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集落の形を残したい 「思いを継ぐ」

前回のnoteに書いた「集落の形を残したい」ということ。
なぜ私がこのように思うようになったかの経緯を書きたいと思います。

私は2007年8月に初めて石徹白に訪れました。たまたま石徹白を知っている人に連れてきてもらったのですが、この日、私は「ここに住みたい」と思いました。

これは感覚的なことであまり言葉でうまく説明できないのですが、
広々とした空、周りを流れる豊かな水、美しい集落の風景、そして、その時に受け入れてくださった石徹白の人たち・・・。

この日に石徹白で出会った全てに私は一目惚れをしてしまったのです。

この日以来、私は3年ほど石徹白に通って、4年目に移住をしました。初めて訪れた日に、私は移住を決めていたと思います。

通っている中で、そしてもちろん今も、私は石徹白の人たちにとてもお世話になっています。

石徹白をこれからも存続する地域にしていきたい、という思いを持った人たちが、ここ石徹白にはいて、そういう人たちと一緒に体を動かしたり、話をしたりするうちに、私は彼らの思いを私の中に染み込ませていったような感覚で、私も当たり前のように「石徹白が存続してほしい」と思うようになりました。

この土地で生まれ育ち、暮らしている人たちはそれぞれの背景があり、それぞれに石徹白を愛しています。(そうではない人はすでに離れていっていると思うし、愛していても離れざる得なかった人もいて、そういう人とも交流させてもらっています)

私は、「こんなに小さな集落だけど、こんなにたくさんの人が愛している土地ならば、きっと続いていくだろう」と思っていました。

けれど、現実は厳しく、具体的に何かやっていかないと続いていかないということが、2007年以来、この土地を見てきて、実感しています。

石徹白にはたくさんの団体があって、それぞれが地域のために動いています。漁業組合、婦人会、消防団、PTA、自治会、財産区管理委員会、発電農協、神社やお寺、大師堂を守る団体・・・だから、私も(石徹白洋品店も)その一つであるように、この地域のためにできることを増やしていきたいと思っています。


今はすでにお会いできなくなってしまいましたが、私が最初に一番お世話になったTさんは、本当に熱心に石徹白をどうにかしていかなければ・・・と動いていた人でした。

話をすると演説をするように、いつも石徹白のことを語ってくれました。彼が、石徹白について何かしなければ・・・と強く思ったきっかけは、福井県の山奥にある石徹白と同じような小さな集落が、廃村となってしまったのを目の当たりにしたから、と教えてくれました。

かつては賑わっていて、たくさんの人が豊かに暮らしていた土地だったのに、ダムの建設工事なども相まって人が減り、家が減り、木が生えて村が消えてしまったということなのです。

私は数年前、実際にそこに足を運んでみました。すると、少しだけ残る家が山に飲み込まれそうになっていました。ここに田んぼや畑があったのかな、と思う石積みがたくさんありました。まだ数軒ある家の守りをしに、街に出ていった元住人が数人やってくるだけの、ひっそりとした静かな土地になっていました。立派な神社だっただろうな、と思う場所がありました。鳥居が残されて、神社の形はありましたが、あまり手が入れられず、自然に戻ろうとしているようなそんな雰囲気で寂しい空気が流れていました。

何もしないでいたら、石徹白もこういうふうになってしまうかもしれない、きっとTさんはそう思ったのでしょう。そこに訪れ、私も同じように危機感を感じました。


日本全体で過疎化が進み、これから廃村となっていくところはたくさん出てくると思います。けれど、一人の人の思いや行動で変わっていくこともあるかもしれない。そんなふうに思うのは、私がTさんの行動を見て、私自身が変わっていったからです。

「ねいごのふたまたほおば」という絵本を作った時に、歴史的なお話をしてくださったTAさんは、聖武天皇の時代に書かれた「石徹白創業伝記」の写しを私に見せてくれて、地域のことを滔々と語ってくださいました。
こんなお話を誇り高くしてくださる人物が今の時代にまで残っているのだ!と、宮本常一に憧れている私は、なんだか感激してしまいました。

「みーんなで働いて、楽しかったよー」私にたつけを教えてくださった石徹白小枝子さんは、ユイの作業でみんなで集まって働いた若い頃の話をニコニコしながら話してくださいました。そして亡くなる直前に病院にお会いしに行ったとき、「石徹白を頼んだよ」と私の目をじっと見つめて言われました。

大師堂を守ってこられたSさんは、白山に登って道刈をした時、「あそこは別天地じゃない、別世界じゃ。石徹白におるなら、一度はいったほうがええ」とその時の情景を思い浮かべながら語ってくださいました。

ほかにもたくさんの方にいろんなお話を聞いてきました。これらの方達は皆80〜90代になられ、亡くなられる方も出てきています。私が出会ってきた、石徹白で暮らしてきた人たち。その方達の経験や思いに触れることで、彼らの人生が私の中にじんわりと浸透してきています。

私は彼らのような生活や経験を全然できていないけど、ほんの一部でも「思い」の部分を共有してもらっていると思っていて、その思いを受け取った喜び、嬉しさは、今でも暖かな温度感と共に私の体に残っています。

私がこれから一軒の古民家を改修していくということは、彼らの思いを継いでいくこととイコールです。
それは、たつけや越前シャツを作ることも同じなのかもしれません。

形を残すことで、背景にある思いも継いでいく。

そして、継いだ上で、どうしていくのか。
それがこれからの時代に生きていく私たちやその次の世代の命題なのかもしれません。

その命題を明確にできるのは、継いでから。私たちの命は先人の命の重なりの上にあるのだから、まずは継いでいかないことには、次には進めないと思っています。

残念ながら、大きな時代の変化の中で長いこと続いてきた暮らしが一変しています。その変化の過程を知らずに現代に生まれた私たちが今できることは、かろうじて残っているかつてからの知恵を学び、思いを知ること。そこからなのです。

もう手遅れかも・・・と思うことがいっぱいありますが、ここ石徹白だからこそ残っていることを、私は今必死に、掬い上げていきたいと思うのです。



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