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海賊ブラッド (11)孝心

 彼が行った誓約により、ドン・ディエゴ・デ・エスピノーサは、元々は彼のものであった船における自由を許され、彼が航海士の役割を引き受けた事により船の針路は彼に一任された。この船の乗組員達にとってスパニッシュ・メイン[註1]は未知の領域であり、そしてブリッジタウンでの経験があってすら、全てのスペイン人は即座に殺害すべき油断ならぬ凶犬であるという教訓を得るには充分でなかった為に、彼等はドン・ディエゴ自身の丁重で上品な態度に合わせた礼儀正しさで彼に教えを請うた。彼はグレートキャビン(船長室)でブラッドと食事を共にし、そして三名のオフィサー(士官)が彼の助手として選ばれた。ハグソープ、ウォルヴァーストン、ダイクである。

 彼等はドン・ディエゴを気持ちの良い、愉快な仲間とさえ思い、そして不運な状況における彼の不屈の精神と勇敢な沈着さは、彼に対する好意を助長した。

 ドン・ディエゴが公正に役割を果たしていないのではと疑うのは不可能であった。更にいえば、彼がそうしない理由というのは想定できなかった。そしてドン・ディエゴは彼等に対して最大限の率直さで接していた。彼はバルバドスを離れた際の、貿易風に乗って進むという選択を非難した。彼等は向かい風を受けてカリブ海を目指し、群島からは離れるべきであった。この選択ミスのせいで、キュラソー島にたどり着く為に再びこの島々を通過するように強いられているのであるし、この航路を乗り切るには、かなりのリスクを覚悟しなければならない。島々の間の如何なる方位であれ、この船と同等かそれ以上の船舶と遭遇する可能性があるのだ。それがスペイン船であれ英国籍の船であれ不都合には変わりなく、そして彼等は人員不足の故に戦闘可能な状態ではなかった。この危険を極力減らす為に、ドン・ディエゴはまず南へ、次に西へ向かうコースを指示し、彼等はトバゴ島とグレナダの間に針路をとって危険水域を無事通り抜け、比較的安全なカリブ海上に出たのであった。

「この風が続くなら」夕食の席において、ドン・ディエゴは現在位置を説明した後で彼等に告げた。「我々は三日以内にキュラソー島に着くはずだ」

 風は三日間吹き続け、それどころか二日目には少し強まり、三日目の夜に至っては強風が吹いたにもかかわらず、その時になっても未だ、彼等はランドフォール(初認陸地)をしていなかった。シンコ・ラガス号は青い天球の下、両舷で波を切って進んでいた。キャプテン・ブラッドはドン・ディエゴに対し、懸念を含みつつそれを指摘した。

「明日の朝になるだろう」彼は平静に確信をもって答えた。

「諸聖人にかけて、スペイン人が『明日の朝』と言う時、その明日というのはやってきた例(ためし)がないのだよ、我が友よ」

「だが、この明日はくるよ、安心したまえ。君がどれだけ早起きだったとしても、必ず舳先に陸地を見られるはずだ、ドン・ペドロ」

 その説明を良しとして、キャプテン・ブラッドはその場を離れて彼の患者であるジェレミー・ピットの許に向かった。ドン・ディエゴが一命を拾う機会を得たのは、ひとえにピットの健康状態のお陰であった。この二十四時間、患者の熱は下がり、裂傷を受けた背中はピーター・ブラッドの手当てによって順調に治癒しつつあった。とりあえず、彼は暑苦しい船室に閉じ込められている事に不平を言える程度にまで回復したのは確かだった。患者の希望をかなえてやる為にキャプテン・ブラッドは甲板で新鮮な空気にあたる事を許し、暮れ残っていた空の輝きも消え去る頃、ジェレミー・ピットはキャプテンの肩を借りながら甲板まで上がった。

 ハッチコーミング(倉口縁材)上に腰を下ろしたサマセットシャーの若者は、感激と共に冷たい夜の空気で肺を満たし、お陰で自分はよみがえったと宣言した。それから船乗りの習慣により、彼の目は金色の光点が無数にきらめく暗い天球を逍遥した。しばらくは何もせず、ぼんやりと夜空を走査していた。それから彼の視線は急激に定まった。その目は横に立つキャプテン・ブラッドには丸く飛び出しているように見えた。

「天文には詳しいですか、ピーター?」彼は尋ねた。

「天文学だって?勘弁してくれ、こうやって眺めても、私にはオリオンのベルトとヴィーナスのガードルの区別もつかないよ」

「ああ!きっと他の海に不慣れな乗組員も、貴方と似たり寄ったりなんでしょうね」

「彼等に比べれば、私はかなりましな部類と考えた方がいい」

 ジェレミーは右舷船首方向、前方の天に見える光点を指し示した。「あれは北極星です」彼は言った。

「そうなのか?大したものだな、よくこれだけ大量の星の中から判るものだ」

「そして貴方の前方右手にある船首上に北極星が見えるという事は、我々が針路を北、北西、あるいは多分、北微西に取っている事になります。西方に10度以上向いて進んでいるかどうかも怪しいですから」

「それはまずいのか?」とキャプテン・ブラッドは驚いた。

「説明してくれましたよね――覚えてますか?――俺達はキュラソー島を目指して、トバゴ島とグレナダの間を通って群島の西にきたって。もしそれが現在の針路なら、北極星は船の真横に、あっちに見えるはずなんですよ」

 瞬時にブラッドは気を引き締めた。懸念で体をこわばらせた彼が口を開きかけた時、一条の光が彼等の頭上の闇を裂いた。それは丁度開かれたばかりのプープキャビン(船尾楼甲板下船室)の扉から射したものだった。扉は再び閉じられ、そしてコンパニオン(甲板昇降口階段)を上る者がいた。ドン・ディエゴが近づいてきた。キャプテン・ブラッドの指は警告の為にジェレミーの肩をつついた。それから彼はドン・ディエゴに呼びかけ、他の者達が同席している時には常にそうしているように英語で話した。

「ドン・ディエゴ、ちょっとした言い争いを解決してもらえるかな?」軽い調子で彼は言った。「議論していたんだよ、ピットと私はね、北極星はどれなのかで」

「ほう?」スペイン人は気楽な調子で応じたが、その裏で笑いをかみ殺しているようだった。その理由は次の台詞で明らかになった。「しかし、確か貴兄はミスター・ピットが本船のナビガント(航海士)だと言っていなかったかな?」

「いないよりはまし、という程度なんでね」キャプテンは馬鹿にしたように冗談めかし、笑いながらそう言った。「あれが北極星かどうかで、銀貨百枚を賭けているんだ」そしてそのまま船の真横に見える光点を指し示した。後日、彼はピットに、ドン・ディエゴが彼の言を肯定していたら、その瞬間に彼を刺していただろうと語った。だが実際には、スペイン人は遠慮なく軽蔑を露にした。

「君の無知を保証しよう、ドン・ペドロ。貴兄の負けだ。北極星は向こうだ」彼はそれを示した。

「本当に?」

「親愛なるドン・ペドロ!」スペイン人はある種、面白がるような調子で抗議した。「間違えようがあるかな?コンパス(方位磁針)はないのかね?ビナクル(羅針儀)の処に行って、針路を確認するといい」

 彼の至極率直で、隠し事のある人間とは思えぬくつろいだ態度は、キャプテン・ブラッドの心から疑念を拭い去った。ピットの方は、それほど簡単には納得していなかった。

「御教示いただけますか、ドン・ディエゴ。キュラソー島を目的地とした場合に、何故、現在の針路をとるのですか?」

 またしても、ドン・ディエゴには何らの躊躇もなかった。「その疑問はもっともだ」彼はそう言って溜息をついた。「気づかれねばよいがと思っていたのだが。私は不注意だった――おお、この落ち度は責められてしかるべきだな。私は観察を怠っていた。悪い癖だ。計算を重視し過ぎるのだ。私には推測航法[註2]に頼り過ぎる傾向がある。そして今日になってようやくクアドラント(四分儀)で確認して、南に0.5度寄り過ぎて進んできた為に、キュラソー島がほぼ真北になっている事に気づいたのだ。この為に到着が遅れる。だが、明日には着くはずだ」

 その説明は筋が通っている上、躊躇もなく率直に答えられた為に、ドン・ディエゴが執行猶予の条件に背いているという疑いを深める余地はないように思えた。そしてドン・ディエゴが再び船内に戻ってしまうと、キャプテン・ブラッドはピットに向かい、彼を疑ったのは馬鹿げていたと告白した。その経歴はともあれ、己の名誉や祖国を傷つける事に加担するくらいならば速やかに死を選ぶと表明した時、彼は己の品位を証明したのだと。

 スパニッシュ・メインの海にも、そこを庭にする命知らず達の流儀にも明るくないキャプテン・ブラッドは、未だ思い違いをしていた。だが次の夜明けは突然に、そして永久に、その思い違いを粉砕するはずであった。

 太陽が昇る前に甲板に出ると、スペイン人が昨夜うけあった通り、彼は前方に陸地を見た。それは約10マイル前方にあり、大きな岬が彼等に向かって真っ直ぐに突き出し、長い海岸線は東西に広がる地平線となっていた。それを凝視した彼は眉を寄せた。キュラソー島がこれほどの大きさのはずはない。実際、これは島どころか本土にしか見えなかった。

 風上に向かい、陸へと吹く穏やかな微風を受けて縫航(ほうこう)しながら、彼は右舷船首方向に大型の艦船を視認し、それが3、4マイル先であり、トン数は自船と同等か更に上であろうと――距離を見積もったのと同様に――判断した。彼が見つめる間にも、その大型艦船は針路を変えて帆をクローズホールド(詰め開き)にし、彼等に向かってみるみる近づいてきた。

 仲間達のうち十名ほどはフォアキャッスル(船首楼)上でざわめき、身を乗り出して先を眺めており、彼等の笑いと話し声は巨大なシンコ・ラガス号の端から端まで響き渡って、彼の立つ場所にまで届いた。

「ここが……」と、優美なスペイン語で、背後から穏やかな声が告げた。「約束の地だよ、ドン・ペドロ」

 その声に潜む押し殺した歓喜が疑いを呼び起こし、彼が半ば抱いていた疑念は完全なる不信となった。即座に振り返ってドン・ディエゴに対面すると、ブラッドの目はスペイン人の顔から狡猾な微笑が消えぬうちに、そのひらめきをとらえた。

「目の前の光景に随分と御満悦だな――してやったりとでもいうように」ブラッドは言った。

「無論」スペイン人は手をこすったが、ブラッドはその手が震えているのに気づいた。「船乗りの本懐だからな」

「あるいは裏切り者の――どちらかね?」ブラッドが静かに彼に尋ねた。そして彼の言を肯定するようなスペイン人の豹変した表情によって全ての嫌疑は裏書きされ、ブラッドは遠い岸を指し示した。「あの陸地はどこなんだ?」彼は回答を要求した。「あれがキュラソー島の海岸だと言い張るほど厚顔ではあるまい?」

 彼は出し抜けにドン・ディエゴへと歩み寄り、ドン・ディエゴはじりじりと後ずさった。「あれがどこなのか説明してやろうか?この私の方から?」猛烈な勢いで自らその回答を述べようとするブラッドに、スペイン人は驚き、茫然としているようだった。何故ならば、ドン・ディエゴは未だ自分の回答を口にしてはいなかったのだ。そしてキャプテン・ブラッドは推量――あるいは確かな狙いあっての推論――をした。あのような海岸線は本土のものではないと彼にはわかっており、そして本土でないとすれば、キューバかイスパニョーラ島以外には有り得ない。ブラッドは現在、キューバが更に2度北西にあるのを念頭に置いて、ドン・ディエゴが裏切りを意図したとすれば、それより更にスペイン領に近い地点に向かうであろうと素早く推論した。「あの陸地はな、腹黒いスペインの背誓犬め、イスパニョーラ島[註3]だ」

 そう言うと、彼は自分の推論の真偽を物語るように、ドン・ディエゴの浅黒い顔から血の気が引いてゆくのを間近に見た。しかしスペイン人は既にクォーターデッキ(船尾甲板)中央まで後ずさっており、下にいる乗組員達の目からは、彼等の姿はミズンスル(後檣帆)によってさえぎられていた。彼の唇は唸るような微笑に歪んでいた。

「ああ、ペロ・イングレス!(イングランドの犬め!)物知りじゃないか」彼は息を荒らげながらそう言うと、キャプテンに跳びかかった。

 互いの腕で組み合いながら、キャプテン・ブラッドの右の足払いでスペイン人はバランスを崩し、二人は甲板上からもつれ落ちた。スペイン人は腕力に頼っており、それは相当のものだった。しかしそれは、奴隷に身を落とすという波瀾によって鍛えられたアイルランド人の無駄のない身体には太刀打ちできなかった。彼はブラッドを絞め殺して、あの大型船がこちらを制圧するまでの半時間を稼ごうとした。――このスペイン水域内のイスパニョーラ島沖で堂々と航行している以上、あれがスペイン船であるのは必定だった。しかしドン・ディエゴの画策は全て露見し、完全に無駄となった。彼がそれを悟ったのは甲板上で仰向けに押さえ込まれた時であり、キャプテンの叫び声に応じた男達の足音がコンパニオン(甲板昇降口階段)に騒がしく響く間も、ドン・ディエゴは自分の胸の上で跪くように体重をかけているブラッドによって身動きがとれなくされていた。

「この体勢のまま、貴様の腐った性根の為に祈ってやろうか?」キャプテン・ブラッドは猛々しく嘲笑った。

 だが打ち負かされたスペイン人は、今や望みを絶たれたにもかかわらず、無理やり唇に微笑を浮かべて虚勢の為に嘲り笑った。

「あのガレオン船がやってきて、こちらに板を渡して乗り込んできた時、貴様の為に祈る人間はいるのかな?」

「あのガレオン船!」ドン・ディエゴの裏切りがもたらすものを避けるには既に手遅れなのだという突然の恐ろしい認識と共に、キャプテン・ブラッドは鸚鵡返しに言った。

「あのガレオン船」ドン・ディエゴは冷笑を深めながら繰り返し、そして付け加えた。「あの船が何なのか知っているか?教えてやろう。あれはエンカルナシオン号、カスティリャ海軍提督ドン・ミゲル・デ・エスピノーサの旗艦だ、そしてドン・ミゲルは私の兄だ。実に幸運な遭遇だな。全知全能なる神は、我等がカトリック・スペインをみそなわしたもう」

 今やキャプテン・ブラッドの態度には、ユーモアも洗練も跡形もなかった。彼の輝く瞳は燃え上がり、その表情は硬くなった。

 彼は部下達にスペイン人を任せて立ち上がった。「奴を縛り上げろ」と彼等に命じた。「手首と足首をくくり上げろ、だが、傷つけるな――奴の有難い髪の毛一本傷つけるなよ」

 その禁止命令は必須であった。ほんの少し前に逃れてきたばかりの労役よりも、更に酷い境遇の奴隷に落とされる可能性が高いのだという考えに狂乱した者たちは、この場でスペイン人の手足を引き千切りかねなかった。そして今、彼等がキャプテンに従い自制したのは、その声がにわかに帯びた非情な響きが、ドン・ディエゴ・バルデスに対し死よりもはるかに激烈な何かを約束していたからに過ぎなかった。

「人間の屑!汚い海賊め!随分と信義に篤い男だな!」キャプテン・ブラッドは虜囚に呼びかけた。

 しかしドン・ディエゴは彼を見上げて笑った。

「私を見くびっていたな」彼は全ての者に理解できるように英語で話した。「私は死など恐れないと言ったはずだ、それを貴様の前で証明してやる。身の程を知れ。貴様なぞ、イングランドの駄犬に過ぎんのだ」

「アイルランドのだよ、生憎だが」キャプテン・ブラッドは訂正した。「で、貴様の執行猶予はどうなると思うね、スペインの野良犬殿?」

「この美しいスペイン船を貴様等のような下衆どもに引き渡し、我が同胞たるスペイン船と戦わせる為に私の命を救うとはな!はッ!」ドン・ディエゴは喉で笑った。「冗談ではない!さあ殺すがいい。ふん!実に結構。私は己の務めを果たして死ぬのだ。一時間以内に貴様はスペインの虜囚となり、そしてシンコ・ラガス号は再びスペインの所属となるのだ」

 キャプテン・ブラッドが平然としているように見えたとしても、それは濃い日焼けが血の気が引く様を目立たなくしていたに過ぎなかった。この囚人によって一瞬のうちに激高し、凶暴化した叛逆流刑囚達は、文字通り波のように押し寄せた。「そいつの血をぶちまけてやれ」

「待て」キャプテン・ブラッドは厳然として命じ、それから身をひるがえすと、手摺の側まで歩いた。彼がその場に立ったまま自分の考えに没頭していると、ハグソープ、ウォルヴァーストン、そしてガンナー(砲手)のオーグルが加わってきた。押し黙ったまま、彼等はブラッドと共に海の向こうにいるもう一隻の船を凝視した。その船は風上に向かって方位を1度修正し、今やシンコ・ラガス号と合流する線上を帆走していた。

「半時間もしないうちに」ようやくブラッドが口を開いた。「あの艦に近接されて、我が方の甲板に砲弾を叩き込まれているだろうな」

「俺達は戦える」片目の大男が宣言した。

「戦いだと!」ブラッドは冷笑した。「丸腰同然の二十人の寄せ集めという戦力で、どう戦うつもりだ?いや、方法はたった一つ。この船には何の問題もないと奴等に納得させて、このまま航海を続けさせるように仕向ける為に、我々全員がスペイン人だと思わせるんだ」

「どうやったらそんな事が可能になるんです?」ハグソープは尋ねた。

「そう簡単にはいかない」ブラッドが言った。「それには条件が…」それから彼は突然口をつぐむと、深緑の海面をにらんだまま立ち尽くし、考え込んでいた。皮肉で混ぜ返すつもりのオーグルが苦々しげに口を挟んだ。

「俺達全員がカトリック王の忠臣だって、兄貴の提督相手に保証してもらう為に、ドン・ディエゴ・デ・エスピノーサをスペイン人の部下を満載したボートで行かせりゃいいんですよ」

 キャプテンはくるりと振り返り、一瞬、殴りつけようと意図しているかのようにオーグルを見た。それから彼の表情は変化した。彼のまなざしには天啓の光があった。

「ビダッド(主よ)!それだ。この忌々しい海賊は死を恐れていない。だが息子の方には別の見解があるかもしれない。孝心が重んじられる事、スペインでは絶大だからな」彼は突然に踵(きびす)を返すと、スペイン人を取り押さえている者達の許に大股で戻った。「こっちだ!」彼等に大声で言った。「奴を下まで連れて行け」そして彼は先頭に立ってウエスト(中部甲板)に降り、更にそこからブービーハッチ(艙口蓋)を通って、タールとスパニヤン(縒縄)の悪臭で満たされたトゥイーンデッキ(甲板間の空間)の暗がりへと進んだ。船尾まで行くと、ブラッドは広いワードルーム(上級士官室)のドアを開け放ち、その後を縛り上げられたスペイン人と共に1ダースの部下が続いた。一部の者にハグソープと共に甲板に残るようにと厳しく命じていなければ、全ての乗組員が彼の後に従っていただろう。

 士官室にはスペイン人砲手が置き残していったままに、三門のスターンチェイサー(船尾迎撃砲)が装填済みの砲口を砲門から突き出して鎮座していた。

「オーグル、君にうってつけの仕事だ」ブラッドはそう言い、そして呆然と見とれている男達の小集団の中から屈強な砲手が進み出てくると、中央にある迎撃砲を指し示し、「その砲を運び出せ」と命じた。

 その作業が完了すると、ブラッドはドン・ディエゴを拘束している者を手招きした。

「砲口に奴を縛り付けろ」そう命じると、彼等は即座にもう二名の手を借りて指令を果たすべく急ぎ、その間にブラッドは残りの部下達に向き直った。「何名かはラウンドハウス(後部船室)に行って、スペインの捕虜達を連れてこい。それからダイク、上に行ってスペイン旗を掲げるよう命じるんだ」

 砲口に大の字にされ、両側の砲架に脚と腕をきつく縛りつけられたドン・ディエゴは、狂ったようにキャプテン・ブラッドをにらみつけた。死を恐れない人間であっても、その死に方については怖気を振るうものなのかもしれない。

 泡を吹いた唇から、彼は呪詛と罵倒の言葉を迫害者達に浴びせた。

「この野蛮人!人外のけだもの!忌まわしい異端者め!キリスト教徒にふさわしいやり方で殺すだけでは満足できんのか?」キャプテン・ブラッドは彼に悪意に満ちた微笑を向けてから、眼前に突き出された十五名の手錠をかけられたスペイン人捕虜達を振り返った。

 こちらに向かう間にも、彼等にはドン・ディエゴのわめき声が聞こえていた。今、彼等はその恐怖にとらわれた目で、ドン・ディエゴの苦境を間近に眺めた。捕虜達の中から、見目の良いオリーブ色の肌をした若者であり、他の者達とは振舞いや衣服が明らかに違う者が、「父上!」と叫びながら前に出てきた。

 若者は彼を羽交い絞めにしようとする何本もの腕に抗ってもがきながら、この惨事を避けられるように天国と地獄に呼びかけ、そして最後にキャプテン・ブラッドに向かって荒々しくも哀れっぽく慈悲を請うた。彼を見つめながら、キャプテン・ブラッドは若者の見せた充分な孝心に満足を覚えた。

 後日になって告白しているが、この時、彼は一瞬、情に流されそうになり、彼の心はしばし非情な計画に抗ったという。だが、そのような感傷を正す為に、彼はこのスペイン人達のブリッジタウンでの行いを思い出そうと努めた。彼が殺したあの暴漢が嘲りながら追ってくるのに怯えながら逃げる、うら若いメアリー・トレイルの蒼白な顔が眼前によみがえり、そしてあの恐ろしい夕刻に目撃した筆舌に尽くし難い光景が、目的を前にした彼のためらいを叱咤するように次々と脳裏に浮かんだ。あのスペイン人達は如何なる種類の慈悲も感傷も品性もなく振舞っていた。信仰に凝り固まっているくせに、キリスト教精神のかけらも持ちあわせない。そのような者達の信仰のシンボルが、今も接近してくる艦のメインマスト(大檣)に掲げられているのだ。先程も、残酷で邪悪なドン・ディエゴは、主がカトリック・スペインに対し特別の御加護をお与えくださっているのだという僭越な思い込みによって、全能の神を侮辱していた。ドン・ディエゴは己の誤りを思い知るべきだろう。

 己に課せられた務めに臨むに際しての冷笑的な態度、適切な演出には不可欠の冷笑的態度を取り戻し、彼はオーグルに、ドン・ディエゴをくくりつけた大砲のタッチホール(点火口)から鉛のエプロン(火蓋)を取り除いてマッチに火をつけるように命じた。するとドン・エステバンが再び呪詛の入りまじった祈願により割って入り、ブラッドは若者の方に向きを変えた。

「落ち着け!」彼は鋭く言った。「落ち着いて聞くんだ!君の父親を彼にふさわしい地獄に吹き飛ばしたり、息の根を止めたりする事が私の目的ではない」

 その断言――この状況下においては完全に想定外の断言――によって、二の句が継げなくなるほど若者を驚かせると、次に彼は幸いにも――ドン・ディエゴの為にも、彼自身の為にも幸いな事に――母国語同然に流暢で品の良いカスティリャ語で自分の目的を説明した。

「この苦境の中に、そして拿捕される危険の中に我々を故意に誘い込み、スペイン船に乗った死神を呼び込んだのは君の父上の背信だ。ドン・ディエゴが兄の旗艦を識別したのと同様、兄の提督の方もシンコ・ラガス号を識別してしまっているだろう。今までの処は、何ら問題はない。しかし程なくエンカルナシオン号は、当船が問題ないどころではないと察知するのが可能な距離まで接近するはずだ。遅かれ早かれ何かがおかしいと疑いだすか、目ざとく発見するかして、次には砲撃するか当船との間に板を渡して乗り込んでくる。今の我々は戦える態勢にない。君の父上が、それを承知の上で我々を罠に追いやったようにな。だが戦う以外に道がないというのなら、我々はその道をとる。我々は残忍なスペイン軍にむざむざと降伏はしない」

 彼はその手をドン・ディエゴがくくりつけられた大砲の砲尾に置いた。

「わかるかな。エンカルナシオン号からの第一打に対して、この砲は返礼として火を吹くだろう。私の言いたい事が理解してもらえただろうか?」

 蒼白になり、震えながら、ドン・エステバンは自分に視線を定めている無慈悲な青い瞳に見入った。

「理解?」たじろいだ彼は、全員が固唾を呑んで見守る中、沈黙を破った。「だが、主の御名において、何を理解しろというのだ?どう納得しろと?お前は戦いを避ける事ができるのか?そんな方法があるのなら、私であれ、彼等であれ、その為にお前に手を貸せる事があるのなら――それがお前の意味する処なら――天の御名において、それを言ってくれ」

「もしドン・ディエゴ・デ・エスピノーサが兄の船に乗り込み、彼の立会いと保証によって、あの旗が示すようにシンコ・ラガス号が未だ真実スペイン船であり、何ら問題などないと提督に納得させられれば、戦いは避けられるだろう。だが無論、ドン・ディエゴは自ら赴く事はできない、何故なら彼は……そう、身動きがとれないからな。彼には微熱があり、その為に――なんと言えばいいかな?――船室に閉じ込められている。だが君が、彼の息子である君が伯父上に、この事情や他のちょっとした問題を伝えるんだ、父上からの挨拶と共にね。君はこのスペインの捕虜六名が乗ったボートであちらに向かい、そして私――君達の最近の襲撃によってバルバドスでの拘束から救われた、誉れ高きスペイン人――は君のお目付け役として同行しよう。もし私が生きて戻り、尚かつ、これより先の自由な航海を妨げる如何なる種類のアクシデントもなければ、ドン・ディエゴは生命を保証されるだろう、君達全員と同様に。しかし、わずかであれ裏切りや不測の事態による――そのどちらであろうと私にとっては同じ事だ――アクシデントが発生し、私が先程解説させてもらったような戦いになれば、この大砲が我々の側の第一打に使用され、そして君の父上がこの戦いの最初の犠牲者となるだろう」

 彼は一旦、言葉を切った。彼の仲間達からは賛意を示す低いどよめきが起こり、スペインの捕虜達は不安に身じろぎした。顔色を失い、頬を涙に濡らして、ドン・エステバンは彼の前に立っていた。彼は父親からの意思表示を待った。しかし反応はなかった。ドン・ディエゴの勇気は、悲しいかな、野蛮な試練によって衰えてしまったように見受けられた。酷い縛めを受けた彼は力なく吊るさがり、そして沈黙を守っていた。どうやら彼は、あえて自分の息子に反抗をうながす事はせず、そして恐らくは屈服をうながす事も恥じているようだった。それ故に、こうして彼は息子に決定をゆだねたのだろう。

「さあ」ブラッドが言った。「私の意図は充分に理解できたと思うが?さて、君の返答は如何?」

 ドン・エステバンは乾き切った唇を湿らせ、手の甲で額から冷や汗をふき取った。彼の目は導きを乞うかのように、しばし必死に父親の肩を凝視した。しかし彼の父は無言だった。すすり泣きらしきものが若者から漏れた。

「わた……私は受け入れる」ようやく彼は答え、それから同胞達を振り向いた。「同じく、諸君等も――諸君等も受け入れるだろう」彼は力説した。「ドン・ディエゴの為に、そして諸君等自身の――我々全員の為に。もしも従わなければ、この男は情け容赦なく我々全員を屠殺するだろう」

 ドン・エステバンが屈服し、そして彼等の首領も抵抗を勧めないというのに、何故わざわざ彼等が徒労に過ぎない英雄行為の真似ごとで身の破滅を招くというのだろう?さしたるためらいもなく、彼等は要求された通りの事を行うと答えた。

 ブラッドは向きを変え、ドン・ディエゴの方に進んだ。

「このような姿勢で不自由をさせて済まないな、しかし…」一瞬、彼は言葉を切って囚人を観察し、眉をひそめた。それから、そのほとんど気づかれる事のない休止の後、彼は更に続けた。「君がこの拘束以上の不自由を経験する事はないであろうし、これが可能な限り短い時間で済むと約束しよう」ドン・ディエゴは無言のままだった。

 ピーター・ブラッドはしばし佇み、彼を観察した。それから彼は一礼し、そして踵を返した。



[註1]:大航海時代におけるカリブ海沿岸のスペイン領。フロリダ半島からメキシコ、中米、南米北岸まで。

[註2]:Dead Reckoning 船の元の位置がわかっている時に、時間・船速・進行方向から相対的な現在位置を推定して目的地を目指す航法。

[註3]:【1686年時点のカリブ海】

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図版 1818 Pinkerton Map of the West Indies, Antilles, and Caribbean Sea(パブリックドメイン)

諸島のうち、東から西へ吹く貿易風の風下(leeward)に位置する島々をリーワード諸島、風上(windward)に位置する島々をウィンドワード諸島と呼ぶ。リーワード諸島は英仏オランダ領が入りまじり、ウィンドワード諸島のうち、南方の島々は概ね英国領、北方の島々はフランス領になっている。

※バルバドス島、トバゴ島、グレナダ島は英国領。キュラソー島はオランダ領。
※フロリダ半島、メキシコ、中米、南米北岸はスペイン支配域であり、イスパニョーラ島は西側三分の一がフランス領、残りはスペイン領。トゥルトゥーガ島はフランス領。ジャマイカ島は英国領。

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Captain Blood本編の全訳に加え、時代背景の解説、ラファエル・サバチニ原作映画の紹介、短編集The Chronicles of Captain Blood より番外編「The lovestory of Jeremy Pitt ジェレミー・ピットの恋」を収録

1685年イングランド。アイルランド人医師ピーター・ブラッドは、叛乱に参加し負傷した患者を治療した責めを負い、自らも謀反の罪でバルバドス島…

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