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子どもも自分も、コントロールしない

しばらく時間が過ぎていた。
今年に入ってからは、発達に特性があると言われた子どものことであたまがいっぱいになってた。
思うと、すこしノイローゼ気味だったのかもしれない。
わからないことを知識で補いたいと思う不安感たくさん本を読む。
調べる。
理解したい、そして、この不安を少しでもクリアしたいというどうしようもない思い。
最悪のケースを想定して腹を括りたい。
そんなifもしもが、頭の中を吹き荒れる。
吹き荒れたまま、瞑想する習慣すら放棄してしまっていた。

こうやって、ことばにすると
自分がくっきりする。

2月は子どもの癇癪がほんとに激しくて、30分に一回くらい噴火していた。
それには彼なりの訳があって、
その訳の奥には、日常に納得していいない違和感のようなものを感じた。
子どものペースで過ごすことを大事にしてみよう。
まずは自分がキャパオーバーにならないようにしよう。
そう思ってから、ここ2、3週間くらい、子どもの様子もだいぶ落ち着いた。

発達障害といっても100人いれば100通りあるように
どれだけ本を読んでも、どれだけ調べても
この先のことは誰にもわからない。
今、子どもに寄り添う。
ただ一緒にいる。
癇癪が激しいとそれすらもぐったりするほど大変で。
はじめて昔幼稚園で働いていた頃の姉のような存在に電話をしてみた。

観察すること。
身体の反応や、子どもの感覚、原始反射が残っていないかをみること。
診断名や表面的なことにとらわらないこと。
そして、私がわたしの人生を生きていくこと、その背中をみせること。

そんなメッセージをもらった。
その後ちょうどその友人家族と会う予定もあって、共に過ごす中で、私自身もすこし肩の力が抜けてきたようにおもう。

どうにもできないことをどうにかしようとしない。
「すくすく元気に育ってほしい、みんなとたのしく過ごせたらいいな」とかなんとなく自分が当たり前に描いていた子どもの姿すらも、今、目の前にいる子どもや、自分自身を縛ってしまうものになっているように感じた。

受け入れること。
子どもも
自分も。
受け入れる。

こないだいつもの保育園からの帰り道
「笑っているカカがすきだけど、笑っていないカカもすき」
と息子が話していた。

ふいうちに涙が出てしまう。
うれしい時にも
悲しい時にも
涙はでるんだ

まるごとなんだ。
存在はまるごとだから。
コントロールすることになれているけど、
どうかそれを手放してゆきたい。

昔からポエマーと呼ばれてた私は書き出すとつい、ポエマーになってしまうけど、つぎは現実的なことを書いてみよう。