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「通り雨のように/ミッキーの薬屋」あとがき ~私的80年代、90年代~

 私の新刊「通り雨のように/ミッキーの薬屋」がめがね書林より発売されました。
 68ページの小さな本です。
 これはその本のあとがきです。

 また、渋谷ヒカリエ8F、渋谷○○書店にて、7月14日(日)めがね書林が店番をしますので、私も付いていきます。新刊を並べ、そのときご購入いただいた方には、サインをします(12時~午後3時。時間にご注意ください)
 ご都合のよろしいかたは、ぜひ、お越しください。
 また当日、2冊お買い上げのかたには、プレゼントを用意してお待ちいたします。

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 昨年は短編をいくつか書いた。そのうちの二篇を選んで、安価な本を作ろうと思った。それはとりもなおさず薄い本ということになる。オンデマンドという出版形態の都合上、ページ数を少なくしないと価格が抑えられないのだ。
 たまたま八十年代を舞台にした小説が揃った。八十年代の中ごろからバブルが始まり、日本はイケイケどんどんのイメージになったが、私は地味な日々を過ごしていた。東京の中心にある職場に通っていたにもかかわらず、バブル景気の影響をまったく受けなかった。誕生日にディスコを借り切ってパーティをする学生の話や六本木でタクシーを捕まえるのは困難だとかそういう話を聞いたが、私には別世界の話だった。
 その頃、週末ごとに下北沢のスズナリに行っては小劇場と呼ばれる演劇を観ていた。狭い劇場にぎっしりと詰めこまれ、隣の客と肩が触れ合うくらいの距離でゴザの上に座って、息をひそめて芝居を見つめる。その濃密な時間こそ自分が生きている証明のような気がした。
 たまたま学生劇団にいた女子大生と知り合った。台本を書く人を捜しているといわれたので、ぜひ! といって飛びついた。とはいえ、社会人の私は、昼間はきっちりと仕事をし、家に帰ってから書き始める。夜中まで。ときには朝方まで。公演まで時間がなかったので、通勤途中でその日にできた分を速達でポストに投函した。
 学生劇団の公演だが、それでも大学内ではなく、小さな外の劇場を借りて行われた。金、土、日の全5ステージ。観客は役者の知り合いばかり。ここから大きくなる劇団もあったのだろうが、その学生劇団はそうならなかった。いや。もともとそんな気はなかったのだ。
 彼女たちは無事に卒業していった。いまどうしているだろう、とたまに思い出すことがあるが、残念ながら後日談はない。そもそもその後、会うことがなかったからだ。そういうものだ。

 私は社会人で、何者でもなかった。まあ、何者でもないのは、約四十年過ぎたいまも変わらない。
 学生劇団から五千円をもらったことを思い出す。私の初めての原稿料である(原稿料というより、速達代だったのかもしれない)。
 そんなことを思い出しながら書いた。

 私の小説には音楽の固有名詞が頻出する。そのほとんどを知らない、知っていればもっと楽しめたのに、残念だ、と言われることがある。私は好きな音楽やそうでもない音楽について書いている。ジャンルレスに自由に選曲して、自分の琴線に触れた音楽、触れなかった音楽について書いている。私が知らない音楽の名曲があるのではないかと思い、未知の音楽をいつも捜している。

 九十年代、私はせっせと渋谷のレコード屋に通っていた。もっとも目的は、渋谷系のCDを探すためではなく、テクノのアナログ12インチレコードを探すためだった。おそらく一週間に数回は、足を運んでいたのではないか。どうして渋谷だったのか? テクノのアナログレコードは、渋谷がいちばん豊富に揃っていたからだ。センター街を歩く人々の多くがアナログレコードの袋を下げていた。そういう時代だった。
 いまでは、その光景は見られないし、私もたまにしか渋谷にいかない。
当時、渋谷HMVにも行った。やはり渋谷系のCD目当てだった記憶はない。フリッパーズ・ギターが好きで、フリッパーズ・ギター関連のCDを買っているうちに渋谷系と呼ばれる音楽が結果的に揃っていった。
 フリッパーズ・ギターをどうして知ったのか、記憶にないが、「シティ・ロード」などの情報誌だったように思う。鬼子母神近くにあった池袋タワーレコード(覚えているひとがいるだろうか?)に解散後のベストアルバム「colour me pop」がびっくりするくらい平台に山積みされていたのを覚えている。

「ミュージック・マガジン」2007年9月号が渋谷系特集で、元ピチカート・ファイヴの小西康陽さんがインタビューでこんなことを言っている。
「なんか渋谷系って三日天下だったんだなって(笑)。ただ、思想というか在り方としてはその後もずっと残っていってると思うんです」
 さらにこうつづけている。
「自分が作ったものではない音楽への愛情が根幹にある音楽。それらをみんな渋谷系と言っちゃえばそうなると思う」
 昔、たしかX(元Twitter)でも、誰かがこんな主旨のポストを投稿していて、それを読んだ記憶がある。
「レコードコレクターが作った引用まみれのオタクの理想の音楽」
 つまり渋谷系の音楽とは、すでにそこにある音楽、過去の音源の発掘も含めて、新鮮で独自の解釈を与えていく作業を経てできあがった音楽の総称、と言えるだろう。

 ディスクユニオン神保町店は昔からよく利用していた。ここでいうディスクユニオン神保町店とは、現在の場所に移転する前の神保町店である。神保町交差点(岩波ホールがあった交差点。そう言えば当時では考えられなかったことだが、岩波ホールもいまはない)のそばにあった。
 職場が近くにあり、昼食の帰りに、必ず立ち寄っていたのだった。

 二階にテクノのコーナーがあった。アナログレコードがわんさかと置いてあり、CDの棚も充実していた。あまりに多く通っていたせいか、店員さんに顔を覚えられたくらいである。いや。顔を覚えられただけではない。話しかけられた。ネットを見ることを、ネットサーフィンなどと呼んでいた時代、ネットで、個人の掲示板(BBS)が流行っていて、私は、購入したテクノのレコード・レビューなどをガシガシと書き込んでいた。それを読んで、あなただと思った、とその店員さんは言った。
 レビューには、購入したレコード店名も書いていた。

 その頃は、私にとってテクノとの蜜月だった。

  その店員さんは、私のレコードの趣味を知っていて、私好みのテクノの新譜が出たときは、声をかけてくれた。雑談をしているうちに、その店員さんは、DJをやっている、と聞いた。私も自宅でDJをやっていたので、自分で録音したミックステープを渡したことがある。
 次に来店すると、きれいにつなぎますよね~。ぼくのミックスは、もっとぼこぼこしています、と褒めてくれた。
 DJの技術などない私は、レコードをスムーズにつなぐことだけに細心の注意を払っていたのだ。

 一度、渋谷で偶然、出会ったことがある。やっぱりディスクユニオン(現在のクラブミュージック・ショップ)の売り場だった。客としてきていた。
知人とさえいえない関係なのに、友だちのように笑顔で挨拶した。

 ある日、神保町のディスクユニオンに来店すると、レジにその店員さんの顔がなかった。アルバイトだと言っていたし、毎日きているわけじゃない、と思いながら、テクノのレコードやCDの棚を漁る日々がつづいた。
 あれ。もう、一か月以上、顔を見ていないな、とふいに思った。そして、その後、二度と顔を合わせることはなかった。
 辞めたのである。客と店員だ。挨拶はいらない。
 そのうちに私も異動になり、神保町の近くにあった職場から離れた。
 私たちは、小さな出会いと別れを積み重ねながら生きている。
                              緒真坂
                                     


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