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母方の祖母のこと

(写真一番右の緑のコートが母方の祖母)

父方の祖母が2023年12月に亡くなった。彼女がこの先、長くないかもしれないというのは、亡くなる半年くらい前から主治医の先生に「そろそろ・・・」と私の父母に連絡があり、私も面会に行っていたため、ある程度覚悟ができたものだった。

けれど、母方の祖母の死は、ある意味突然で、近しい人たち皆、悲しみに暮れる一方で、最期があまりにも苦しいものだったため、「楽になれてよかった」という安堵感もある複雑な心境でまだ整理がつかない。


母方の祖母は父方の祖母より4つ若く、かつ、とても元気で、確か88歳くらいまでは自家用車で毎朝、仲間と共にテニスをし、その後、モーニング(中部地方によくあるコーヒーを注文すると食パンやゆで卵がついているセット)で朝食をとり、1日をスタートさせるという健康的な人だった。

見た目も若若しくて、私の祖母と紹介すると「お母さんじゃないの?」と言われるくらいだった。テニスに加えて、麻雀、お琴の趣味もあって、夫(私の祖父)が亡くなった後もおひとり様を謳歌していた。

市内に私の母(祖母の娘)が嫁いでいたので、私が実家にお世話になる時にはいつも来てくれて、母と一緒に私たちの子供(ひ孫)の面倒を見てくれた。私が四人も安心してお産することができたのは、実母に加えて、母方の祖母のサポートがあったからに違いない。実際はいい年なのに、若い見た目と、体力でそれを思わせず、私自身、たくさんたくさん頼りにしてきた。


祖母は大阪の下町の生まれで、祖母の母(私の曽祖母)は婿取りだったそう。大人しくて優しい曽祖父は学校の先生で、そのお給料は曽祖母の着物に消えていったと笑い話があるくらい、曽祖母は着道楽だったと祖母に聞いていた。だからか、祖母の桐箪笥には曽祖母の着物がいくつかあって、祖母はそれらも機会があるごとに見せてくれた。

着物に筆文字で和歌が描いてあるものや、浮世絵のような昔絵が描かれているものなど、今の時代なかなか見られないような渋好みの着物があって、時代時代のおしゃれ、流行りがあるんだろうなあ、こういうものが代々残されていくんだな、と、昔の時代を想像したりしていた。

また、祖母は、祖父(夫)が会社員で薄給だったため(祖母談)、内職の仕事をしていた。それは紳士服の縫製の下請けで、家でミシンを踏んでいたそうだ。それもあって、洋裁が一通りできたので、小学生の頃の私のピアノの発表会のドレスは祖母のお手製のものだったし、ウエディングドレスは母が祖母に作ってもらったお手製のものをアレンジして作り直したものだった。

頼めばなんでも作ってくれるし、繕い物はお願いしておけば綺麗に直っている。私も(母も?)洋裁のできる祖母が近くにいることで、お裁縫をしようという気持ちにもならずに過ごしてきた。

私が服屋を始める前、服の勉強をしたいと思って最初に頼ったのが祖母だった。洋服のパターンの本を買って、これを作りたい、と祖母に言った。そして布を選んで、それを裁断して、縫い始めたのも祖母の家だった。

ミシン、ロックミシン、洋裁道具、全てが祖母の家に揃っていたからだ。私は大雑把な性格で、家庭科もとても苦手だったのだけど、やる気だけ十分で、ザックザックと裁断をしていると「そんなんではだめ」と、いかにも見てられないようなことを言われたのを覚えている。

祖母の反応に私の今の技術では、ちゃんとしたものが作れないんだな、と思い改め、「専門学校で洋裁を学ぶ」と伝えた時には、「もう28なのに、これから学校行くの?」と驚かれた。私が突拍子なくいろんなことを始めるからか、驚かれる場面が多かったように思うけど、反対するのではなく、(諦めからか)見守ってくれる温かさにいつも励まされていた。

祖母の夫(祖父)は昭和を代表するような無口で怖くて男尊女(子)卑な人物だった。(それが当たり前の社会だったといえばそうなのだけど。)
食卓で話しながらご飯を食べていると「うるさい、黙って食べろ」と言われるし、時々、兄弟で遊びに行って喧嘩でもすると「うるさい、喧嘩するなら出ていけ」と言われた。

とにかく祖父の前では黙っていなければならなかった。だから祖母も祖父といるとニコニコしているものの口数は少なく、厳しい祖父の横に小さなひだまりのように居るあたたかくて、可愛らしい存在に見えた。

とはいえ、祖母は大阪生まれからなのか、控えめだけど愛嬌があって場を和やかにする人物で、祖父が亡くなってからは、話を聞けば色々してくれるし、話の最後は穏やかな笑いで終わるから、近くにいるだけでじんわりとした幸せを感じさせてくれる人だった。

いつまでも元気だし、若々しいし、きっと100近くまでピンピンしているんだろうなと、きっと近しい人たちはみんな思っていたに違いない。

けれど、2023年11月後半に咳が止まらなくてしんどくて入院し、少し前に発覚していた肺がんの進行によってか、2024年1月9日に亡くなってしまった。

入院してから1ヶ月ちょっと。こんなに早い別れとは全く想像していなかった。きっと亡くなった本人が一番びっくりしているのかもしれない。最期は酸素マスクをつけてようやく呼吸ができるという苦しくて厳しい状況で、”誰もが肺がんになりたくないと言う”理由をまざまざと見せつけられた。

お通夜とお葬式は家族葬だった。私の子供たちは、本当にたくさんお世話になっていたから、8歳の次男と6歳の三男は声を上げて泣いていた。まさかこんなに早い別れになるとは思っていなかったのだと思う。

人が亡くなって、もう会えなくなって悲しいことがちゃんとわかる年齢になったんだな、と私自身泣きながらも、彼らの成長を感じていた。

次男はその日の夜は珍しく「一緒に寝る」と私の布団に潜り込んできて、それでもしばらく泣いていた。「どうしたの?」と聞くと「おっきいばあ(祖母のこと)にもう会えないんだね」と言った。

「そうだね、もう会えない。人が亡くなるのは寂しいね。でも、今お空から私たちのことを見守ってくれているよ」と私は答えた。


祖母は90歳だったから大往生。これだけ生きることができたって、素晴らしいことだと信じてる。最後の1ヶ月ほどの苦しみを考えなければ「ピンピンころり」の皆が羨むような人生だったのかもしれない。

でも、いつも会えた人が会えなくなるのは、やっぱり寂しい。悲しい。心細い。そんなふうに思う。

当たり前のことが当たり前じゃなくなる。でも実際には当たり前のことなんて一つもなくて、全てが奇跡の連続で、成り立っている、そんな世の中で私たちは生きているんだ。


祖母がいたことで、私は服作りの一歩を踏み出すことができたし、祖母の影響で家庭において朗らかにいられるようにしよう小さな約束事を持っている。

いつでもまた子供たちを見に、私を助けに、石徹白にすぐに来てくれるように感じている。物理的にはもう難しいけれど、あたたかな眼差しで、柔らかな面持ちで、いつでも会いに来てくれている、そんな安心感に包まれている。

私のおばあちゃんでいてくれて、ありがとう。また会う日まで、さようなら。





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