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希死念慮の希死田 第3話

美波

恋をした。命懸けの恋だった。骨の髄まで愛していたのだ。
男の名前は田嶋悠介。
田嶋は邪険に扱われれることが多い派遣社員の美波にも紳士的で優しかった。
田嶋は結婚指輪をしていたし、スマホの壁紙は二歳になるのだという息子の写真だったので妻子がいる
ことは分かっていた。
最初に触れてきたのは、美波の手を握ったのは田嶋の方だった。
大きくて骨ばっていて乾燥した熱い手だった。
その夜、美波のアパートで美波は田嶋に抱かれた。
田嶋は子供を産んでただの母親に成り下がり自分を邪険に、蔑ろに扱い無関心になった妻に失望し、とっくに気持ちは冷め切っていて、子供に手がかからなくなったら別れるつもりだと言った。
そんな常套句を、妻とは別れるからいつか必ず一緒になろうという空々しい口約束を、馬鹿みたいに信じていたのだ。
美波の傍にいると呼吸が出来る気がする。
美波といる時だけは本当の俺になれるんだと田嶋は言った。
美波だってそんな口約束を信じるほど愚かではない。
どうせ口だけ。
別れる気なんてないのだど、自分は若さと時間を浪費しているだけなのだと分かっていた。
別れたい。
別れたくない。
消えたい。
消えてしまいたい。
何時しかそう考えるようになった。
何度も何度も次に会ったら別れようと決心し、同じ数だけこの笑顔を、この人の言葉をもう少しだけ信じてみようと思い直した。
妻のことはもう女には見られない。
片時も離したくない。
笑顔を見るとほっとする。
ずっと一緒にいたい。
俺達は出会う順番を間違えたのだと、西日の当たるアパートで美波を飽きもせず何度も何度も抱きながら悠介は言った。
その結果が報いが、これだ。
興信所の名前が印刷された分厚い封筒には美波と田嶋の不倫の証拠がぎっしりと入っていた。
震える指でスマホで不倫による慰謝料の相場を調べる。相場は五十万から三百万円で婚姻関係の影響度、婚姻期間、不倫期間、不倫の悪質性など、それぞれの夫婦の状況や不倫の状況によって金額は前後するのだそうだ。不倫が原因で婚姻関係が破綻した場合は慰謝料が高くなる傾向にあるらしかった。
派遣社員の薄給を毎月の美容院、マツエク、眉毛サロン、デパコス、ファッションやブランドバッグに注ぎ込み、その日暮らしを決め込んでいた美波には貯金なんて全くなかった。
終わりだ。
もうお終いだ。
会社にバレたら派遣社員の自分が首になるだろう。
借金もある。
実家にも帰れないし、そうなったら終わりだ。
死ぬしかない。
嫌だ。
死にたくない。
「これは詰みましたね、美波さん」
そう言った希死田の声は何処か面白がっているような響きがあり、美波は思わず涙目で希死田を睨み付けた。
「まぁ自業自得ってやつですし、払うしかないんじゃないんですか?」
「どうしよう、どうしよう、五十万円なんて払えない」
「最低金額しか払う気がないなんてつくづく図々しいですね」
希死田が美波を嘲笑うように口元を歪めると、美波は希死田をキッと睨み付け「希死田さんはちっとも優しくない!少しくらい私に寄り添ってくれたって良いじゃない!」とヒステリックに怒鳴り散らした。
希死田は美波の言葉に芝居かかった仕草で肩を竦めると「優しいわけないじゃないですか。だって僕、希死念慮ですよ?」とくっくっくっと死神のような凶悪な面相で意地悪く笑った。
「……そうだ。悠介さんに電話しなきゃ」
早く、早く悠介に相談しないと。
美波の頭の中はそのことでいっぱいだった。
「はい、田嶋です」
七回のコールで電話に出たのは悠介ではなく、鈴を転がすような上品な女性の声だった。
「あっ、えっと、間違えました」
美波が慌てて反射的に電話を切ろうとすると、女性は凪いだ海のように落ちいた声で「美波さんですね。私は田島の家内の奈緒子と申します。貴方を訴えたり、慰謝料を請求したり、会社を首にさせようなんて思っていません。ご心配なく」と言った。
「田嶋は今寝ています。私が興信所で貴方達を調べたことも、貴方達の不倫を知っていることも、私が貴方に興信所の調査証を送ったことも、何も知りません。貴方も何も知らないふりをして田島との関係を続けて下さい」
奈緒子が淡々とした声でそう言うと、希死田は電話越しのその声が聞こえているかのように口元が裂けそうなほど不気味な笑みを浮かべた。
「……何が、目的なんですか?」
じっとりと汗をかきながら、美波が震える声で尋ねると、奈緒子は場違いなほど明るい声でこう言った。
「ドライブに行きませんか?そうだ、熱海がいいわ。息子は実家の母に預けてくるので今週の日曜日なんてどうかしら?」
美波に拒否権なんてなかった。
その場で電話番号を交換すると、奈緒子は日曜日の朝七時半に美波のアパートの前に迎えに行くのでよろしくお願いしますと一方的に言い捨てて電話を切った。
殺されるかもしれない。
美波が崩れ落ちるように膝をつくと、希死田は「ざまぁないですね。だから不倫なんてやめておきなさいって僕は何度も言ったんですよ」と胸ポケットから無粋な警告文が印刷されていない旧パッケージのPeaceを取り出し、勿体ぶってマッチで火をつけると肺までしっかり吸い込んで深く煙を吐いた。
「煙草嫌いななのよ!吸わないで!」
「いいでしょ、どうせ俺は貴方の幻覚なんですから」
幻覚のはずの希死田の吐く煙からは甘ったるく濃い喉を焼くような癖のある香りがした。

2

約束の日、美波は田嶋とのデートの日のなんかよりも狡猾に慎重に服を選んだ。
白いブラウスに紺のペンシルスカート。
大丈夫。髪もアクセサリーも唇の色も馬鹿っぽくないし安っぽくもない。どんな女が来ても私は見劣りしないし軽く見られたりなんてしない。
「朝早くにごめんなさいね」
しかし約束の時間、アパートの前に現れたのは美波が想像していた子育てと家事に負われて疲れ切り生活感に塗れた女はではなかった。
ボルドーのボルボのパワーウィンドウを開けて美しく微笑んでそう言ったのは、たっぷりした生地の可憐なグレーのワンピース、緩くまとめられた柔らかそうな色素の薄い髪。短く整えられたマニュキアの塗られていない清潔感のある爪、華奢な長い指の薬指には結婚指輪はなかった。
その何もかもが美波の想像とは掛け離れていた。
「さ、美波さん、早く乗って」
後部座席に希死田が乗っているのを見て美波が声も出せずにぎょっとすると、奈緒子は空席のはずの後部座席と美波の顔を交互に見比べて少し不思議そうな顔をしたが、すぐに何事もなかったかのように微笑んだ。
「さぁ、渋滞する前に出発しましょう。美波さんと呼んでもいいかしら?」
てっきり修羅場になるだろうとばかり思っていた車内は終始和やかで、奈緒子は田嶋との馴れ初めを聞くどころか、田嶋の名前も息子すらも存在しないかのように話題にせず、美波を旧知の女友達のように扱った。
熱海に着くまでの二時間強。車内は穏やかな笑い声に満ちており、後部座席の希死田は窓ガラスに頭を預けて眠っていた。
希死念慮の癖にきちんとシートベルトをしているのが何だかシュールでおかしかった。
奈緒子の運転は滑るように滑らかでとても上手かった。
熱海に着くまでの間、奈緒子は色々な話をしてくれた。
人間より本が好きな子供でミヒャエル・エンデのモモが特に大好きで、授業中は授業を聞いているふりをして辞書を端から端まで読んでいたこと。図書館が大好きで休み時間はずっと図書室で過ごしていたこと。ミシャの絵が大好きだということ。
「今度は貴方の話をして?」
奈緒子にそう言われた瞬間、美波の心臓はひとつ飛ばしに音を立て、後部座席で鼾をかいて眠っていた希死田が目を覚まし、片目を開けてルームミラー越しに美波を見たが、何も言わなかった。
この質問の流れは、流石に田島とどのように恋に落ち、どのような頻度で会い、田嶋がかなり頻繁に美波に将来の話をしていること等、二人の交際の詳細を聞かれているのだと思ったが、美波は敢えて気付かないふりをして奈緒子に倣って子供の頃の話をした。
奈緒子は「そんな話は聞いていないわ」と美波の話を遮ることもなく、とても楽しそうに美波の話に興味深そうに相槌を打った。
美波はとびきりの聞き上手で、美波は気付けば中学時代打ち込んだバスケットボール、その頃好きだったサッカー部の先輩の話。最近ハマっている韓国ドラマの話や会社の御局様への愚痴まで奈緒子に話していた。
奈緒子と過ごす時間が楽しければ楽しいほど、美波は帰りたくて堪らなくなった。
半ば自暴自棄になり、美波が声を上げて笑うと、ずっと黙っていた希死田が美波に釣られたように声を上げて笑った。
それは希死田にしてはとても珍しい妙に子供っぽく無邪気な笑い方で、美波はそれが気味が悪くて仕方が無かった。

3

熱海に着くと、まず訪れたのはMAO美術館だ。
初島や伊豆大島が浮かぶ相模灘を見晴らす、高台にある美術館で絵画や彫刻など東洋美術を中心に、国宝三点を含む約三千五百点の作品を収蔵する。
美術品に興味のない美波にはちんぷんかんぷんだったが、奈緒子は「美波さん、見て。この絵、とっても素敵」と時々感嘆の声をあげながら感慨深そうに鑑賞していた。
「甘いものは好き?」
慣れない美術館に気疲れしていた美波を気遣ったのか、奈緒子は美術館鑑賞を終えるとラ・パティスリー・デュ・ミュゼー・パール・トシ・ヨロイヅカへと美波を誘った。
奈緒子はクリームチーズ、プロセスチーズ、生クリームを贅沢に使用した、さっぱりとした味わいのベイクドチーズケーキを、美波はエクアドルカカオ65%を使い、ココナッツとクルミを合わせた濃厚な味わいのショコラケーキとカフェオレをそれぞれ注文した。
そのカフェで一時間ほど尽きることのない会話に花を咲かせながら休憩し、MAO美術館から車を走らせること三十分。
到着したのはどんな魚が出てくるかはその日のお楽しみ。日により価格も異なる日替わり和御膳が頼める名店、あじあじだ。
その日の早朝3時に網代の市場で仕入れた海鮮が味わえる店。日により仕入れる魚が異なるため、お品書きがないのが特徴。ランチは鮮度抜群の刺身を中心に、フライや煮つけなどがつく和御膳が味わえる。
新鮮な魚に舌鼓を打ち、腹ごなしに熱海駅前にある無料の足湯家康の湯に入り、商店街をぶらり歩く。
再び車に乗り、ドライブイン熱海プリン食堂へ。
スイーツタイム限定の15時の食堂プリン’sの中から仲良く同じものを選んだ。
「……そろそろ帰らなきゃね、涼介を迎えに行かないと」
華奢なゴールドの腕時計を見ながら奈緒子がそう言った瞬間、美波は心底名残惜しくなり「もう少しだけ、もう少しくらいいいじゃないですか」と自分の立場も忘れてすんでのところで言ってしまいそうになった。
「……そう、ですね」
「楽しかったわね」
「はい」
「本当よ。本当に楽しかった」
奈緒子は花が綻ぶように柔らかく微笑むと、後部座席で涎を垂らして爆睡している死神のような男を見て小さく吹き出した。かのように見えた。
しかし、そんなはずはないのだ。希死田はあくまで美波の幻覚で奈緒子に見えるはずがないのだから。
「名残惜しいけど、帰りましょうか」
「……はい」
帰りの車内でも会話は尽きることはなく、美波は不倫なんてしてしまったことを、不倫相手とその妻として奈緒子と出会ってしまったことを心底悔やんだ。
「本当に愚かな人ですね。反吐が出る」
後部座席からずっと黙っていた希死田の声がしたが、美波は振り向かなかった。そんなことは言われなくても骨身に染みて分かっていた。
アパートが近付く度、夢のように楽しかった気分が嘘のようにどんどん憂鬱になってくる。
奈緒子は最初の電話で美波を訴えたり、慰謝料を請求したり、会社を首にさせようなんて思っていないと言っていたけれど、そんなの美波をおびき出す為の方便かもしれない。
ほんの一瞬、会話が途切れた隙に、美波が「……ごめんなさい」と涙声で呟くと、奈緒子は呆けたように奈緒子の顔を見た。
「家庭を壊したり、貴方から田嶋さんを奪うつもりなんてなかったんです。本当にごめんなさい」
そう言った瞬間、美波はたちまち滂沱の涙を流した。
「……分かってたわ。私は涼介のことで手一杯で悠介の事は放ったらかしだったから、貴方に感謝しているの。本当にお世話様でした」
奈緒子はハンドルを握り、前を向いたまま美波が泣いていることに触れずにそう言った。
「あぁ、良かったわ。もっと嫌な娘だったらどうしようって思っていたの。悠介が貴方を好きになるのも分かるわ。私も、貴方が大好き。本当よ」
奈緒子がそう言ったのと、美波のアパートの前に車が滑るように静かに停まったのは同時だった。
「別れてください」
奈緒子さんは何の感情も無い声でそう言うと、ハンドバッグから1cmほどの太さがある長3封筒を取り出し、美波の方を見もせずに差し出した。
「それを受け取って、車を降りたら、田嶋の連絡先を消して、業務以外での会話は極力しないで下さい。あの人はプライドが高いから釣れなくされたら直に諦めるわ。お願いします」
お金なんて、欲しくなかった。
田嶋さんと別れるのも嫌だった。
でも、美波に封筒を受け取る以外の選択肢なんてなかった。
「……お願い、お願いします」
奈緒子が絞り出すように重ねて懇願すると、美波はみっともなく震える指でまるで金目当ての浅ましく卑しい女のように、それが奈緒子に対する最低限の礼儀であるようにひったくると、逃げるように車を降り、アパートの階段を駆け上がった。
息を切らし、内鍵を閉めて封筒の中身を確認すると、中には白い帯がついた現金が入っていた。
完敗だった。
最初から相手になんてされていなかったのだ。
悔しくて、惨めで、手嶋に捧げた決して戻ってこない二年間が口惜しくてまた独りでに涙が出た。
耳元で甘く低い声がする。
「首吊りなんてどうです?」
希死田が美波の震える身体を抱き締め、肩を顎で挟み込むようにして耳朶に唇を沿わせ、甘美な誘惑するように囁くと、美波の涙と鼻水に塗れた顔をぐしゃぐしゃに歪めて「絶対嫌!」と果敢にも言い返した。
希死田は黒い細身のスーツの胸ポケットを探って愛飲のPeaceに火をつけると細く長い煙を吐いた。
「……しぶとい女だ」

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