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自殺念慮の殺間 【下】

また朝が来た。
職場に行かなきゃいけない。
そう思ってうんざりしながら伸びをしようとして雪乃はふと違和感に気付いた。
狭いシングルベッドに雪乃の身体をがっしりと抱き締めるように寝息を立てる男がいる。
雪乃には恋人や一夜の過ちを犯してしまいそうな相手はいない。
雪乃の恋人は夢の中でまるで操られているかのように身体を繋げてしまう男、自殺念慮の殺間だけだ。
短く息を吸い込んで男の腕から抜け出して布団から抜け出して相手の男の顔を確認すると、そこには雪乃の夢の中の逢瀬の相手が実態を伴い無防備に寝息を立てていた。
「さ、殺間くん?」
雪乃が腰を抜かしそうなほど、初めて希死田が実体化して現れた時よりも驚いてベットの上で後退りすると、背後から地を這うような深い深いため息が聞こえた。
長身痩躯。酷く痩せた黒いスーツの男。目の下には酷い隈があり三白眼気味の目は充血しており、今日はいつもより更に荒んで見えた。
「……遂に、出ちゃいましたね」
「希死田さん」
「ん、んんーーっ、ユキちゃんもう起きんの?まだ良くね?っていうか朝からもっかいする?」
殺間が目を覚まし、雪乃の細い手首を掴んでベッドに引き戻そうとすると「殺間、雪乃さんに触るな」とギロリと睨みながら牽制した。
カルバンクラインのパンツ一枚だった殺間は「希死田じゃーん!ちーっす!同じ現場久しぶりじゃん!元気してた?」と軽薄そのものの挨拶を交わしながら魔法のようにいつもの派手なスカジャンに細身のクラッシュダメージジーンズ姿になった。
雪乃は慌てて自分の着衣を確認したが寝た時のまま、くたびれたTシャツにショートパンツでほっと胸を撫で下ろした。
「雪乃さんから手を引け」
「それを決めるのって俺じゃなくね?ユキちゃんが死にたーいって思ってるから俺が出て来たわけだしー?」
「雪乃さんはまだ具体的な死に方を夢想する段階にない筈だ。お前が出てくるのはおかしい。あとユキちゃんって呼ぶな。馴れ馴れしいぞ」
「なんでそんな攻撃的なわけ?同業者じゃん」
「一緒にするな!僕はお前とは違う!雪乃さんから手を引け!」
雪乃を間に挟んで舌戦を繰り広げる希死田と殺間の間には独特の殺気と旧知の間柄同士の緊張と緩和があった。
「雪乃さんは生きることからまだ降りてない」
「生きてる奴がえらいなんて誰が決めたんだよ」
両眼を見開いて鼻先が触れ合いそうなほど顔を近付け睨み合う希死田と殺間を穴が飽きそうなほど観察しながら、雪乃はぽつりと呟いた。
「あの、私そろそろ支度しないと会社に遅刻しちゃうんで、その話また帰ってからでいいですか?」
「……え」
「ユキちゃん、今日会社行けそうな感じ?」
「うん、エナドリと抗鬱剤と抗不安薬キメれば人身事故は起こさないでいられそう!」
「……僕と殺間が同時に実体化してるのに?」
「だって今月もう有給使い切っちゃったし、休めないんです。社畜って辛いですねぇ」
雪乃はそうおっとりとした口調でそう言うと、よっこらしょっとベッドから降りて忙しなく身支度を始めた。
歯磨き。洗面。エナドリで抗鬱剤を流し込むと、カラコンを入れて化粧に着替えを済ませ、コテで髪をを巻き、水筒に温かいほうじ茶を入れ、おにぎりと昨夜の残り物を詰めた簡単な弁当まで作ると「じゃあ行ってきます」とヒールの音を響かせながら軽やかにアパートを出て行った。
部屋に残されたのは陰気な顔の希死念慮と呆気に取られた自殺念慮だ。
「……あのさ、希死田、ユキちゃんっさ」
「あの人、ちょっと波があるっていうか、独特ですよね」
最近は雪乃の職場に同行することが多かった希死田だったが、宿敵殺間が実態化したとあってはそんな悠長なこともしていられない。
しかし、こればかりは雪乃の意志というか精神状態によるものなので希死田から自発的にどうこうすることも出来ず、希死田に出来ることといえば殺間がアパートの外に出ないように見張ることくらいだった。
「……殺間、一緒にあやとりします?」
「俺を足止めしたい気持ちはよぉーっく伝わってきたけど他になんかなかったワケ?」
「思いつきませんでした」
「にしてもさぁ……」
「じゃあババ抜きか神経衰弱でもどうですか?」
「足止め下手かよ」
殺間は希死田の不器用さを鼻で笑うと「つか眠くね?」と猫のように顔を顰めて大欠伸した。
「…………物凄く眠い」
「な?眠いよな」
主である雪乃が元気な時、希死田も殺間も基本的に実体化することはなく、していても眠っていることが多い。
そういう風に出来ているのだ。
「一時休戦。俺、ユキちゃん好きだし別に急いでねぇから抜け駆けとかしねぇし、一緒に二度寝しね?」
「は?僕とお前が?」
「うん、おあつらえ向きにここに女の子の良い匂いと温もりを残したベッドがある」
殺間がスカジャンを床に脱ぎ捨てベットに横になり、壁際に詰め「さぁ、どうぞ?」とぽんぽんとベッドを叩くと、希死田は重たい瞼を何とかこじ開け目をごしごし擦って二の腕で目を覆い「寝ない」と顎を反らして強がりを言ったが、数十秒後「……畜生」と舌打ちをして殺間に誘われるがままにジャケットとネクタイとベルトを脱ぎ捨ててベッドに倒れ込んだ。
「最初から素直になれよなぁ~?」
「うるさい。黙れ。俺は寝る。話しかけるな」
「おやすみ、希死田」
「……おやすみ」
希死田と殺間は狭いベッドの中で身を寄せ合うと、すぐさま規則正しい寝息を立て始めた。
その姿は胎内で共に育つ二卵性双生児のようだった。



雪乃の仕事はアパレル店員だ。
「いらっしゃいませー」
お腹空いたなーと同じ軽さで死にたいなーと考える。死にたいなーと同じ重さで死ぬのは恐いと考える。
最近は仕事にも希死田が同行することが多かったので希死田が着いてこなかったことが雪乃は少しだけ残念だった。
希死田と接客や待機時間にこっそりおしゃべりするのは雪乃の最近の密やかな楽しみだったのだ。
今頃、家に残してきた希死田さんと殺間くんはどうしてるのかしら。
そう考えながら雪乃は客が広げたカットソーを立ったまま器用に畳直した。
「あー、死にたいなぁ」
ボソッと呟くと店長が「雪乃ちゃん、どうかした?」と気遣わしげに声を掛けてきた。
聞き取られてしまっただろうかと冷や汗をかきながら雪乃は平然と嘘を吐く。
「あ、すみません。今朝寝坊しちゃってお腹空いちゃって」
「そうなんだ。じゃあ昼休憩早めにとる?」
「え、そんな悪いですよー」
「いいよいいよ。今日落ち着いてるし今から行っておいでー。それに雪乃ちゃんちょっと顔色悪いよ?この間も体調崩したばっかだし無理しない方がいいよ。忙しくなったらLINEするから一時間とっておいで」
「店長~、ありがとうございますー!じゃあお言葉に甘えて休憩頂きます~!」
バックヤードの入り弁当と水筒の入ったランチトートを持つと、雪乃は束の間の休憩を摂る為に店舗から歩いて七分もかかる休憩室を目指した。
ショッピングモールでウィンドウショッピングを楽しむ客達に紛れ込んでのんびりとした歩調で見慣れた景色を闊歩しながら雪乃はまた無意識に小さく声に出して呟いた。
「あーーーー、死にたい。死にたい死にたい死にたい」
彼女の死にたいは非課税の五十兆円欲しいと同じくらいの切実さと非現実さを伴って安っぽく響いた。
雪乃のアパートでは希死念慮と自殺念慮がまるで死んだように生気のない顔をしてこんこんと眠り続けている。



「ただいま~」
八時間労働の上、二時間残業した雪乃が目にしたものは、狭いベッドの中で身を寄せ合う母親の胎内で共に育つ二卵性双生児のような希死念慮と自殺念慮の姿だった。
「希死田さん、殺間くん、案外仲良しなんだね」
無防備そのものの希死田と殺間の頬を交互につんつんすると、希死田は「ごっ、誤解です雪乃さん!」と浮気がバレた恋人のように飛び起きた。
「雪乃さんの希死念慮が弱まると俺は実体化してると眠たくなるんです。でも殺間を見張ってないといけないからなんというか成り行きで……」
「ふーん、そうなんだ」
この期に及んでも目を覚まそうとしない殺間を雪乃が「殺間くーん、ただいま~!起きて~!」と揺り動かすと、殺間は呻き声をあげながら身動ぎをし、雪乃の後頭部に手をやり雪乃の唇にキスをした。
「おかえり、ユキちゃん」
「あっ、あーっ!殺間お前雪乃さんになんて事を!」
「るっせぇなぁ希死田、今からユキちゃんとイイコトすんだから空気読んで消えろよ」
殺間が極自然に雪乃を膝に乗せて抱き抱えながらそう言うと、希死田は頭を抱えて地団駄をしながら「雪乃さんに触るな!雪乃さんはまだその段階じゃないはずだ!」となりふり構わず喚くと、殺間は雪乃の頬にむちゅっとキスを落としながら「そーなの?ユキちゃん、死にたいんじゃないの?」と甘ったるい声で優しく問うた。
「んーーーっとぉ」
雪乃は考え込むように頬に指を添えると「今、すぐに死にたい訳では無いけれど、ぼんやりとずっと死にたいし、今すぐ死にたくもあるし、具体的に方法を考えたりもしてますねぇー」と場違いなほどのんびりとした口調で暴露した。
「……なるほど」
「そうきたか」
「死んだらダメだ生きなくちゃ、とも思わないし、生きるのは辛いしダルいし毎日ほんとうにしんどいけど、でも今すぐじゃないんですよ。私の場合。殺間くん、分かる?」
雪乃が殺間の腕の中にすっぽり収まりながら上目遣いにそう言うと、殺間は一瞬面食らったような顔をしたが「……分かるよ」と包容力たっぷりに微笑んだ。
「だからね、ずぅっといっしょにいない?私達」
「はい?」
希死田が鳩を豆鉄砲を食ったような顔をして唖然とすると、殺間は「いいね!ユキちゃん最高!面白ぇ女!」と雪乃に頬ずりをし抱き締めた。
「ね、希死田さんも」
雪乃はそう言って希死田の骨張った手と殺間のシルバーリングだらけの手を取ると「ずぅっといっしょ!」とにっこり微笑んだ。
今までにない反応に希死田は頭を抱え、殺間はそんな希死田を指を指して笑い「じゃあ俺たちずぅっといっしょだな、ユキちゃんが死ぬまで」と雪乃の唇に音を立ててキスをした。


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