴史を⾒て、⼆極と多極のどちら が⼤国間戦争を起こしやすいかを判断することは難しい。 

しかし、これらの相反する⾒解の⽀持者は、歴史的な事例だけに頼らず、理論的な議論も⾏っている。⼆極の⽅が戦争が起きにくいと考えるリアリストは、3 つの主張を展開してい る。
第 1 に、多極の⽅が⼤国同⼠が戦う機会が多いということである。⼆極体制では、⼤国 は 2 つしかないため、⼤国対⼤国の対⽴は 1 つしかない。これに対し、多極では、⼤国が 3つあれば 3 つの潜在的な対⽴軸が存在し、⼤国の数が増えれば増えるほど、その潜在的な 対⽴軸は⼤きくなる。  
第 2 に、⼆極では⼤国間の平等性が⾼まる傾向がある。⼤国が多いシステムほど、軍事⼒ の主要な構成要素である富と⼈⼝が⼤国の間で偏在する可能性が⾼くなるからである。また、パワーが不均衡な場合、強い者が弱い者につけ⼊る隙を与えることが多い。さらに、多 極システムにおいては、2 つ以上の⼤国が第 3 の⼤国を狙い撃ちにすることも可能である。 このような⾏動は、⼆極体制では定義上、不可能である。  
第 3 に、多極の下では誤算の可能性が⾼く、誤算が戦争勃発の⼀因となることが多い。具体的には、⼆極では⼤国が 1 つしかないため、潜在的な脅威がより明確となる。その 2 つ の国家は必ずお互いを重視し、互いの能⼒や意図を⾒誤る可能性は低くなる。これに対し、多極の世界では、⼤国は数えるほどしかないが、通常、流動的な環境の中で活動しており、敵味⽅の識別や相対的な強さの確認がより困難である。  

また、バランシングは⼆極システムにおいてより効率的であると⾔われるが、それは各⼤ 国が相⼿と直接対決する以外に選択肢がないからである。結局のところ、バランシングを⾏うことができる、あるいはバランシング連合に参加することができる他の⼤国は存在せず、⼩国は有⽤な同盟者となることができるが、全体のパワーバランスを決定することはできない。しかし、多極の下では、脅威を受けた国家は、しばしば他の脅威を受けた国家にバックパッシングをしたくなるものである。バックパッシングは魅⼒的な戦略であるが、侵 略 国 が敵対国を孤⽴させ、敗戦させることができると考える事態を招きかねない。もちろん、脅威にさらされている国家は、バックパッシングを⾏わず、脅威を与えている国家に対抗する同盟を結ぶこともできる。しかし、同盟を組むということは、しばしば不確実な過程である。

侵略国は、対抗する連合が完全に形成される前に、⽬的を達成できると結論づけるかもしれ ない。このような⼒学は、2 つの敵対国が互いのことだけを考えている単純な⼆極世界には存在しないのである。  

しかし、すべてのリアリストが、⼆極が平和を促進するという主張を受け⼊れているわけ ではない。多極の⽅が戦争が起きにくいという主張もある。この⾒解では、システム内の⼤ 国が多ければ多いほど、平和の⾒通しが良くなるとする。このような楽観的な考え⽅は、次の2点に基づいている。
第1に、多極の下では、特に攻撃的な国家に圧倒的な⼒でもって 対抗できる国家が多いため、抑⽌がはるかに容易である。⼆極では、他にバランスをとる相⼿がいない。多極の中でバランシングすることは、時には⾮効率的かもしれないが、最終的 には連合が形成され、侵略国は敗戦する。ナポレオン・フランス、帝国ドイツ、⼤⽇本帝国、ナチス・ドイツは皆、厳しい経験でそれを学習したのであった。  
第2に、多極においては、⼤国間の敵対関係がはるかに少なく、それは⼤国が互いに払う 注意の量が⼆極よりも少ないからである。⼤国が 2 つしかない世界では、それぞれが相⼿に関⼼を集中させる。しかし、多極の世界では、国家は近隣諸国のいずれかに過剰な関⼼を寄せることはできない。すべてのパワーに注意を払わなければならないのである。さらに、多極システムにおけるさまざまな国家間の多くの相互作⽤は、紛争を緩和する数多くの横断的な⻲裂を⽣み出す。つまり、複雑であることが、⼤国間の戦争の可能性を減退させるの である。  

冷戦の終結とソ連の崩壊により、多くのリアリストは、⼀極集中が到来したと主張してい る(Wohlforth 1999)。つまり、アメリカは唯⼀の⼤国である。アメリカは世界の頂点に⽴っ ており、これは他のどの国も成し得なかった偉業である。しかし、他のリアリストは、冷戦 後のシステムは多極化しており、⼀極化してはいないと主張する。アメリカは地球上で最も パワフルな国家であるが、中国やロシアなど他の⼤国も存在する、というのである。 国際システムが⼀極集中であった場合、国際的な安定性にはどのような影響があるのだろ うか。このような世界は、⼆極世界や多極世界のいずれよりも平和になる可能性が⾼い。最 も重要なことは、⼤国が 1 つしかない⼀極集中では、⼤国間の安全保障上の競争や戦争は起こりえないということである。さらに、⼩国はあえて⼀極と戦わないようにする可能性が⾼い。⻄半球を考えてみると、アメリカが明らかに覇権を握っている。あの地域のどの国家 も、簡単に決定的な敗北を喫することを恐れて、進んで⽶国と戦争を始めようとしない。こ の同じ論理は、もしアメリカが世界の覇権国家であったなら、世界のすべての地域に適⽤さ れるであろう。  

この議論には、2 つの注意点がある。覇権国が他の⼤国の不在に安⼼し、軍事⼒の⼤半を ⾃国地域に引き上げた場合、放棄した地域で安全保障上の競争、ひいては戦争が勃発する可 能性が⾼い。何しろ、それらの場所にはもはや秩序を維持するための唯⼀の極が存在しなく なるのである。⼀⽅、覇権国家は、その優位な⽴場から、その強⼤な軍事⼒をもって遠⽅の 地域の政治を再編成する好機と考えるかもしれない。ライフル銃の銃⾝の先で⼤規模な社 会⼯学に取り組むグローバルな覇権国家が、世界平和を促進することはないだろう。それで も、⼀極集中の中で⼤国間の戦争はありえない。  


バランスのとれたパワーまたはアンバランスなパワー
  

リアリストの中には、戦争の勃発を説明するために⼤国の数に注⽬するのではなく、⼤国 がそれぞれどの程度のパワーを⽀配しているかが重要な説明変数であると主張する者もい る。パワーは、⼤国の間で多かれ少なかれ均等に配分される。⼤国間のパワーの⽐率は平和 の⾒通しに影響を与えるが、重要なのはシステム上で最も強⼒な 2 国間の⽐率である。し かし、1 位と 2 位の差が⼩さければ、すべての⼤国にパワーが均等に分配されているわけではないが、⼤まかなパワーバランスは取れていると⾔える。重要なのは、2 つの主要な国家 の間に顕著なパワーの差がないことである。 リアリストの中には、特にパワーのある国家が存在すれば、平和が促進されると主張する者もいる。この主張によれば、圧倒的なパワーを持つ国は、競合相⼿と⽐較してパワーがあ るため、安⼼感を持つことができ、パワーバランスにおける⾃らの地位を向上させるために武⼒を⾏使する必要性はほとんどないことになる。また、他のどの⼤国も、有⼒な⼤国に戦 いを挑むことはないだろう。なぜなら、彼らはほぼ間違いなく負けるからである。しかし、それほど⼤きくない⼤国同⼠の戦争は可能である。なぜなら、少なくとも 2 つの⼤国のパ ワーバランスはほぼ等しくなることがあり、その結果、⼀⽅が他⽅を敗戦させる可能性はあ る。しかし、その場合でも、優位に⽴つ⼤国が、そのような戦争が有利な国際秩序を乱すか もしれないと考えるなら、それを阻⽌する、あるいは少なくともそれを異常事態とするため の⼿段を持つべきであろう。  

この視点の提唱者が強調する歴史的事例は、1815 年のナポレオン敗戦から 1914 年の第 1次世界⼤戦勃発までの期間である。この 100 年間に⼤国間の戦争は 5 回しかなく(1853-6、1859、1866、1870-1、1904-5)、 こ の 期 間 を 括 る 2 つの紛争のような中央戦争は 1 つもなか った。このように⽐較的平和な時代が⻑く続いたことは、パックス・ブリタニカと呼ばれる こともあるが、これは英国が国際システムの中で圧倒的な地位を占めた結果であると⾔わ れている。逆に、この前後に中央戦争があったのは、ナポレオン時代のフランスと帝国時代のドイツがそれぞれ英国とほぼ同等のパワーを持っていたからである。 他のリアリストは、反対の⾒⽅をし、優越が戦争の可能性を⾼めると主張する。実際、シ ステム内に特にパワーのある国が存在する場合、中⼼的な戦争が起こる可能性が⾼い。この視点によれば、優位に⽴つパワーは、潜在的な覇権国家である。その国は、システムを⽀配するための⼿段を持ち、それが国際的なアナーキー状態において⽣き残るための最良の保証となるのである。したがって、現状に満⾜することなく、覇権を獲得する機会をうかがう ことになる。⼤国間がほぼ平等であれば、どの国家も覇権を本気で狙うことはできず、命が けの中央戦争は起こりえない。⼤国間戦争は起こりうるが、パワーが均等に配分されている ため、他の⼤国と争うインセンティブが低くなるのだ。  

この⾒解の⽀持者は、ナポレオン戦争は、18 世紀後半にフランスが潜在的な覇権国家であ ったことが⼤きな原因であったと主張する。2 つの世界⼤戦は、20 世紀前半にドイツが 2度にわたってヨーロッパの覇権を握る⽴場にあったために起こったものである。1815 年か ら 1914 年までの⻑期にわたる相対的な平和は、英国が圧倒的なパワーを持っていなかった ため、パックス・ブリタニカのおかげではなかった。結局、英国に対してバランシングする

連合は形成されず、欧州の⼤陸勢⼒はほとんど恐れていなかったのである。この 100 年間 にヨーロッパで⻑い平和な時期があったのは、多極化したヨーロッパで⼤まかなパワーバ ランスが保たれていたからである。バランスのとれた多極ではなく、アンバランスな多極は、 ⼤国間戦争のリスクを増⼤させる。  


パワーシフトと戦争  

他のリアリストは、⼤国の数や各⼤国が⽀配するパワーの⼤きさといった静的な指標に注⽬することは誤りであると主張する。その代わりに、パワーバランスのダイナミクス、特に パワー配分に⽣じる重⼤な変化に焦点を当てるべきであると主張している(Copeland 2000)。 こ の 学 派 の 主 張 で 最 も よ く 知 ら れ て い る の は 、 優 勢 な パワーが台頭する挑戦者に直⾯すると、通常、中央戦争が発⽣するため、特に危険な状況が⽣じるというものであろう。

⽀配的な国家は、パワーの頂点に⽴つ⽇数が限られていることを⾃覚しており、挑戦者の台 頭を⾷い⽌めるために予防戦争を仕掛ける強い動機を持っている。もちろん、衰退する国家 は、成⻑する敵対国に対して決定的なパワーアドバンテージを享受しているうちに⾏動し なければならない。⼀部の学者は、このシナリオでは、台頭するパワーが戦争を開始する可 能性が⾼いと主張する。しかし、それはあまり意味がない。なぜなら、時間は上昇するパワ ーの側にあり、先⾏する国家に追いつき、追い越すために戦争をする必要はないからである。 

2 つの世界⼤戦の起源は、このような議論に基づくと⾔われている。ドイツは 2 つの⼤戦前、ヨーロッパの⽀配的なパワーを誇っていたが、その度に東側に台頭してくる挑戦者に直⾯していた。1914 年以前はロシア、1939 年以前はソビエト連邦である。ドイツは衰退を防ぎ、ヨーロッパのパワーバランスにおける⽀配的な地位を維持するために、1914 年と 1939 年に予防戦争を起こしたが、いずれも壊滅的な中央戦争に発展してしまった。


攻撃・防御バランス  

前述のように、防御的リアリストの中には、攻撃・防御バランスが存在し、それはほとん ど常に防御に有利であり、したがって安全保障競争を抑制するように働くと主張する者も いる。そのため、このバランスは平和のための⼒である。しかし、防御的リアリストの中に は、攻撃・防御バランスに⼤きな差異があることを認め、攻撃の優位性は戦争につながりやすく、⼀⽅で、防御の優位性は平和を促進すると主張する者もいる。例えば、第 2 次世界⼤ 戦は、戦⾞と急降下爆撃機が電撃戦のドクトリンに組み込まれたことで、攻撃と防御のバランスが著しく攻撃に有利になったために起こった。⼀⽅、冷戦時代に⽶ソの間で銃撃戦が起こらなかったのは、核兵器の登場によって、攻撃・防御バランスが著しく防衛側に傾いたか らである。  

要するに、さまざまな構造的な議論が、⼤国間戦争の可能性が⾼くなる時期や低くなる時

期を説明しようと試みているのである。それぞれが異なる因果関係の論理を持ち、それぞれ が異なる⽅法で歴史的記録を眺めている。  


事例研究:中国は平和的に台頭できるだろうか?
 

中国経済は 1980 年代初頭から驚異的なペースで成⻑しており、多くの専⾨家は今後数⼗ 年間も同様のペースで経済が拡⼤すると予想している。そうなれば、膨⼤な⼈⼝を抱える中 国は、いずれ特に強⼒な軍事⼒を構築する余⼒を持つようになるだろう。中国が軍事⼤国に なることはほぼ確実だが、中国がその軍事⼒を使って何をするのか、⽶国や中国のアジア近隣諸国がその台頭にどう対応するのかは、まだ未解決の問題である。  これらの問いに対する構造的リアリストの答えは⼀つではない。リアリストの中には、中 国の台頭が深刻な不安定化を招くと予測するものもあれば、パワーあふれる中国が近隣諸国や⽶国と⽐較的平和な関係を築けると考える根拠となるものもある。まず、攻撃的リアリ ズムから⾒てみよう。攻撃的リアリズムは、台頭する中国と⽶国が激しい安全保障競争を繰り広げ、戦争の可能性も⼗分にあると予測するものである。


攻撃的リアリズムによる中国の台頭  

攻撃的リアリズムによれば、⼤国の究極の⽬標は覇権を獲得することであり、それが⽣き 残りのための最善の保証になるからである。しかし、実際には、どの国も世界的な覇権を獲 得することはほとんど不可能である。なぜなら、地球上のどの地域にも、また遠く離れた⼤ 国の領⼟にもパワーを投射し維持することはあまりにも困難だからである。国家が望む最善の結果は、地域覇権、つまり⾃国の地理的な領域を⽀配することである。⽶国の「建国の⽗」とその後継者たちは、この基本的な論理を理解し、⽶国を⻄半球の⽀配的なパワーにす るために鋭意努⼒した。そして、1898 年、ついにこの地域の覇権を獲得した。その後、⽶国はさらにパワーを増し、今⽇ではシステム上最も強⼒な国家となっているが、世界的な覇権国家ではない。  

地域覇権を獲得した国家は、他の地域の⼤国がその技術を真似ることを防ぐという⽬的も 持っている。地域覇権国は、同等の競争相⼿を求めない。その代わりに、他の地域を複数の 国家に分割しておき、その国家が互いに競争し、⾃分たちを重視する⽴場にならないように したいのである。このように、地域⽀配を達成したアメリカは、他の⼤国がアジアやヨーロッパを⽀配するのを阻⽌するために、多⼤な努⼒を払ってきたのである。20 世紀には、地域覇権を握る能⼒を持った⼤国が 4 つあった。帝国ドイツ(1900-18)、 ⼤ ⽇ 本 帝 国 (1931-45)、 ナ チス・ドイツ(1933-45)、 ソビエト連邦(1945-89)である。いずれの事例でも、アメリカはそれらの覇権を狙う国を敗北させ、崩壊させる上で重要な役割を果たした。つまり、 どのような⼤国であれ、理想的な状況は、世界で唯⼀の地域覇権国家になることなのである。 攻撃的リアリズムが正しいとすれば、台頭する中国が⽶国を模倣し、アジア地域の覇権国家になろうとすることが予想される。中国は、⾃国と近隣諸国、特に⽇本とロシアとの間の パワーギャップを最⼤化しようとするだろう。中国は、アジアのどの国家も⾃国を脅かす余 地のないほど強⼒な存在であることを確認したいのである。19 世紀にアメリカがヨーロッパの⼤国を⻄半球から追い出したように、パワーを増した中国は、⽶軍をアジアから追い出そうとする可能性もある。中国は、⾃国版のモンロー・ドクトリンを打ち出すことが予想される。  

中国の⽴場からすれば、このような政策⽬標は戦略的に理にかなっている。⽶国が軍事的 に弱いカナダとメキシコを国境に置くことを好むように、北京は軍事的に弱い⽇本とロシ アを隣国とすることを望むはずである。すべての中国⼈は、前世紀に⽇本が強⼒で中国が弱かったときに何が起こったかを覚えている。さらに、なぜパワーのある中国が、その裏庭で⽶軍が活動することを受け⼊れるのだろうか。アメリカの政策⽴案者は、他の⼤国が⻄半球に軍隊を送り込むと憤慨する。⽶国の安全保障に対する潜在的な脅威と⾒なされるからで ある。同じ論理が中国にも当てはまるはずだ。 

中国がアジアを⽀配しようとすれば、⽶国の政策⽴案者がどのような反応を⽰すかは、歴 史的な記録から明らかである。⽶国は、20 世紀に⽰したように、競争相⼿を容認せず、唯⼀の地域覇権国であり続けることを決意している。したがって、⽶国は中国を封じ込め、最終的には中国がアジアの覇権を握る脅威とならない程度に弱体化させるために懸命に努⼒ することになる。要するに、アメリカは中国に対して、冷戦時代にソ連に対して⾏ったのと同じような振る舞いをする可能性があるのだ。  

中国の近隣諸国もまた、中国の台頭を恐れるに違いなく、中国の地域覇権を阻⽌するため にあらゆる⼿段を講じるだろう。実際、インド、⽇本、ロシアなどの国や、シンガポール、韓国、ベトナムなどの⼩国は、中国の台頭を懸念し、それを抑制する⽅法を模索しているこ とがすでに明らかになっている。最終的には、冷戦時代に英国、フランス、ドイツ、イタリア、⽇本、そして中国が⽶国と⼿を組んでソ連を封じ込めたように、⽶国主導のバランシング連合に加わって中国の台頭を牽制することになるのだろう。  


防御的リアリズムに基づく中国の台頭
 

攻撃的リアリズムとは対照的に、防御的リアリズムは、中国の台頭についてより楽観的な⾒⽅を⽰している。確かに、防御的リアリストは、国際システムが、国家がその⽣き残りを かけてさらなるパワーを求める強い誘因を作り出していることを認識している。強⼤な中 国も例外ではなく、⾃国に有利なパワーバランスに変化させる機会をうかがうだろう。さら に、⽶国と中国の近隣諸国は、中国を牽制するために、中国に対してバランシングしなければならなくなる。中国が強⼒になるにつれて、アジアから安全保障競争が完全になくなるこ とはないだろう。防御的リアリストは、星の数ほどいる理想主義者ではない。 しかし、防御的リアリズムは、中国の台頭をめぐる安全保障上の競争が激しくなることは なく、中国は周辺諸国や⽶国と平和的に共存できると考える根拠を与えている。まず、⼤国 が覇権を追求することは戦略的に意味がない。なぜなら、敵対する国はバランシング連合を形成し、それを阻⽌する(もしかしたらつぶすかもしれない)だろうからである。中国の指 導者は、覇権主義に⾛ってドイツを破滅に導いたカイザー・ウィルヘルムやアドルフ・ヒトラーではなく、ヨーロッパを⽀配しようとせず、それでもドイツを偉⼤にしたビスマルクの ように振る舞う⽅がずっと賢明であろう。中国がアジアでパワーを獲得しようとすること を否定するものではない。しかし、構造上、その⽬的は限定的であり、世界のパワーのシェ アを最⼤化しようとするような愚かなことはしないはずである。限られた欲望を持つ強⼒ な中国は、封じ込めもしやすく、協⼒的な取り組みもしやすいはずである。 

核兵器の存在も楽観視できる要因の 1 つである。核兵器を保有する他の⼤国と対峙する場 合、いかなる⼤国も拡⼤することは困難である。インド、ロシア、⽶国はいずれも核兵器を 保有しており、⽇本も中国に脅威を感じれば、すぐに核武装することができる。反中バラン シング連合の中核をなすであろうこれらの国々は、核兵器を持っている限り、中国が簡単に押しのけることはできないだろう。それどころか、中国は核兵器レベルにまで拡⼤する紛争 の引き⾦を引くことを恐れて、これらの国々に対して慎重に⾏動する可能性が⾼い。要する に、中国がこのまま台頭すれば、核兵器は平和のための⼒となるのである。 

最後に、中国が他のアジア諸国を征服することによって何を得るのかが⾒出しにくい。中国 の経済成⻑は海外進出なしでも⽬覚しいものがあり、巨万の富を築くのに征服は不要であ ることが証明されている。さらに、もし中国が国々を征服し、占領し始めたら、⽀配下に置かれた⼈々から激しい抵抗を受ける可能性がある。⽶国のイラクでの経験は、ナショナリズ ムの時代における拡張の利点はコストに勝るという中国への警告となるはずだ。 これらのことから、中国の台頭は⽐較的平和的であるべきと考えられるが、防御的リアリ ストは、国内政治への配慮から、北京が戦略的に愚かな⾏動をとる可能性を認めている。結局のところ、彼らは、帝国ドイツ、⼤⽇本帝国、ナチス・ドイツが無謀な覇権主義に⾛った ことを認めているのである。しかし、彼らは、これらの⼤国の⾏動の動機は、国内の政治的病理であり、健全な戦略上の論理ではなかったと主張する。しかし、中国も同じような道を たどる可能性があり、その場合、中国の台頭は決して平和的なものではないだろう。 中国の台頭が平和的であるかどうかを評価する構造的リアリストの視点は他にもある。⼀部の構造的リアリストが主張するように、世界が⼀極であるとすれば、中国のパワーの増⼤ は、いずれ⼀極に終⽌符を打つことになる。なぜなら、⼀極集中では⼤国間の戦争は起こり えないが、中国と⽶国の両⽅が⼤国であれば、確実に戦争が起こりうるからである。さらに、⽇本が核武装し、ロシアが体制を整え、インドが台頭を続ければ、システム上、⼤国は⽚⼿で数えられる程度になり、⼤国間紛争の可能性はさらに⾼まることとなる。 もちろん、中国の台頭によって、⼀極集中ほどではないにせよ、⽐較的平和な構造である⼆極化が進むという意⾒もあるだろう。冷戦時代、超⼤国間で撃ち合いになったことはない。

実際、キューバ・ミサイル危機以降、両国の安全保障上のコミットメントは特に激しくなか った。それ以前はもっと危険だった。⽶ソは核⾰命に対応しなければならなかったし、⼆極化という新しい、馴染みのない構造の中で、互いに対処するためのルールを学ばなければな らなかったからだ。しかし、中国と⽶国は、冷戦の間に学んだことの恩恵を受け、1962年以降、モスクワとワシントンが互いに対処したように、最初から対処することができるだろう。  

構造的リアリストのすべてが、多極よりも⼆極の⽅が平和になりやすいという議論を受け⼊れているわけではない。彼らにとっては、⼆極に戻ることは悲観的なことなのである。し かし、中国の台頭が他の⼤国の台頭を伴うならば、多極化はそのリアリストに楽観的な⾒⽅ を与えるだろう。 

最後に、優越が平和を⽣み出すと考える構造的リアリストにとって、中国の台頭は不吉なニュースである。彼らは、⽶国のパワーは国際政治を平和にする効果があると主張する。⽶国が世界のパワーの頂点にある限り、他の⼤国はもちろん、⼩国も⽶国に戦いを挑む勇気は ないだろう。しかし、中国が⽶国とほぼ同等のパワーを持つようになれば、その状況は明らかに変化する。中国が⽶国に匹敵するほどのパワーを持つようになれば、優位性は失われ、 世界はより危険な場所となる。実際、こうしたリアリストは、⽶国が衰退を防ぐために中国 に対して予防戦争を仕掛ける強い動機を持つだろうと主張するだろう。 要するに、構造的リアリストの間では、中国が平和的に台頭できるかどうかについてのコンセンサスは得られていない。このような⾒解の多様性は、同じリアリストの間でも、国家 がどれだけのパワーを求めるべきか、また何が戦争を引き起こすかについて意⾒が分かれ ていることから、驚くにはあたらない。唯⼀、⼀致する重要な点は、国際システムの構造が、 ⼤国間のパワー競争を強いるということである。  


結論
 

1990 年代、世界は急速に平和になり、リアリズムは死んだと識者や学者が宣⾔するのは当たり前のことであった。冷戦の終結により、国際政治は⼀変したと⾔われた。環境経済的なグローバリゼーションは国家を縛り、その終焉を予⾔する者さえいた。また、⻄側のエリー トが初めて国際政治についてより協⼒的で希望に満ちた⾔葉で考え、語り、知識のグローバ ル化がその新しいアプローチの普及を促進していると主張する者もいた。  

多くの⼈は、⺠主主義が世界中に広がりつつあり、⺠主主義国は互いに争わないラメ、我々は「 歴史の終わり」に 到達 したと主張した( 古典 的リ ベ ラ リズムについては、第 5 章で詳し く述べる)。また、国際機関がようやく、主要なパワーがリアリズムの命令ではなく、法の⽀配に従って⾏動するように仕向ける能⼒を⾝につけたと主張する者もいた。  

9 ⽉ 11 ⽇以降、その楽観論は完全に消え去ったわけではないにせよ、⾊あせ、リアリズム が⾒事に復活したのである。その復活の背景には、⽶国と英国にとって戦略的⼤失敗となっ たイラク戦争に、ほとんどすべてのリアリストが反対したことがある。しかし、もっと重要なことは、グローバリゼーションや国際機関が国家を機能不全に陥れたと考える理由はほとんどないことだ。実際、国家には明るい未来があるように⾒える。主に、国家を美化する

ナショナリズムが依然としてパワーある政治イデオロギーであるためだ。未曾有の経済統合が進んだ⻄ヨーロッパでも、国家は健在である。  

さらに、軍事⼒は依然として世界政治における重要な要素である。世界の 2 ⼤⾃由⺠主主義国である⽶国と英国は、1989 年の冷戦終結後、5 回の戦争を共に戦ってきた。イランと北朝鮮は、核拡散が依然として⼤きな問題であることを⽰唆している。インドとパキスタン が核兵器を含む銃撃戦に⾄るという、もっともらしいシナリオを想定することは難しくな い。また、中国と⽶国が台湾や北朝鮮をめぐって戦争に巻き込まれる可能性も、ありえない ことではないが、ありうるのである。中国の台頭については、楽観論者でさえ、このグローバルなパワーの⼤きな変化をめぐる政治の取り扱いを誤れば、深刻な問題が⽣じる可能性があることを認めている。  

場所や時間によって脅威の度合いは異なるが、要するに世界は危険な場所であることに変わりはない。国家は⾃国の存続を危惧し、パワーバランスに注意を払わざるを得ない。国際 政治がパワーポリティクスと同義であることは、歴史上も変わらない。したがって、国際関係学を学ぶ学⽣は、パワーという概念についてじっくりと考え、国家はなぜパワーを追求す るのか、パワーはどの程度あれば⼗分なのか、安全保障競争はいつ戦争につながるのか、と いった⾃分なりの考えを持つことが必要である。このようなことを賢く考えることが、賢い 戦略を⽴てることにつながり、それこそが国家が国際的なアナーキーの危険を軽減する唯⼀の⽅法なのである。  

問い 
・国際的なアナーキー状態にある国家は、なぜ互いを恐れるのだろうか? 
・国家の意図を判断する確実な⽅法はあるのだろうか? 
・中国の台頭は、1900 年から 1945 年までのドイツの台頭のようなものになりそうなのだ ろうか? 
・国家が覇権を追求することは意味があるのだろうか? 
・冷戦はなぜ熱い戦争にならなかったのだろうか? 
・国家が合理的であると仮定することは意味があるのだろうか? 
・バランシングは攻撃的な国家に対する確実な抑⽌⼒となるのだろうか?
・安全保障のジレンマとは何だろうか、そしてその解決策はあるのだろうか? 
・アメリカは世界の覇権国家なのだろうか? 
・⼀極は⼆極や多極より平和的なのだろうか? 
・現代ヨーロッパにリアリズムは有効だろうか? 
・⼤国政治の悲劇とは何だろうか?  

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