うるさい頭、眼精疲労

記憶がある中で一番最初に頭がわんわん忙しくなったのは留学先の学生向けアパートで寝ていた時の事。新しい環境での事務手続きや家事のこなし方、勉強のことについてぐるぐるしていた。それから今まで9年間ほとんどの時間を何かに追い立てられてすごしてきた。この瞬間の満足や充足みたいな感覚は年に3~4回くらいしかなかったように感じる。なにをしてても次やることに頭は占められていて瞬間に集中することができない。早く早く、でも完璧に、まだこんなにタスクはあるよ。まだまだ増え続けるよ。追いつけていないよ、そこも、ほらあそこもまだ抜けている。足元が軽い。これは、脳機能の特性なのかな。どうして留学した年に加速したんだろう、顕著になったんだろう。異国で身の回りのことを自分だけでしなくてはならない状況になって、優先順位やこなしかたが身についていない時だったからなのかな。正解という型があると思ってそれを常に探していたようにも感じる。脆い型を演じ違和感を感じながら。自分の中での自分なりのやり方やここまであれば大丈夫みたいなのをまだわかっていない気がする。どこまでいっても足りない感覚がぬぐえない。いつまでたっても立ち止まることを許せない。やっぱり内側の感覚を使ってこなかったのが原因なのかな。でもそれは私のとって恐怖だった。ドナウィリアムズが感じたように。
でも これからもずっとこんなふうに生きていけない。また潰れてしまうのは分かる。肉体的限界と頭の命令がちぐはぐだ。いままで強迫に従ってきたんだから今度は体を優先的にすることはできないだろうか。そのためにはどうすればいいか。もっと体を使うこと?常に頭は動いている。私の本心のような振る舞いをしてくる。脳だけじゃなく脳から下と連結させたい。脳と体をつなぎたい。

スクリーンから目が離せない。目から疲れたといわれるのに止まれない。脳みそ優位の状態の時はなかなか他の事をするのは難しい。去年学校のストレスで酷使しはじめてから1年経ってしまった。ストリーミングサービスの作品を見続けた。長くひどい扱いをしてきたんだ。他に避難方法が見つからなかったんだな。そんだけ苦しかったんだな。いまもまだ苦しい。本を読むのもやめられなかった。何かしてないと責められる気がした。今もその感覚はまだある。わたしの取扱説明書を必死に探してた。現象の正しい定義を探してた。それでももうそろそろ目を休ませてあげたい。目の下の筋肉が剥がれる感覚がする。でも、自分から価値観をつくることで軽減されてきている。自分のペースで進むって、私にとってはすごく難しい。すぐに自分の輪郭を見失う。怖い。流される。でもまたここに戻ってくる。遠くにいるけど、肯定してくれる人がいる。同じような苦しみを持っている人を無視したくない。いつかこれを読み返した時、ああこんなところでこんなことを考えていたんだって言っているのがわかるよ。もっと観察してみよう。暴走を待つなんて変だけど、向かい合うと印象が変わる。入口がたくさん。レイヤーの変更。座標の移動。全部点に戻す。

出来そうな趣味メモ
フルート・ヨガ・散歩・縄跳び・トランポリン・歌・美術館巡り・ダンス・水泳・手話・合気道・家事・銭湯・アロマテラピー・茶道・ボランティア…いろいろ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?