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インターネットに思うこと。

noteという媒体
spoonという配信媒体
Twitter
Instagram
あるいは別のSNSコロニーを漂流するうち、
結局、感受性とロジックのバランスでしかない事に疲弊する。

他人を否定する人(僕を含む)
他人を賞賛する人(僕を含む)
他人を軽視する人(僕を含む)

どこまで行っても他者と自分の対比構造でしかない。
或いは他人と他人の。
それを客観視し、傍観し、批評し、思い思いの基準を書き殴って、
誰もが投稿する。発信する。

ちり紙の裏で代用が効くもの。

答えがないことに当たりをつけ、
大体こうだろう、なぜならこういう例があってこうなのだからこうなるはず、という意見を出す。
それは一面にしか過ぎない。
分かっていながら、
しかし意見を持たないという事は
社会では存在しないのと同じで、
無を、死を意味する。
それを恐れる。
だからそれっぽい何かを口にして、
咀嚼し、それっぽい何かを吐き出す。
吐きダコができてもおかしくはない。
現代人のスマホを持つ手には、
さぞや吐きダコが多く見られるだろう。
それすら一面にしか過ぎない。

承認欲求などという言葉はもう俗語で、
SNSが地球を覆って、
言葉が個という無形物となり、
他人の中で変質し、また吐き出され、
イデオロギーが拡散し、
それに反発したり融合したりして、
僕らはトークン化していく。

それは色や顔があり声もある、
『個』だという。
『価値』もあるらしい。
何者にでもなれるおもちゃ箱である。
さながら学芸会であり、
それを否定も賞賛もされる、
理想郷。ディストピアでもある。

人間がAI化しているのかAIが人間に近くなっているのか、あるいはその両方かもしれないが。
単に人間の感情が電気信号に起因されるとしても、それはさして問題では無い。

ひとつの意見はひとつの意見でしかなく、
その1個の言葉の裏には様々な意味があり、理由がある。
根拠はないかもしれない。
しかし感情がある。
根拠があっても無機質であるかもしれない。

インターネットにいると、
ついそれを見落としがちになる。
いや、そうじゃなくても僕らは実社会で『それ』を見なかった振りで済ましているはずだ。
わざと曲解したり、
好意的に解釈したり、
否定的に断罪したりする。
自分の見たいものを見て、
見たくないものを見なければいいのに批判する。

なら、言葉に意味はあるのかと問われれば、
それでも僕は『ある』と答えるだろう。
一定の条件下において、間違いなくある。

それは揺らぎだ。
感情と論理の狭間で、ふいに出た何気ない言葉の揺らぎにその人の本音が垣間見える。
それこそが本質であり、
人を見る、ということなのだと思う。

それが見たいから僕はインターネットにいて、
汚いものも綺麗なものも享受する。
辛い目にも遭うし、嫌な気持ちにもなる。
憤るし、嬉しかったり楽しかったり、
時には涙する。

コンテクストコミニュケーションをする。

言葉は崇高では無い。
才能も。
人間も一皮むけば、ただの内臓器官が詰まった音を発するものに過ぎない。

細胞に色々な継ぎ足しをして生まれ育ったのが、
僕であり貴方だ。
そういうものなのだ。
そこから始めるべきなのだ。

画面の奥に人がいる、と僕らはよく言う。
しかし、必要なのは、
画面の前にいる自分が言葉を使う『何か』であるということを認識することなのだと思う。
その先に他者がいる。

自己認識
自己承認
そして他人を受け入れるということ。
自分と他人を『個』だと認識するということ。

100年先、もっとその先に、
今ある言葉が跡形も無く、
無くなったとしても、
僕は僕の言葉と貴方の言葉を覚えていたい。

その時僕がいなかったとしても、
貴方がいなかったしても。

人に当たり前にある死や美しさを、 詩や文で紡いでいます。 サポートをしていただければ製作の糧になります。 是非よろしくお願いいたしますm(__)m