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Ⅲ. THE VENETIAN ~ヴェネチアの暗殺者


 傑出した人物は敵に事欠かないものである。偉人はまず己を下回る才人達、彼の成功によってその野心を妨げ、あるいは凌駕し日陰に追いやる者達を警戒しなければならない。そして彼は更に、人類の愚劣なる寄生虫、自らが属する種に何ら利益をもたらさず、何の生産性もない、自分自身の為に構想する知性も自分より優れた人物の考えを実行する能力や才能にも欠けた者達に対しても注意を払わねばならない。その者達は自分が無価値な存在であるという漠然とした認識に懊悩し、その挙句に声望を得た人物に向かって悪意の毒液を吐きかけるのである。これはただひたすらに、彼等の下劣な本性の衝動に従い、愚かで偏狭な虚栄心の命じるままに行われるに過ぎない。傑出した他者という存在は、彼等の自己愛がゆえに彼等自身を傷つけるのだ。風評によって嫉みの対象を引きずり落とせば自分と偉人との間に存在する差を縮められるかと考えて、彼等は易々と中傷者や誹謗者になる。雄弁な――忌憚なく事実を指摘するならば――虚言者である彼等は、その唯一の、そして極めていかがわしい能力を駆使するのである。彼等は己の能力、重要性、業績について偽りを述べ、それによって己をより大きな存在に見せかけるだろう。そして嫉みの対象に関しては悪意により惨い嘘をつき、その功績を矮小化し、公私の生活について中傷し、そしてその評判に毒心から捏造した汚泥を塗りたくるのだ。

 そのような者達を識別する特徴――愚者が常に見せる性質は二つある。度の過ぎた虚栄心と、大抵の場合はその虚栄心の表出以上の何ものでもない虚言である。しかしその虚言は言うまでもなく当人のお粗末な知性を基準としたものであり、騙しおおせるのは当人と同じ程度の人間だけである。

 このような輩の一人がパオロ・カペロ、最も静謐なる共和国ヴェネチアセレニッシマ・レプブリカ・ディ・ヴェネツィアの雄弁家であり、彼を通じてチェーザレ・ボルジアに対するヴェネチア人の憎悪を促進する為に選ばれたしもべであった。ヴェネチアはイタリアにおける公爵ドゥーカの勢力の拡大を、狼狽を募らせながら注視していた。この「アドリア海の女王」は半島における深刻な対抗者、彼等の輝かしき栄光に暗い影を落とさんとする者に脅威を感じ、たとえ彼がその領土を侵害せずとも決して心安らぐ事はなかった。その嫉妬心はチェーザレに対する判断を歪めた。何故ならヴェネチアは自ら彼を判じようとし、その際に己の知る唯一の尺度を適用してしまったのである。つまりは非凡なる才を持つ人物を、小間物商やスパイス商人のなりわいを支配する尺度によって判じたのである。かようにしてヴェネチアはイタリアにおけるチェーザレの最も狡猾にして執念深い敵となったのであるが、往々にして武器を持たぬ敵というのはその分だけ卑劣なものなのであった。

 貪欲な商人達の眼前でロマーニャをさらっていった男を打ちのめす為とあらばヴェネチアは嬉々として兵を動かすだろうが、とはいえ数リーグ先にフランスの見える場所でそれを行う勇気はなかった。だがそれでも尚、彼等は可能な限りの手を打った。ヴェネチアはルイ王と彼との離間を画策して失敗し、次に常ならば角つき合わせる仲の諸国との同盟を検討したが、こちらも彼等を凌駕する鋭く賢明な奸智により失敗に終わり、使い慣れた武器である暗殺と中傷に頼る事にした。

 後者の仕事を任せる人材として、彼等は既に有していた便利な道具であるカペロという下郎をヴァチカンにおけるヴェネチアの雄弁家として送り込んだ。前者を任された者については後段で語られるのをしばしお待ちいただきたい。

 このカペロという男はありとあらゆる狡賢い手口を身に着けていた。彼は闇で画策し地下に隠れ、大使という不可侵の立場にある人物に対する果断な処置を正当化できるような口実を公爵ドゥーカに与えなかった。その恥ずべき活動歴の初期に彼が如何にして暗殺を免れたのか、筆者には全く理解できない。筆者はその手ぬかりを、チェーザレ・ボルジアの犯した数少ない痛恨の失敗の一つと見ている。雇われ刺客のダガーは、ある日の闇夜にチェーザレ・ボルジアとその一族全ての名をはるか後世まで貶め続ける汚染の源を断っていたかもしれないのだ。

 ガンディア公ジョヴァンニ(ホアン)・ボルジアが軽薄な恋愛沙汰のひとつが原因で殺害され【註1】、そして下手人は――容疑者として弟のジョフレド(ホフレ)から助祭枢機卿のアスカーニオ・スフォルツァに至るまで多くの名が挙げられていたが――特定されずにいた。それが事件の一年後になって、この事件がチェーザレによる弟殺しであったという、何の証拠もない告発がヴェネチアから聞こえて来た。ペドロ・カルデス――あるいはペロットとも呼ばれていた――という教皇の侍従がテベレ川に転落し溺死した事件は――カペロの創意に富んだ破廉恥な筆によって後世の我々も知るように――チェーザレが如何にして教皇の腕の中に逃げ込んだ哀れな男を刺したかという、ヴェネチア発の身の毛もよだつ噂話となった。目撃者など存在しないにもかかわらず、カペロはまるで我が目で見たかのように微に入り細を穿ち、教皇の顔に血飛沫が飛ぶ光景すら含めてその状況を描写したのであった。不運なトルコの皇子、ジェム・スルタンがナポリにおいて仙痛で逝去した時には、カペロは彼がチェーザレに毒殺されたと馬鹿げた話を捏造し、またジョヴァンニ・ボルジア枢機卿がロマーニャを通る旅の間に熱病で死んだ際にも、彼は同じような中傷を広めた。そしてもしこれが全てであったなら――あるいは、もしカペロが捏造した中傷の全てが剣と毒に関するものだけに留まっていたならば――彼に対する断罪には多少の手心を加える余地も有り得た。しかし更に悪質な、輪をかけて悪質なものがあった。最も静謐なる共和国ヴェネチアを利する為に利用できるような、極度に酷い中傷の堆肥というのは、実際の処、そうそうあるものではなかった。彼の不潔な筆は教皇庁の控えの間で拾い上げた醜聞ゴシップの主をチェーザレ・ボルジアに仕立て上げる作業に熱中するようになり、それはチェーザレ本人だけでなく彼の家族全てが捏造か誇張による悪意の標的とされた。それらの多くは今も閲覧可能ではあるが、信頼できる歴史資料とは言い難い。私はそのような文章の要約を記してこの原稿を汚したくはないし、読者諸賢の卑しからぬ御心を損なう事も避けたいのである。

 かようにしてパオロ・カペロは最も静謐なる共和国ヴェネチアセレニッシマ・レプブリカ・ディ・ヴェネツィアに奉仕した。しかし彼の熱烈な奉仕にもかかわらず、最も静謐なる共和国ヴェネチアは切望する成果を得るには迂遠であると考え、別の、そして中傷よりも直接的な解決策の採用を決意した。ヴェネチアは御托身より数えて壱千五百年目、教皇ロドリーゴ・ボルジアがアレクサンデルⅥ世として聖ペテロの椅子に座して八年目にあたる年の十月中旬に決意を固めた。その決断を彼等にうながしたのは、リミニの専制君主の座を追われ、現在は彼等の保護下にあるパンドルフォ・マラテスタとの会見、そしてヴェネチアが欲していたマラテスタの支配地が――教皇特権に基づいて――征服者の権利としてチェーザレ・ボルジアの手に渡り、その領地と権力を膨張させたという事実にあった。

 子飼いの雄弁家による下劣な拾遺や捏造によって得られるものよりも、更に苛烈な処置を採るべき時が到来したと、最も静謐なる共和国ヴェネチアは考えた。この不吉なる任務を共和国に代わって遂行する者として、ヴェネチアの利益をこよなく重んずる名門貴族、大胆にして意志堅固、臨機の才を備え、そしてヴァレンティーノ公爵に対する反感が個人的な憎悪の域に達するかと思われるほど激しい事で知られる人物が選ばれた。その男――大評議会議員マーカントニオ・シニバルディ――は、公爵ドゥーカが成し遂げた征服に対する偽りの祝辞を伝える事を名目に、ヴェネチアの特命全権公使としてリミニに派遣されたのであった。

 彼の任務が平和的かつ友好的な性質であるのを強調するかのように、シニバルディは彼の令室である、アルヴィアーノの名家出身のまことに美しくたしなみ深い貴婦人を伴っていた。夫妻のリミニへの出座は華やかで豪奢な随行に取り巻かれたものであったが、それは彼等が代表している豪盛なる共和国の基準においても並外れたものだった。

 夫人は刺繍をほどこされた深紅の天鵞絨ビロードのとばりを垂らした輿こしに乗り、乳白色のバルバリー驢馬二頭に運ばれていた。輿自体も豪華な造りをしており、花嫁の飾り櫃のように金箔をきせ彩色され、両側には赤糸で聖マルコの象徴である有翼獅子の紋章を織り込んだ金色織のカーテンが吊るされていた。輿を取り囲む大勢の小姓は、全て共和国の制服を着た貴族の若者であった。

 豪華で野蛮な衣服をまとい怪異な容貌をした巨漢のヌビア人剣士達、それにターバンを巻いたムーア人の奴隷数十名が徒歩かちで続き、そして最後に輝かしき貴人であるシニバルディに随行するアルバレストの射手二十騎が行進した。整った容貌、きらびやかな姿のシニバルディは、見事な軍馬に跨り、あぶみの片側を小走りする随身を従えていた。その後には彼の私的な使用人の一団がやって来た――彼の秘書、毒味役、軍僧、そして最後尾は主人の気前よさを誇示して喝采を引き起こす為にひと抱えほどの銀貨を群集に撒く慈善係であった。

 つい先頃のチェーザレ入城の壮観から興奮冷めやらぬリミニの良民であったが、彼等はこの絢爛極まる光景にまたしても目を眩まされ、呆然とさせられた。

 シニバルディの滞在先――我等が友人カペロのはからいである――であるラニエーリ邸の主人は、追放されたマラテスタの議会の一員でありながら最も声高に征服者チェーザレを歓迎する者の一人であり、並外れた雄弁をもってヴァレンティーノ公をリミニの解放者として称賛していた。

 ヴァレンティーノ公爵はそのような耳障りのよい言葉には惑わされなかった。むしろそれをきっかけに、厳重な監視をマラテスタの元議員に向けるよう心した。また彼は、特命全権公使シニバルディによって最も静謐なる共和国ヴェネチアを代表して述べられた更に耳障りのよい慶賀の言葉にも一切惑わされなかった。自分に対するヴェネチアの本心については、知り過ぎるほど――証拠ならば既に有り余る量を得ていた――知っていたのだ。彼は最大限に優雅で最大限に白々しい言辞を用いて彼等に応えた。そしてラニエーリがリミニにおけるシニバルディのもてなし役を引き受け、このよく頭の回る演説家二人がひとつ屋根の下にいるという事実を知った時、彼は秘書官のアガビトに対し、既に警戒対象とされているラニエーリ邸の監視を強化するよう命じた。

 シニバルディの動向について記すには、まずラニエーリ――伝統的な陰謀家の容姿とは正反対の、明るく陽気な青い目をした血色のいい小太りの紳士――が奇妙な友人達を呼び集めていた件に言及しておかねばなるまい。その内訳は、まずフランチェスコ・ダルヴィアーノ、公爵ドゥーカの最も執念深い敵として悪名高い武人であるバルトロメオ・ダルヴィアーノ【註2】の弟。残る四人のうち三人の貴族パトリキは特筆すべき要素はないが、最後の一人であるローマの平民プレブスジーノ・ダニョーロは、かつてその口舌と文筆の才により、自滅の元となった教皇への中傷を流布していた奸物であった。過去の痛い教訓にも懲りず、この男は偉人の問題に介入し君主の運命を操らんとする思い上がりを抑える事ができなかったのである。

 この時代において、裏切り者を探り出す技術に関しては、明敏にして慎重なるヴァレンティーノ公爵の右に出る者はいなかった。チェーザレは彼等が自らの行動によって正体を露呈するのを待たなかった――何故ならば、その時にはもう事態に対処するには遅きに過ぎると承知していたからである。陰謀が練り上げられている間にそれを暴く方が、より望ましかった。そして彼が駆使する手口のうちで最も信を置かれたもの、ほとんどの場合は秘密のうちに、そして当人が概ね無自覚のうちに任務を果たさせるというもの、つまりは囮を使った手口である。

 嫌疑を持たれている――それも確かな根拠を伴って――謀反はマレッキア川を見下ろすラニエーリの陰気な邸宅で孵化しつつあり、チェーザレは秘書のアガビトに命じて、何人かの優秀な士官が公爵ドゥーカに不満を抱いているという噂を多数の密偵を通じて国外に広めさせた。特に強調されたのがアンジェロ・グラチアーニという名の野心的で有能な若い隊長の不満であり、彼に対して公爵が甚だしく不公正に振る舞っており、このグラチアーニは復讐の機会を待ち望んでいるとの評判が立てられた。

 この醜聞は下劣な噂が広まる際には常にそうであるように、極めて迅速に広まった。それらの噂はラニエーリ卿の密偵によって居酒屋で収集され、主人の耳に速やかに届けられた。グラチアーニの名は公爵のチェゼーナ長官レミーロ・デ・ロルカと並べて検討され、しばらくの間、ラニエーリとシニバルディはこの両者の間で決めかねていた。最終的に彼等はグラチアーニを選択した。デ・ロルカはより力のある男であり、より大きな影響力があった。だが彼等はそれほど多くを必要としてはいなかった。グラチアーニは現在、一時的に公爵の護衛の指揮をとっており、彼等の計画に必要とする機会を提供可能な者として、まさにうってつけの立場にいる人物なのであった。加えてグラチアーニに関する醜聞は、デ・ロルカに関係したそれよりも確かなものだった。前者についての噂は国外にまで広まっており、それを裏付ける独自の証拠すらあった。

 若き傭兵隊長自身は、これらの噂についても彼の忠誠を餌にした捜査についても気づいてはいなかった。それゆえに十月最後の日、シニバルディのリミニ訪問が終わりに近づいた頃に、彼にしてみれば完全に予想外の誘いを意図したラニエーリ卿から突然に声をかけられて、面食らう事となったのである。

 グラチアーニはその時、城塞ロッカ内の控えの間におり、ラニエーリの方は主君との短い謁見を済まして退出した処であった。我等が紳士は優雅な人々の間を縫うようにして、真っ直ぐにかの傭兵隊長の傍らにやってきた。

「グラチアーニ隊長」彼はそう声をかけた。

 優雅な周囲とは一線を画し、質実剛健な鋼と革の衣服を身に着けた長身のたくましい傭兵隊長は、堅苦しくお辞儀した。

「何か御用でありましょうか」と彼は返答したが、ラニエーリと言葉を交わすのはこれが初めてであった。

「我が賓客であるシニバルディ閣下は、貴君にお目をとめられた」それから彼は秘密めかせた口調になり、「勿体なくも、閣下は貴君とのよしみを結ぶ事をお望みだ。閣下は貴君の評判をお耳にされ、そして思うに、貴君の出世の助けとなるようなお申し出があるようなのだ」と打ち明けた。

 グラチアーニはその言葉に驚き、自負心で意気が上がった。

「しかし私は公爵にお仕えする身であります」彼は反駁した。

「申し出の内容について知れば、転身は充分に価値のあるものと納得がいくであろう」ラニエーリは答えた。「閣下は今夜七時に私の館を訪ねるようにと仰せだ」

 その招待にいささか幻惑され混乱し、グラチアーニはそれを受け入れてしまった。申し出の内容について聞いたとて公爵に対する害や不忠にはなるまい、彼は瞬時に結論した。そもそも仕える主人を替えるのは傭兵の常なのだ。彼は己の判断を肯定した。

「仰せの通りにいたします」彼が応じると、頷きと微笑を残してラニエーリは去っていった。

 より深く問題を考慮してみたグラチアーニが嫌疑とためらいを覚えたのは、少し後になってからだった。ラニエーリはシニバルディが彼に目をとめたと言っていた。改めて思い返せば、彼は一度もシニバルディと同席する機会はなかったのに、一体どのようにして彼の事を知ったのだろう?妙な話だ、と彼は思った。そして彼の思考はこのような一連の考えから出発し、急速に展開していった。彼は充分に現在の政治情勢を理解しており、ヴェネチアがチェーザレ・ボルジアに如何なる感情を抱いているかも承知していた。そして彼は充分な世間知を持ち合わせているので、ラニエーリのように、つい最近まで自分を愛顧し信頼していたマラテスタを権力の座から退けた公爵に媚びへつらえるような男を信頼すべきではないと判断できた。

 かようにしてグラチアーニの不審は疑惑となり、疑惑は急速に確信となった。彼はシニバルディが申し出ようとする提案が謀反の企みではないかと勘づいた。其処に出向いた場合、十中八九、彼は退く事のかなわぬ罠の中に歩み入るであろう。謀反人達が素性を明かした時に、招かれてその場に同席していながら陰謀への加担を拒む者がいれば、彼等は自身の安全の為に生きて返すはずがない。既にグラチアーニは、心臓に穴を開けられ、ぐったりとした死体となった己がマレッキア川に浮かび、引き潮で海へと流されて行く姿を脳裏に描いていた。ラニエーリの館はこのような企みに好都合な位置にあるのだ、と彼は考えた。

 しかし不吉な予感が彼にシニバルディとの面会の約束を反故にするようにせっついたにもかかわらず、それでも野心はグラチアーニに、お前は結局の処、実体のない影に怯える敗け犬なのかもしれないぞと囁いた。ヴェネチアは傭兵を必要としていた。共和国は裕福であり、仕える者には気前よく支払った。最も静謐なる共和国ヴェネチアでの栄達はチェーザレ・ボルジアの下にいるよりも速いかもしれない。何故なら大半の立身出世を狙うイタリアの傭兵隊長は、既に公爵の旗印に仕えていたのだから。この用件はラニエーリ卿が既に述べた以上の何ものでもない可能性もあった。彼は行こうと決めた。確かな根拠もなく漠然とした不安から欠席するのは臆病者のする事だ。しかし退路の確保や、疑いが現実に証明された場合に備えた救援策を用意しておかないのは愚か者のする事であろう。

 それゆえに、七時を告げる鐘と共にグラチアーニ隊長がラニエーリの館を訪ねた時、彼は忠実な老兵バルボに指揮をまかせた十名の兵を路に伏せさせた。別れ際、彼はバルボに十全な指令を与えていた。

「もし荒事や危機に陥れば、私は窓を破るよう試みるはずだ。それを合図に部下達を集めてすぐさま館に押し入れ。兵の一人を歩かせてマレッキア川に面した窓を見張らせるのだ、その場合、私はそちら側から合図を送る事になるはずだからな」

 これらの処置をとり、彼は心安らかにヴェネチアの公使と会見する為に向かったのであった。



訳註

【註1】:サバチニは1917年刊行の歴史実録エピソード集 "The Historical Nights' Entertainment, 1st Series" の前書きと収録短編 "THE NIGHT OF HATE 〜 The Murder Of The Duke Of Gandia" でも1497年に起きたホアン・ボルジア殺害事件について検証しチェーザレ犯人説を否定している。

【註2】:バルトロメオ・ダルヴィアーノ。アルヴィアーノ生まれの傭兵隊長。オルシーニ家に与して教皇軍と戦った。

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39,531字

英国の作家ラファエル・サバチニによるチェーザレ・ボルジアを狂言回しにした中篇集『The Banner of the Bull』の独自翻訳

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