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Ⅱ. THE PERUGIAN ~ペルージャの逃亡者


 フィレンツェ共和国の書記局長はミーサ川に渡された橋の向こうへと騾馬を追い立て、シニガッリアの町の入り口で手綱を引いて止まると其処から目を凝らした。彼の右手、西の方角では遠く霞むアペニン山脈の稜線へと太陽が沈みゆき、天上から投げかけられた燃えるような輝きが都市から吹き上がる炎と混じり合っていた。

 書記局長はためらった。彼の本来の性質は、学問と思索の徒となった事でもわかるように穏やかで内気に近いものであり、自分自身に関しては彼の理論の無情なまでの直截さとは著しく対照的なのであった。オリーブ色の知的な顔についている間隔の広い観察力に長けた両眼を慎重に動かして、彼は眼前の光景を見渡しつつ、はたして事態はチェーザレ・ボルジアにとってどのように運んだのであろうかと不安に思った。騒乱の声は彼の耳まで届き、燃え上がる炎を見て予期した暴力沙汰は現実のものであったのが証明された。既に彼に対して注意を向けていたいかめしい門兵は、そのぐずぐずとした態度を不審に思い、とうとう用件をあれこれと問いただした。彼が身分を明かすと門兵達は敬意を示し、門を通って公使の特権を享受するようにと申し渡した。

 そう言われて彼はためらいを捨て、騾馬を急かせて積雪でぬかるんだ出入り口を通って城下町ボルゴに入り、多少の落ち着きを取り戻すと、打ち捨てられた市場を過ぎて城へと向かった。

 喧騒は全て町の東の区域から聞こえて来るようであったが、彼の知る限りでは――なにぶん、このフィレンツェびとはおそろしく博識な紳士なので――その辺りはヴェネチアの商人と裕福なユダヤ人が居住する地区のはずであった。それゆえ彼は論理的に――彼は常に論理的なのである――推理を展開した。大局は既に決し、あの騒ぎは兵士達の略奪によるものであろう。そしてヴァレンティーノ公爵の家臣達には略奪行為が厳しく禁じられているのを知っていた為、公爵の指揮による全ての権謀術策は通用せず、既にボルジア軍は反逆した傭兵達コンドッティエーリと遭遇し敗北した、というのが彼にとって唯一の論理的結論に思われた。にもかかわらず、彼の知性と人間というものについての知見により、たとえ如何に多くの事実が受容を迫ったとしても、マキャヴェッリにはそのような結論を受け入れるのはためらわれた。反逆者達と和睦を結び、諸条件について話し合う事を名目としたシニガッリア来訪は、チェーザレ・ボルジアの何らかの企みであろうと彼は推測していた。彼は公爵が裏切りに備えていた事を知っていた――常に彼は罠にかかったふりをするだけで、そのバネ仕掛けを操作する者は彼自身であるように図っていた。にもかかわらず、その仕掛けが彼の頭上で閉じたなどとは、書記局長には到底信じられなかった。たとえ公爵により禁じられているはずの略奪が現実に行われていようとも。

 驚愕しつつも、マキャヴェッリは城に向けて急勾配の道を上り進み続けた。間もなく彼の前進は阻まれた。狭い道は人でごったがえし、塞がれていた。大群衆が邸宅の前に押し寄せていた。そのバルコニー上に、彼は遠目にぼんやりとひとりの男の姿を認め、そして男の身振りから、書記局長はその男が群衆に向かい演説をしているのだと結論した。

 マキャヴェッリは群集と離れた処にいた百姓に鞍上あんじょうから尋ねた。

「何が起きているのだ?」

「悪魔のみぞ知るでさぁ」問われた男が答えた。「公爵様ドゥーカがヴィテロッツォ様とそのお仲間達と一緒に二時間前にお館に入りましたんで。そしたら公爵様ドゥーカ傭兵隊長コンドッティエーロの一人――ダ・コレッラってお人だそうですが――が兵隊を連れてやって来て、で、その傭兵達が城下町ボルゴに入ってフェルモの殿様の部隊がいる方に行ったらしいんでさ、で、フェルモの殿様も御館に入ってって、明日は正月だってぇのに。聖母様、新しい年がこんな物騒な始まりなんて、何てこった!奴等はこの城下町ボルゴを地獄に変えるまで、放火に略奪、暴れ放題、御館の方がどうなってるのかは悪魔のみぞ知るでさぁ。イエス様、マリア様ジェズ・マリア!くわばらくわばら。旦那、みんな言ってまさぁ……」

 物憂げで探るような目で見つめられて不安になり、男は唐突に口をつぐんだ。改めて質問者をまじまじと見た彼は、書記局長の衣装にふんだんにあしらわれた毛皮が黒貂セーブルである事に気づき、そのさかしげな、頬骨の目立つ髭のない顔に対し直感的に不信を抱いて、これ以上調子に乗って噂を吹聴せぬ方が賢明であろうと思った。

「いや、でも」彼は突然話を打ち切った。「みんな色々言ってるようですが、アタシにゃよくわからないんでさ」

 男が不意に沈黙した理由を察し、マキャヴェッリの口は微笑でほんの少し横に広がった。彼はそれ以上の情報を求めなかった。実際、これ以上は聞く必要がなかった。コレッラ指揮下の公爵の部下達がオリヴェロット・ダ・フェルモの兵の方に向かって行ったというのなら、既に彼の予想通りの結果になっているはずであり、裏切りには裏切りをもって対抗するチェーザレ・ボルジアは反乱を起こした傭兵達コンドッティエーリを打ちのめしているだろう。

 突然に巻き起こった人波がフィレンツェの雄弁家とその百姓を引き離した。群衆のどよめきが高まった。

公爵様ドゥーカ公爵様ドゥーカ!」

 あぶみに立ち上がり、マキャヴェッリが遠目で館の前に見たのは、武具の輝きとボルジア家の雄牛の紋章が描かれた小旗のはためきであった。槍は二列縦隊で群衆をかき分けながら進み、書記局長の歩みを阻んだ地点に向かって敏速に街路を進んできた。

 快速船のへさきの前の水のように群衆は慌てふためき右往左往した。人々は互いにぶつかり合い、悪態をつきながら押しあい、一瞬、荒々しい叫び声と沸騰する怒りが場に満ちた。だがしかし、それを上回る歓呼の叫びが上がった。

公爵様ドゥーカ公爵様ドゥーカ!」

 金属音を響かせて輝く騎手達がやって来た。そして彼等の先頭には、力強い青毛の軍馬に跨り全身に鋼をまとった華麗な姿があった。目庇まびさしは開かれており、その中にある若く白い顔は揺るぎなく厳しいものだった。美しいハシバミ色の目は真っ直ぐに前を見つめ、彼に向けられた雷のような歓呼の声を一顧だにしていなかった。しかしその目は何も見ないようでいて全てを見ていた。彼の視線がフィレンツェの雄弁家の姿をとらえると、その目は突然、燃え上がるように輝いた。

 マキャヴェッリは脱帽し、かの覇者に敬意を表する為に騾馬の背すれすれまで己の頭を下げお辞儀をした。白く若い顔が浮かべた微笑は概ねが意識的な自尊であった。何故なら公爵にとって、このような瞬間をフィレンツェの目とも言うべき人物が目撃しているというのは歓迎すべき事であったのだから。彼は公使の前で手綱を引いた。

やぁオラニッコロ殿セル・ニッコロ!」彼は呼びかけた。

 槍兵達が群集を下がらせ速やかに道を開くと、マキャヴェッリは召きに応じて騾馬を前に進めた。

「やったぞ」公爵は告げた。「私は心に期した以上を果たした。我が決意が何であったかを教えて進ぜよう。私は己の好機を作り出し、そして自ら作り出した好機を利用した――ヴィッテリ、オリヴェロット、グラヴィーナ、ジャンジョルダーノの賊どもを一網打尽にしたのだ。他のオルシーニ一族、ジャンパオロ・バリオーニとペトルッチも後に続くであろう。私の投げる網は広いぞ、最後の一人に至るまで裏切りの代償を支払わせずに置くものか」

 彼は言葉を切ると相手の発言を待った。それはマキャヴェッリ自身の意見ではなく、このようなしらせにフィレンツェ政府が如何なる反応を示すかを知る為であった。だが書記局長は賢明な自重を保った。彼は不用意な発言は一切しなかった。その表情からは何ひとつ読み取る事はできなかった。彼は声明を受け入れるのみで意見を述べる立場にない者として、無言で一礼した。

 彼を見つめる美しい両目の間で、わずかに眉がひそめられた。

「フィレンツェの書記局長よ、貴国政府もさぞ喜んでくれるであろうな」彼は半ば挑発的にそう言った。

「共和国も知る処となるでしょう、閣下」それが雄弁家のそつのない答えであった。「そして私が閣下に共和国よりの祝辞をお伝えするほまれを得る日を心待ちにしております」

「多くを成したが」公爵は再び口を開いた。「成すべき事は未だ多く残っている。そして私にそれを語るのは誰あろう?」彼は助言を求めるような目でマキャヴェッリを見た。

「私にお尋ねでしょうか?」

「そうだ」公爵が言った。

「論をお求めでございますか?」

 公爵は正面から見据え、それから破顔した。「論をだ」彼は言った。「そなたが私に実践をまかせているものだ」

 マキャヴェッリの目が細まった。「私が論について話す時は」と彼は前置きした。「それは私自身の個人的な意見であって――フィレンツェの書記局長としての公的な発言ではありません」そして彼はいま少し近くへと顔を寄せて「君主が敵を持つ場合」と静かに語り始めた。「彼は二つの方法のうちのいずれかによって彼等と相対さねばなりません。すなわち、彼等を友人にするか、あるいは敵対する者を上回る力を持つか」

 公爵はわずかに微笑んだ。「そなたは何処でそれを学んだのだ?」彼は尋ねた。

「私は感嘆と共に閣下の偉業を拝見して参りました」フィレンツェ人が答えた。

「そしてそなたは、私の未来を律する為に格言の中に私の行動を鋳込んだのか?」

「それに留まりません、閣下。未来の全ての君主を律する為に」

 公爵は黒い両眼と目立つ頬骨のある、血色の悪い知的な顔を正面から見た。

「時折、そなたがどちらであるのか迷う事がある――廷臣か、それとも哲学者か」彼は言った。「だが、そなたの助言は正鵠を射ている――彼等を私の友とするか、あるいは彼等を上回る力を持って敵となし続けるか。私には彼等を再び友として信頼する事はできなかった。そなたも理解するであろうが。それゆえに…」彼は不意に言葉を切った。「だが、この話の続きは後でしよう、私が戻った時にな。コレッラの兵が暴走している。彼等は放火と城下町ボルゴの略奪に走った。兵達を鎮める為に行かねばならぬ、さもなくば、ヴェネチアは略奪による商人達の損失を取り戻す事を武力行使の名目にするであろうからな。そなたは城塞で寛ぐがいい。其処で私を待て」

 槍で指し示し、公爵はくるりと向きを変えると己の務めを果たす為に馬の歩調を速め、他方、衆目の中で公爵の知己として遇されたマキャヴェッリは群集が彼の為に開いた道を易々と通り反対方向へと立ち去った。フィレンツェ人は指示された通りに城塞へと向かい、そして其処からフィレンツェ共和国に宛てて一連の事件について報告した有名な手紙をしたためた。彼はチェーザレ・ボルジアが己の信頼を裏切った者達に対し、一気にその立場を逆転させる為に採った策を報告し、チェーザレの絶妙な手腕によって如何にしてオルシーニ家の三名と、ヴィテロッツォ・ヴィッテリ、オリヴェロット・ダ・フェルモが捕縛されたかを語り、そして最後にこのような一文で結んだ。『私は彼等のうちに、朝まで命長らえる者がいるであろうかと、大いに疑います。』

 程なくして彼は、己の全洞察力をもってしてもチェーザレ・ボルジアの権謀術策の真の深みを測り損ねていた事を悟るのである。明敏なる一観察者としての認識は、オルシーニ達を即座に絞殺すればローマの隅々まで驚愕と警戒心を広める結果となり、危機を感じた有力枢機卿のジョヴァンニ・オルシーニ、その弟ジュリオ、そして(この稿で特に関心の対象とされる人物である)甥のマッテーオは逃亡し、更には共謀し報復する事によって我が身の安全を図らんとするであろう、というものであった。

 マキャヴェッリの誤った未来予測においてチェーザレが直面せざるを得ぬとされた事態の想定は、実際の公爵が政治的手腕においてどれほどこのフィレンツェ人を上回っていたかを物語るもう一つの証左といえるだろう。

 フェルモとカステッロの僭主はマキャヴェッリの予測通りに扱われた。彼等は形式的な裁判にかけられ、君主に対する反逆によって有罪と裁決されて、その夜のうちにシニガッリアの公邸で締殺され――背中合わせに、同じロープで行われたといわれている――その後、彼等の遺体は儀式に従いミゼリコルディア病院【註1】に運ばれた。しかし両オルシーニはこの時点では、未だ反乱の同盟者達と運命を共にしてはいなかった。彼等は更に十日間の命を与えられたのである。チェーザレがオルシーニ枢機卿と残りのオルシーニ一族が無事捕縛されたというローマからの報せを受けるまでは。そしてアッシジ――その時までに公爵ドゥーカが兵を進めていた地――において、直ちにグラヴィーナ公フランチェスコとパオロ・オルシーニは処刑人の許に送られた。

 その夜、シニガッリアでマキャヴェッリに語った通りに、公爵の網は広く投げかけられた。それでも尚、四名の者がその網を逃れていた。ジャンパオロ・バリオーニは病を理由にシニガッリアで公爵を待ち伏せするのを拒否したが、その病は同盟者達の致命的な現状に比べれば重篤とはほど遠い事が証明された。シエーナの僭主パンドルフォ・ペトルッチ――反逆者同盟の中で公爵の意図を疑うだけの知性を備えていた唯一の人物――は徹底的に守備を固めて自都市の城壁内に避難し、次なる事態に備えていた。ファビオ・オルシーニはペトルッチの後に従った。そしてマッテーオ・オルシーニ、ファビオの従弟にして枢機卿の甥である彼は既に行方をくらまし、誰もその所在を知らなかった。

 公爵は所在が知れている三人に狙いを定めて狩り出した。マッテーオは優先度が低く、後回しにされた。

「だが私は神にかけて誓う」チェーザレは、丸顔のアガビト不在時に代理秘書を務めるフランチェスコ会修道士のフラ・セラフィーノに言った――「必ずや、イタリア中の全ての巣穴を徹底的に探り、何処までも追い詰めきゃつを狩り出してくれると」

 これは彼が反逆者のグラヴィーナ公フランチェスコ・オルシーニとオルシーニ一族の庶子パオロの絞殺を命じたその日、アッシジでの出来事であった。その同じ夜、密偵の一人が携えてきた情報は、マッテーオ・オルシーニがピエーヴェに潜伏し、遠い血族であるアルメリコの城にいるというものであった。このアルメリコとは、オルシーニ一族とはいえ公爵の注意を引くにはあまりにも高齢の隠居状態にあり、学究の徒として大量の書物と一人娘と共に隠遁に近い生活を送り、野心とは無縁の、目下イタリアを苛み続けている全ての争いと流血に乱されぬ平穏のみを求める人物であった。

 公爵ドゥーカが滞在しているロッカ・マッジョーレ、狭間胸壁を備えた灰色の大城塞は、都市を見下ろす急勾配な丘の頂きに建ち、そのごつごつとして傷だらけの断崖上からウンブリア平野を睥睨していた。その敷物もなく寒々しい、広い石造りのに、彼は使者を迎え入れた。奥行きの深い大きな暖炉で焚かれている激しい炎は、がらんとした部屋の空間に橙色の光を放射し、頭上の円形天井まで届いた光は穹稜きゅうりょうの形を浮かび上がらせていた。それでも尚、使者が己の発見について報告する間、物思わしげに行きつ戻りつゆっくりと歩く公爵は、防寒の為に山猫の毛皮で縁取られた緋色のマントをきっちりと着込んでいだ。窓の近くで樫材の文机を前にして座り、羽根ペンの先端を切り整えているフラ・セラフィーノは、一見作業に集中しているようであったが、其処で話されている事を一言も聞き落とさぬようにしていた。

 その使者は知的かつ勤勉であった。マッテーオ・オルシーニがピエーヴェにいるという情報を掴んだだけで済ませずに、噂話の断片を求めて城下町ボルゴを探索し、公爵が今まさに――間接的な表現で――尋ねた質問を自分の頭であらかじめ予測して、その問いに即答できるような裏付けを用意していた。

「『そしてこれは、ほんの噂ですが』」チェーザレは冷笑した。「『消息筋によれば、マッテーオ・オルシーニはピエーヴェにいるといわれております』。私は『消息筋』とやらとその眷族の死を呪うぞ。『消息筋』とやらの申す事がまことであったためしがない」

「しかしこの話は、恐らくは信憑性が高く思われます」使者は言った。

 公爵は歩みを止めた。彼は炎を上げる薪の前に立ち、心地よい暖かさに片手を差し出した――その繊細な手、ほっそりとした長く形良い指が、蹄鉄ていてつをへし折る事が出来るほどの強さを持つとは到底信じられないだろう。そのような彼の立ち姿は、飛びはぜる火の粉を緋色の外套の上に踊らせて、彼自身が炎と化したかのように見えた。黄褐色の頭を振り返らせた時、彼の美しい目には夢想するような色は既になく、使者に対してしっかりと焦点が定められていた。

「信憑性?」彼は言った。「根拠を示してみよ」

 使者は答えを用意していた。

「アルメリコ伯爵には御息女があります」彼は即答した。「この婦人――マドンナ・フルヴィアと呼ばれておいでですが――とマッテーオ殿が許婚の間柄であるというのは、ピエーヴェではよく知られた話です。彼等は婚姻を禁じられるほど近い血縁ではありません。老齢の伯爵もマッテーオ殿を目にかけ、息子のように愛しておられます。そしてマッテーオ殿にとって、このように彼を愛する人々と共にあるよりも更に安全な場所が、このイタリアの何処いずこにありましょうか?そしてまたピエーヴェは遠く、その領主は世俗の騒乱を忌避する学者であります。それゆえにピエーヴェはマッテーオ殿が庇護を頼んで走るであろう最も可能性の高い地であり、彼を探すべき究極の場所であります。かような事実によって彼が潜伏するという噂は信憑性を増しております」

 公爵はしばし無言で使者を見つめ、彼の述べた事柄を吟味した。

「そなたの推論は理にかなっている」公爵は熟慮の末に認容にんようし、使者は過分の称賛に恐縮して二重にお辞儀をした。「下がってよいぞ。そしてダ・コレッラに私の許に参るよう伝えよ」

 男は再び一礼すると静かに扉へと向かい、姿を消した。重いカーテンが揺れる窓までチェーザレはゆっくりと歩き、そして一月の午後の冷たい光の中で、はるかに広がる荒涼とした風景を見つめた。遠い青灰色のアペニン山脈の上には垂れ込めた雲の切れ目から金色の空がのぞいていた。曲がりくねったチアジ川が、単調な緑の平野の上に銀色のリボンのように横たわるテベレ川へと注いでいた。チェーザレはしばし眼前を凝視していたが、それらは彼の目に入ってはいなかった。それから不意に彼は、つい今しがた切り整えたばかりの羽根ペンの調子を試していたフラ・セラフィーノの方を向いた。

「あやつを捕らえる為には何が必要であろう?」彼は尋ねた。

 それは他者に意見を求める際の彼のやり方であったが、彼自身の考えを超える意見を具申した者は未だいなかった。そして他者の助言が自分の見解と調和せぬ場合、彼は自身の考えに従って行動した。

 骨ばった顔の修道士は突然の問いに驚いて顔を上げた。公爵のやり方を知り、そしてコレッラが既に呼ばれている事を知っているフラ・セラフィーノは2と2を足して、その合計を公爵に回答した。

「十本の槍を送り、ピエーヴェからあの者を連行するべきでしょう」彼は答えた。

「十本の槍――五十名の兵か……ふむ!そしてもしピエーヴェがその跳ね橋を上げ、抵抗するなら?」

「更に二十本の槍と大砲を」セラフィーノが言った。

 公爵は彼を見つめてかすかに笑った。

「お前はピエーヴェについて何も知らず、男達についても知る事が少ないと証明したな、フラ・セラフィーノ。果たしてお前は女達について何を知っているだろう?」

「ああ主よ、御勘弁を!」完全に憤慨して修道士は叫んだ。

「なるほど、お前はこの件については助言者として役に立たぬという訳だな」というのが公爵の結論であった。「お前が一時的に、我が身を女の立場に置き換えて考える事ができるかと期待したのだが」

「女の立場で考えるですと?」フラ・セラフィーノはそう問い返し、落ち窪んだ目を見開いた。

「どのような振る舞いの人間がお前を欺くに最も適しているであろうかを、私に示してほしかったのだ。よいか、ピエーヴェはうさぎの巣穴のように住宅が密集した地域だ。あそこには兵の一隊を隠す事すら容易であろうし、男一人ならば尚更だ。それに私はアルメリコ伯爵を警戒させて、あの地にかくまわれていると疑われる客人を巣穴に潜り込ませるつもりはない。この困難がわかるであろう?これを解決する為に、私は情が薄く良心に欠けた男を必要としているのだ。己の野心以外の何にも心を動かされず、己の栄達以外の何も気にかけない悪党。そして必須条件として、婦人が好感を覚えやすく、その信頼を獲得する可能性の高い外見の持ち主でなければならない。私は何処でこのような者を探せばよいのだろうか?」

 しかしフラ・セラフィーノは答えを持っていなかった。彼は驚きつつ、チェーザレが己の目的地まで掘り進もうとしている曲がりくねった地下道について考え込んでいた。そうするうちにコレッラが鎧をきしませながら音高く入室してきた。長靴をはき顎鬚あごひげを生やした、背が高く屈強で堅苦しい男、傭兵隊長コンドッティエーロの典型的なタイプであった。

 公爵はコレッラを振り返り、そして無言のまま長々と見つめた。最終的に彼は首を振った。

「駄目だな」彼は言った。「お前では不適任だ。お前は見るからに軍人で、見るからに剣士であって、リュート弾きとはほど遠い。いっそ不器量とすら言ってもよい。お前が女であったらば、フラ・セラフィーノ、彼をむくつけき輩であると思うのではないか?」

「私は女ではありません。我が君……」

「見ればわかる」と公爵は否認した。

「それに、もし私が女であったとすれば、恐らく何も考えないでしょう、女が物を考えるなど信じられませんから」

「女嫌いめ」公爵は言った。

「主のお陰をもって」フラ・セラフィーノは敬虔に言葉を返した。

 公爵は傭兵隊長の評価に戻った。

「駄目だ」彼は再び言った。「成功の本質とは作業に適した道具を選ぶ事にある。そしてお前はこの為の道具ではない、ミケーレ。私は剣も振り回せればソネットをそらんじる事も得意とする、見目が良く、貪欲で、良心の欠けた悪党を必要としている。私は何処でその条件を満たす者を見つけるべきであろう?フェランテ・ダ・イゾラ【註2】は適任であっただろうが、しかし哀れなフェランテは彼の冗談の一環として死んでしまった」

「その任務とは何でありましょうか、我が君?」傭兵隊長コンドッティエーロは思い切って尋ねた。

「その任にかなった者を見つけ、送り出す際に、その男に話す。ラミレスはいるか?」彼は突然に問うた。

「彼はウルビーノにおります」コレッラが答えた。「しかしパンタレオーネ・デッリ・ウベルティが閣下のおっしゃる男に当てはまるように思われます」

 公爵は熟考した。「その者をこちらに寄越せ」彼が手短に言うとコレッラは姿勢を正して一礼し、その使いに向かった。

 チェーザレがゆっくりと炎の前に戻り、暖をとりながら待つうちに、パンタレオーネがやって来た――艶やかな黒髪と鋭く黒い目をした、長身で端正な顔立ちの男であり、その物腰や服装には軍人らしさと同時に、彼の若さには相応のいささか洒落者めいた風も感じられた。

 会見は短かった。「私が受け取った情報から」と、チェーザレが言った。「私はマッテーオ・オルシーニがピエーヴェで彼の伯父と共にいるという目に千ドゥカートを賭けるであろう。私は奴の首にその千ドゥカートを支払う。行け、そしてそれを得るがよい」

 パンタレオーネは呆気に取られた。彼は黒い目をぱちくりさせた。

「私はどのような部下を連れて行くべきでしょうか?」彼はどもりながら言った。

「お前が望む者達を。だが、この任務が力押しで果たせる性質のものではないと理解せよ。最初に武力を誇示すれば、マッテーオが其処にいたとしても土竜もぐらのように地下に隠れ、総出で探そうと発見は困難になるかもしれぬ。これは槍ではなく知力を必要とする任務だ。ピエーヴェにはマッテーオを愛する、あるいはマッテーオが愛する婦人がいる。……だがお前は自分自身で好機を見出し、そしてその好機を適切に使うのだ。コレッラはお前がこのような任務を達成する才覚を備えているものと考えている。私にそれを証明して見せよ、さすれば褒美をはずむであろう」彼は下がらせる為に手を振り、そしてパンタレオーネは心に浮かんだ百の質問をこらえて出発した。

 フラ・セラフィーノは物思いに耽りながら、羽根ペンで曲がった鼻を撫ぜた。

「私はあの者に婦人を託さないでしょう、そして婦人にもあの者を託しません」彼は独り言のように口にした。「彼は唇が厚過ぎる【註3】」

「それが」と、チェーザレが言った。「私があの者を選んだ理由だ」

「女の手中で彼は蝋のごとくになりましょう」修道士は続けた。

「私は千ドゥカートの金で彼を固めている」公爵は応じた。

 しかし修道士の悲観的な観測は全く減じなかった。「女の手管は金をも溶かし、液状と化す事もできましょう」彼は言った。

 公爵は一瞬彼を見た。「随分と女に詳しいな、フラ・セラフィーノ」彼は言い、その非難に秘書僧は震えあがって口を閉じた。



訳註

【註1】:13世紀フィレンツェで設立された慈善団体。最も重要な活動は疫病患者の病院への運搬と埋葬であり、目だけを出した黒い頭巾と長い修道着を制服とする。ペストの流行に伴い規模を拡大し、多くの都市に支部を持つようになる。

【註2】:フェランテ・ダ・イゾラとその死の顛末は、本書"The Banner of the Bull"に先立つサバチニの短編集"The Justice of the Duke(ボルジアの裁き Vol1"に収録された短編"The Test(フェランテの試罪)"及び" Ferrante’s Jest(フェランテの悪戯)"に描かれている 。

【註3】:人相学において厚い唇は、好色、強欲、口舌の徒等を表す。

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60,748字

英国の作家ラファエル・サバチニによるチェーザレ・ボルジアを狂言回しにした中篇集『The Banner of the Bull』の独自翻訳

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