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「スズキ」宮沢賢治の彼方へ(再)

 「スズキ」は、当時の私が全力で書いた短編集である。以前、noteに書いた「『スズキ』 宮沢賢治の彼方へ」は、そのメイキングのつもりで書いた。だが、読者が少ないようなので、再掲載したい。
 作中に出てくる、ぎょうざ耳の男には、モデルがいる。でも、それはまた別の話である。

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 私が中・短編集『スズキ』(櫻門書房)に収録されている短編小説、「スズキ」を書いたのは、ずいぶん前のことだ。「スズキ」で、第4回USEN朗読文学大賞奨励賞を受賞したのが2006年だから、その一年程度前だろうか。
 400字詰め原稿用紙20枚弱の小説を、数日間かけて書いた。

 夏になると、ぼくたちの町にはサーカス団がやってきた。町の中心にはだだっぴろい広場があって、その広場が一夜のうちにサーカスになった。サーカスのテントのまえには檻に入ったライオンやゾウがいて、ピエロがボーリングのピンみたいなものをいくつも同時に空中に放り投げて、くるくると輪を描いて、客を呼んでいた。そのほかにも、ぼくたちと同い年くらいのタイツすがたの美少女が身軽にひょいひょい移動しながら球乗りをしていて、喝采をあびていた。ぼくたちは頬をポッと赤くして見とれていたものだ。あれは恋に近い最初の感情だった。サーカスはこどもたちの楽しみだったのだ。
 サーカス団にはどういうわけか、忌わしいうわさがまとわりついていた。サーカス団が去ったあとにはこどもがひとり、必ず消えるというのだ。
 ある夏、こどもが消えた。

 「スズキ」の数ページ目に出てくるサーカスの記述である。

 東京のはずれにある田舎町にサーカスがやってくるというアイデアは、もともと私のものではない。
 二十代のとき、私は東京の女子大の劇団とつながりがあり、その劇団用に芝居の脚本を書いてほしいと頼まれた。その劇団の演出家から宮沢賢治の「ポラーノの広場」をネタにした芝居をやりたいのです、といわれたのである。その劇団は、いちおうミュージカル研究会と銘打っていたのにもかかわらず、演出家は、ミュージカル公演を打つ気などさらさらなく、当時流行っていた小劇場スタイルの演劇をやる気満々だった。おかしな演出家だったが、私は興味を持った。
 当時、興味深い演劇公演があちこちで行われていて、私は、一週間に一回は小劇場に通っているほどの大ファンだったのだ。
 さて、私は筑摩の宮沢賢治全集に当たり、「ポラーノの広場」を読んだ。その全集には「ポランの広場」という作品もあり、どの「広場」のことをいっているんですか? というか、どの「広場」をベースにします? という話をした。
 「ヴァリアント(異稿)があるなんて知らなかった」という返事だった。
 何度か話し合い、結局、そのネタでは、芝居の脚本を書かなかった。演出と共同で別の脚本を1本書き、公演を打った。土日を使った公演で、全3ステージ。観客は、およそ、その学生劇団の役者の友人、関係者のみだ。学生劇団の観客なんてそんなものである。身内で固め、まわしている。売れないライブハウスのロックバンドと同じだ。
 それでも、私は楽しかった。自分が書いたせりふを、他人(役者)が発語する。それだけのことで、胸に熱いものがこみあがり、からだが打ち震えた。女子大学の許可を得て女子大の教室で、稽古を見学し、公演前日に劇場に入り、舞台セットを作り、リハーサル風景を観る。そして本番。密着取材をしているかのように、終日、劇団員とともに行動した。
 濃密な時間だった。

 公演が終わり、それは、それで終ったはずだった。だが、「ポラーノの広場」のサーカスのイメージは、その後も、私の心のなかにどっかりと居座わりつづけた。美少女のように。あるいは、いつの日か、書かれるのを待っているかのように。
 東京の田舎町にサーカスがやってくるというアイデアは、その「ポラ―ノの広場」に出てきたイメージだ(と思っていた)。
 先日、改めて「ポラーノの広場」を読み返してみると、サーカスの記述など出てこない。一文字もだ。どういうことなのだろう。結局のところ、私の記憶違いだったということなのだろうか。
 私は、長いあいだ、勝手に抱きつづけた記憶違いをベースにして小説をひとつ書いてしまったのだろうか。
 まあいい。でも「スズキ」は書かれた。
 そして誰も知らない。いまは、存在もしない、賞をもらった。それでよしとしよう。
 
 公演の初日まで時間的な余裕がない、と演出家にいわれ、本来の仕事が終わるとすぐに自宅に帰って、自分の部屋に引きこもって、夜明けまで書きつづけた。鳥のさえずりが聞こえ始めると、眠った。あっという間に朝になり、本来の仕事に出かける。その途中で、その日の朝までに書いたぶんをポストに投函する。速達で。演出家の自宅へと(メールなどの便利な通信ツールがなかった時代だ)。それを受け取った演出家は書き直し、劇団員に渡して、その日の稽古をする。
 そんな日々が数週間、つづいた。
 公演終了後、原稿料として五千円をもらった。私にとっては初めての原稿料だった。演出家からすれば、郵便代のつもりだったのかもしれない。

 ちなみに演出家と共同で脚本を書いて、公演を打った劇場は西池袋にあった。現在の丸井のそば、雑居ビルの地下にあり、薄暗く、狭い、まるで地下室のような劇場だった。座席には、ござが敷いてあった。物騒な名前がついていた。「アート・スポット・フリーク」と。
 西池袋のそのあたりは、いまでもよく行くが、どこにあったかすら、わからない。
 時の流れにまぎれて、どこかに消えてしまった。
 いや。消えてしまったといえば、その公演も実は、幻だったような気がすることがある。
 「ポラーノの広場」と同じような、私の完全な記憶ちがいではなかったか、と。

 その女子大の演出家や、劇団員といまは、連絡をとっていないし、連絡もここない。
 時間だけが洪水のように流れ、私からすべてを剝ぎ取って去っていったのだ。

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