月がスイカみたい
〇月〇日
夜道を妻くんと連れ立って歩いていた。
「月がスイカみたい」と突然、妻くんが言った。私もつられて月を見上げた。
半月だった。
包丁で切ったスイカ🍉と言えばそうなのだが、半月をスイカという人は、あまりいないと思う。
〇月〇日
伊藤礼先生が亡くなって、3か月が過ぎた。
私は大学の教職の英文学の授業で、礼先生を知り、話が面白かったので授業以外でも聞きに行き、自宅にも遊びに行って、断続的に親しくさせていただいた。
ゼミ生でも門下生(礼先生には元々そんな人はいなかったと思うけれど)でもない。
以前にも書いたが、先生は大学教授ではあったが、研究者ではなかった。名文家でエッセイストで、英米文学の翻訳を多くしたが、学術論文は書かなかった。小説も書かなかった。
そのことをどのように思っていたのだろうか?
特に小説。先生が執筆の中心を小説ではなく、エッセイにしたのはなぜなのだろう?
父親の伊藤整氏について書くことから始まったからだろうか?
本人にそのことを聞けずに亡くなったのは、かえすがえすも残念である。
先生は、アカデミズムのしがらみから自由で、趣味に楽しそうに生きていたように見えたが、複雑な屈託があったと思う。
最大の屈託は、大作家を父に持ったということだったのではなかったろうか。
私が若いころ、先生の自宅で夜、話をしていて、一度だけ「伊藤整の息子だということをいつも意識している」とぼそりと口にしたことがあった。
晩年の先生にいちばん近しいと思われる友人からこんな話を聞いた。
「伊藤整のお墓が小平霊園にあるのですが、礼先生が私にお墓参りに連れて行って欲しいと言ってきたことがありました。車でいったのですが、伊藤整のお墓はごく普通の控えめなお墓なのですね。
そこでお参りしているときに、『僕が死んで、お墓に挨拶に来てくれるなら、ひまわりの花一本だけでいいから。それだけでいい。』とおっしゃっていました。
書棚にはゴッホの本もありましたしね。
夏の大きな花がお好きなのか、よくわかりませんが、畑の中に大きな赤いカンナの花が咲いているのを見ながら『あれこそ夏の花だな』と言っていました。
大病とともに歩んで克服してきた人生ですから、大きな生命力に共感するものがあるのかもしれませんね。
わかりませんけど」