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父方の祖母の存在。

2023年の12月に、父方の祖母が亡くなった。

彼女はもう6年以上、施設に入っていたので、時々の帰省でもなかなか出会うことはなく、特にコロナの時は、施設に行っても外からしか出会えなかった。

そもそも施設に入った時点で、記憶がぼんやりしていて、私のこともなんとか判明する感じだったように思う。こうやって思い出が遠のいて行ってしまうものなのか・・・と思い続けていた。

とはいえ、介護施設で暖かなスタッフの方に囲まれて規則正しい生活をし、何不自由なく暮らしている祖母はいつまでもそのままそこに居続けるような錯覚をしていた。

だんだん自分の口から食べられなくなって、眠る時間が増えてきて、そして、もうそろそろ・・・という病院の先生から父母への連絡で私も何度か駆けつけた。でも、何かとても悲しい状況というより、人が老いることによって亡くなることって、こういうことなのかな、と思うような、穏やかな最期だったように勝手に感じている。

私は父方の祖母とは生まれてから高校3年生まで同居していたので、とても大きな影響を受けた。

私は彼女にとって唯一の孫娘だった。彼女の一人息子が私の父で、父の子供は男二人、女一人、その一人が私だったからだ。

祖母自身が若い頃、病弱であったため、子供は複数望めなかったそうで、子供は父一人。待望の女の子は孫の私だったとよく話してくれた。だから、私もその愛情に応えてか、おばあちゃん子で、年長から小学校2年生くらいまでの数年間は夜は同じ部屋で寝ていた。

祖母が持っている数々の着物やオーダーのワンピースやツーピース。それに付随するバッグや服飾品。キラキラ輝く宝石や可愛い刺繍のハンカチやショールは、小さな子供ながらに、眺めるだけで楽しいものだった。今思い起こせば、なんて派手好きだったんだ、って思うけど、その当時の私にとっては、お姫様の世界に来たかのような雰囲気だったのだ。(祖母はそういうのが好きだったのだと思う)

そんな好みの一方で、日本に伝わる文化、日本人らしさというものがベースにある古めかしい人物でもあった。

これはおそらく、祖母は自身の母親を8歳の時に亡くしていて、明治生まれの祖母に育てられたと言い、明治時代のしつけによって確立した性質によるものだったのだと想像している。

「ものを粗末にすると祟りにあう」
「女の子は言葉づかいを丁寧にしなさい」
「女の子は、スカートを履きなさい」
「家を継ぐのは男だから、あなたはいいところにお嫁に行くのだよ」
「あなたの背後には、ひいばあちゃんがついているんだよ」(どのおばあちゃんのことだったんだろう・・・?!)
そんなことを耳元で囁かれて私は育った。

私は一人娘(一人孫娘)だったからか(そうではなくてもか、)お嫁入りのための着物は一揃え作ってもらったし、女性の方が嫁入り先にするべきこと みたいな、今ならそんなにかっちりと考えなくても良さそうな数々のしきたりを祖母は一つ一つ話してくれていた。

そんな彼女は、茶道の先生で、私は小学校1年生から彼女に茶道を学び、日本文化の素晴らしさを学んだ。季節ごとに変わっていく道具や設え、お花やお菓子・・・繊細な日本人の美意識に子供ながらに感激を覚えた。

とはいえ、小学校高学年になり、友人たちとの時間が大切になってきた頃、祖母の話は「うるさい」「面倒くさい」「古臭い」と思い始め、そのあたりから少しずつ心も体も祖母から離れていった。

中学校は部活に打ち込み、「女の子はそんなスポーツしなくても・・・」と言われるのを聞き流しながら、真っ黒に日焼けして少年のように過ごしていた。祖母に支配されてきたように感じていた自分の小さな世界が、自身の手によって違う世界に開かれていくのが、大人になっていく階段を登っているような、そんな感覚だった。

高校では、アメリカに留学して(正確には、祖父の入っていた経済団体づてで留学させてもらって)日本から離れ、狭い日本文化の中ではなく、開かれた世界に目を向けて、広いところで活躍するんだ、なんて思ったりしていた。

今思えば、祖母への反動から始まり、私のあたらしい世界が作られていったように思う。それくらい言葉が多くて言葉が厳しくて、存在感の大きな人だったのだ。


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祖母は、祖父と共に会社を立ち上げ、軌道に乗せ、会社を大きくしてきた人で、その苦労と努力と、そして運を思うと、すごい人だったのだと、今になって思う。戦後に何もないところから、かつ、農家だった家が、鉄工業をはじめ、工場を拡大し、航空機部品の生産に関わっていったのだ。もちろん、祖父と一緒に初めた祖父の弟、二人の力が大きかったと思うけど、それを支えてきた祖母の存在も欠かせなかったのだろう。

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海外に行くことも実家を離れて関東の大学に行くことも、学生時代に頻繁にカンボジアに通うことも、もう何か諦めていたのか、多大なる支援と協力をしてくれた。そして東京で就職することに関しても何も言わなかったように思う。おかげで、私はのびのびとやりたいことをやって、自由に生きていた。

学生時代に通っていたカンボジアをフィールドにした研究の最中に、私は、祖母の存在を再発見した。
私はカンボジアで内戦によって一度失われてしまった伝統の絹織物「クメール織物」を復活させているある村に通って「伝統的なものが個人のアイデンティティ形成にどう影響を与えるか」をテーマに研究を始めたのだ。

このテーマは、それほど深い考えなしに編み出した。そのフィールドとなるカンボジアに通い、そこで機織りをしているおばあちゃん、女性たちにインタビュー調査を重ねて、研究を深めていった。

私が所属していたゼミは、研究の成果自体には特に言及しない不思議なゼミで、それよりも、”どうしてそのテーマにしたのか”、”どうして君がそれをテーマにしなければならないのか”、”どういう視点であなたは社会を見て、どういうふうに関わっていくのか”というような生きる根本となるようなことを問われるゼミだった。

だから、一生懸命研究をして成果をまとめても、そこが明確ではないと、先生やゼミ仲間に思いっきり叩かれて終わり・・・みたいな感じで、いつもヒヤヒヤしながら研究発表をしていた。

私はどうしてカンボジアをフィールドにしたのか、伝統をテーマにしたのか、割と思いつきなところが多かったので、全くわかっていなかった。だからいつも問われ続けていた。問われ続けて問われ続けてようやく何回目かのゼミ合宿で、わかったのだ。

それが、祖母の存在だった。

ああ、私が伝統をテーマにしていたのは、祖母の影響なんだ。
自分は祖母に学んだ”日本文化”がアイデンティティの根底にある。帰国子女が多いゼミ仲間や、内戦で文化が失われてしまったカンボジアの人々は、「伝統」というものによって、どう変わっていくのか、あるいは変わっていかないのか、それに興味を抱いたのだった。私自身が、伝統に裏付けられた存在だからこそ、そうではない事例を知りたい気持ちが大きかったのだと思う。

この時初めて、祖母に感謝をし、祖母の存在を眺め直すことができた。

一人で大きくなって、一人で外の世界に踏み出したと思ってきた私は、全くそうではなくて、育ててもらったベースの上で、自分なりの道を模索しようともがいていただけなんだ、と分かった。

だから、それ以来は、彼女の存在があって、そしてその次に私の存在があるという、当たり前だけど、人は人の歴史の上に生まれて生きて死んでいく、ということを認識し、すべての先達に敬意と感謝を抱くようになった。

とはいえ、実の祖母、かつ、しばらく離れていた祖母に、急に優しくなることもなく、ひ孫(私の子供)が生まれて、ようやく少し距離が縮まった程度だった。それくらい私が幼稚だったのだと思う。近すぎる人との距離感って難しいと大人になってからより思ったりしている。

ひ孫が生まれるあたりから、祖母は足が弱くなって思うように動けなくなってしまったけど、うたを読むことが好きだったので歌集を作ったり、療養で温泉旅行に行ったりと、晩年も施設に入る前は活動的だったように記憶している。

若い頃から病弱でいつ亡くなってもおかしくないと言われ続け、大病を克服して生きていた祖母は、94歳の大往生の人生を歩んだ。

お葬式は、久しぶりにお会いする親戚の人たちと近所の人たちでいっぱいだった。たくさんの人に見送ってもらった。とてもありがたいことだった。


そうだ、大切なことを書き忘れていた。私と石徹白の繋がりを教えてくれたのも祖母だった。私が今住んでいる石徹白に通い始めたことを言うと、「それはいいことだ」と祖父と共に喜んでくれた。

私は祖父母が石徹白という土地のことを知っているなんて、思ってもみなかったから、「どうしていいことなの?」と聞くと、「ちょっと待ってね」と言って「芥見郷土史」という分厚い古い郷土本を持ってきてくれた。

「ここに芥見と石徹白のつながりが載っている」
ええ???どういうこと???
私は驚いた。そしてすぐにそのページに釘付けになった。

私は全く違うご縁で石徹白を訪れ、石徹白が好きになって足繁く通っていたのに、私の生まれ育ちの芥見(村)と石徹白は江戸時代につながりがあり、我が家はそのつながりのあった人物の遠い縁者ということなのだ。

少し怖いと思うくらいの不思議な因縁があり、私がこうして石徹白に住んでいるのは、江戸時代からなのか、前世からなのか、祖母なのか・・・何かわからないけれど、大いなる何かの力によってそうなっているように勝手に感じている。


縁(えにし)とは不思議なもの。祖母とはきっとこれからも深い縁で、結ばれ続けているのだと思う。


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