平野馨生里(ひらの・かおり)

石徹白洋品店(いとしろようひんてん)代表。岐阜の山奥の集落・石徹白に受け継がれる服「たつけ」などを復刻し製造、販売している。藍染、草木染めを畑で材料を栽培するところから行っている。先人の知恵を学び、現代にいかに活かしていくかを考え実践。4男児の母として子育て奮闘中。

平野馨生里(ひらの・かおり)

石徹白洋品店(いとしろようひんてん)代表。岐阜の山奥の集落・石徹白に受け継がれる服「たつけ」などを復刻し製造、販売している。藍染、草木染めを畑で材料を栽培するところから行っている。先人の知恵を学び、現代にいかに活かしていくかを考え実践。4男児の母として子育て奮闘中。

最近の記事

集落の形を残したい 「形から学ぶこと」

これまで2つのnoteで「集落の形を残したい」について書いてきました。3回目は「形」についてです。 私は目に見えるものや形式的なこと、形そのものについて、それほどこだわりはありませんでした。それよりも、人の気持ちや心持ち、感情の部分が大切で、それを学び、継いでいくことに重きを置いてきました。学生時代に文化人類学を学び、カンボジアで聞き書きをする中で、人々の思いを聞き取り、より一層内面を重視していったのかもしれません。 けれども「たつけ」と出会って以来、私は形にもこだわりを

    • 集落の形を残したい 「思いを継ぐ」

      前回のnoteに書いた「集落の形を残したい」ということ。 なぜ私がこのように思うようになったかの経緯を書きたいと思います。 私は2007年8月に初めて石徹白に訪れました。たまたま石徹白を知っている人に連れてきてもらったのですが、この日、私は「ここに住みたい」と思いました。 これは感覚的なことであまり言葉でうまく説明できないのですが、 広々とした空、周りを流れる豊かな水、美しい集落の風景、そして、その時に受け入れてくださった石徹白の人たち・・・。 この日に石徹白で出会った

      • 集落の形を残したい、第1棟目の家の改修

        私が今もっとも危機感を持っているのは、石徹白という地域の形がわかりにくくなってしまうのではないかということです。 私が石徹白に初めて訪れたのが2007年。そして移住したのが2011年です。今は2024年。 この間に、人口は300人から200人に減りました。 人口300人の頃は移住者は数人でした。 今は200人中の約2割、40人ほどが移住者です。 つまり、もともとこの地域に住んでいた人がものすごいスピードで減っています。それが私にとって大きな危機感です。 この土地に先

        • 母方の祖母のこと

          (写真一番右の緑のコートが母方の祖母) 父方の祖母が2023年12月に亡くなった。彼女がこの先、長くないかもしれないというのは、亡くなる半年くらい前から主治医の先生に「そろそろ・・・」と私の父母に連絡があり、私も面会に行っていたため、ある程度覚悟ができたものだった。 けれど、母方の祖母の死は、ある意味突然で、近しい人たち皆、悲しみに暮れる一方で、最期があまりにも苦しいものだったため、「楽になれてよかった」という安堵感もある複雑な心境でまだ整理がつかない。 母方の祖母は父

          父方の祖母の存在。

          2023年の12月に、父方の祖母が亡くなった。 彼女はもう6年以上、施設に入っていたので、時々の帰省でもなかなか出会うことはなく、特にコロナの時は、施設に行っても外からしか出会えなかった。 そもそも施設に入った時点で、記憶がぼんやりしていて、私のこともなんとか判明する感じだったように思う。こうやって思い出が遠のいて行ってしまうものなのか・・・と思い続けていた。 とはいえ、介護施設で暖かなスタッフの方に囲まれて規則正しい生活をし、何不自由なく暮らしている祖母はいつまでもそ

          2023年、今年を振り返る。

          2023年は今日で終わりですね。皆さんにとってはどんな一年でしたか?どんな出来事があったでしょうか? 私にとって、今年は忘れられない年になりました。 2007年にこの石徹白に通うようになってから今までずっと、一番お世話になってきた昭和8年生まれのおばあちゃん・小枝子さんが亡くなってしまったからです。 前のnoteにも書きましたが、そのことで、私の目の前に広がる風景は一変しました。いつでも子供達を連れて、あるいは、教えてもらいたいたくさんのことを携えて会いに行っていた小枝子

          仲間がいるということ

          石徹白洋品店は、2012年5月にスタートし、2017年までは一人でぼちぼちやってきました。 2012年の12月に長男が生まれ、2015年に次男、そして、2017年10月に三男が生まれました。 次男が生まれるタイミングで、お店を新築することになりました。自宅でやっていたお店が、子供たちの存在によって手狭になってきて、仕事と暮らしを少し分けたい、という思いもあったからです。 そしてお店を新築してから、仲間が増えていきました。 私はもともと、みんなで何かをすることが好きでした

          「誰も無理せず、皆が笑って、ありのままの状態でいられる」ことが幸せ

          私は、誰も無理せず、皆が笑って、ありのままの状態でいられる ということに幸せを感じる ということがわかった 夫は優しいので、私が四人の子供を預けて出張に行くことを前向きに捉えている。 でも、私が出張から戻ると、いかに大変だったかを滔々と語るし、それを物語る部屋の状態・・・ だから私は子供四人と夫を残しての出張は気が気ではない。 もしかしたら彼はそんなに気にしていないのかもしれないけど、私は、出張中もずっと家のことが気になってしまう。 私自身が勝手に疲れるだけなのかもしれ

          「誰も無理せず、皆が笑って、ありのままの状態でいられる」ことが幸せ

          カモシカとの出会いから生まれた 23AW collection

          10月1日より今年の秋冬コレクションをリリースしました。 今回のテーマは「冬のカモシカ」。 数年前の大雪の時期、私は怪我をしたカモシカと出会いました。足を怪我していたようでした。 彼女(彼?)は、お隣のKさんの納屋に雪から逃れて、数日間、そこに住んでいました。 その間に何度か山に帰ろうとしている様子もありましたが、ふかふかの降りたての雪の上は、怪我をした足では素早く歩けず沈んでしまうようで、とても難儀していてかわいそうでした。 私と子供たちは野生のカモシカ見たさに納屋に

          カモシカとの出会いから生まれた 23AW collection

          日本の伝統工法でお店を新築

          2012年から始めた石徹白洋品店。最初は、私たち家族が実際に住んでいる母屋がお店でした。 玄関入ってすぐのところが元々馬小屋だったので、そのスペースを改修してギャラリーにしました。 その場所に服を展示していたこともあれば、ギャラリーで企画展をやるときは、母屋の「うちんなか」という囲炉裏がある12畳の部屋に棚やハンガーラックなどを設置してお店にしました。 こうして2012,2013,2014年と3年ほどお店をしましたが、2012年の冬に生まれた長男が少しずつ大きくなってきて

          日本の伝統工法でお店を新築

          インターン制度を始めて本当によかった

          2017年の5月ごろから始めたインターン制度。私にとって、とてもありがたく、欠かせない制度になっています。 始めたきっかけは藍染・草木染めの始まりと、子供たちの存在 2016年に店舗が完成し、そこに小さな染め工房を併設しました。お店の横で染めることによって、こうやって色を生み出しています、ということをお客様にお伝えできると思ってのことでした。 私が染めを学んだカンボジアのIKTTでも、ショップが工房(染織り村)の真ん中にあって、どういうふうな工程で布ができているか見られ

          インターン制度を始めて本当によかった

          寂しい涙から、新たな決意を。

          いつまでもこのことを書けないと、私はいつまでも泣いてしまう だから勇気を持って書いてみようと思って、久方ぶりの1人静寂の朝、筆をとった 石徹白に通い始めた2007年当初からずっとお世話になってきたSさん。 神道のお家にお住まいで、その祭事をお家で繰り返し、信仰を大切にされてきた。 神社の祭りの前の掃除も一緒にやらせていただいた。 私は結婚したばかり。子供がいなくて、石徹白に通っていて、よく訪れた。明るくて、なんでも惜しみなく教えてくださる快活な少女がそのままおばあちゃ

          寂しい涙から、新たな決意を。

          失った人への後悔と・・・

          *写真は、石徹白で染めた糸でSさんが手織りしてくださったストール(左右) ここまで奇跡とか、偶然とか、出会いとか、いいことばかり書いてきましたが、実はそんなことばかりではありませんでした。

          ¥300

          失った人への後悔と・・・

          ¥300

          第二の師匠

          藍甕を据えることになったけど、藍の師匠であるTさんはもう藍染は教えてくださらない・・・では、どうやって藍を建てたらいいのだろう・・・。 これまでの経緯はこちらから読んでみてください。 「藍染の始まり」 「藍染を始めるために、藍畑を始める」 「引き継いだ藍甕」 ある時、お隣の福井県大野市から石徹白洋品店の店舗にお客さんとして来てくださった方に、私が藍染を始めたいと思っていることを伝えると「大野で藍染を何十年もされている人がいますよ!皆藤さんという方です。紹介します。今度連れ

          引き継いだ藍甕

          藍染の師匠(Tさん)とのご縁をいただき、藍畑を始めて2年目。師が50年も使ってきた藍甕を譲っていただくことになりました。 しかし、その藍甕は師自身の手で土の中に埋めたとのことで、口の際までしっかりと土に囲われていました。 「僕が自分で埋めたんだから、それを掘り起こせばいいだけ」 そうおっしゃるTさんですが、50年も使い続けて固く赤い土にしっかりと固定された甕を、私自身の手で掘り起こすことができる気がしなかったので、うちの母屋を改修した時にお世話になった工務店の方にお尋ねし

          藍染を始めるために、藍畑を始める

          藍染めを始めるために、藍畑をやることになりました。 その経緯はこちらの「藍染めのはじまり」に書きましたのでよろしければ読んでくださいね。 その時、次男が1歳前。とにかく藍の葉っぱを育てることなしには、藍染めを始められないと必死な私は、次男をおんぶして、コマメ(小さな耕運機)で3畝ほどの畑を耕していました。 それまでは夫と2人で素人なりにやっていた畑でしたが、前のめりの私は仕事で不在の夫に頼らずとにかく畑を進めようと動き始めました。 藍染を50年もやってこられたTさんを紹

          藍染を始めるために、藍畑を始める