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希死念慮の希死田 第1話

あらすじ

疲れた。消えてなくなりたい。

就職活動の失敗。過酷な労働。先の見えない毎日。
いつしか漠然とした死を願うようになった内気なケーキ屋店員、果歩の前に現れた謎の男。
黒い細身のスーツに身を包んだ死神のように陰気で不気味な男は自らを希死念慮の希死田と名乗った。

夫のモラハラに悩む育児ノイローゼの主婦、奈緒子。
相手が既婚者とは知らず妻子ある男性と交際していた事に気付いてしまった派遣社員、美波。
三人の生きる事に疲れ果てた女性達に希死田がもたらすものとは?

やり場の無い寂しさ。漠然とした不安。死にたい。消えたい。ずっと眠っていられたらいいのに。
私は一体、何処で間違えてしまったのだろう。

そんな漠然とした希死念慮との共存、共生、やり過ごしを提案するヒューマンドラマ。



果歩

ケーキを買いに来るのは幸せな人ばかりでは無い。
まるで生ける屍のように憔悴した様子の人もいれば、店員に何の落ち度も無いのにも関わらず最初から不機嫌で隙あらば怒りを爆発させようと粗探しをしている人もいる。
「お持ち歩きのお時間はどのくらいでしょうか?」
大量の砂糖とバター。生クリーム。スポンジ生地にタルト生地。口当たりの良い爽やかなムース。色とりどりの旬のフルーツ。
「かしこまりました。二時間分の保冷材はお入れ致しますが、なるべくお早めに冷蔵庫にお入れください」
いちごのショートケーキ。
ガトーショコラ。
季節のフルーツのタルト。
ベイクドチーズケーキ。
ミルクレープ。
モンブラン。
ケーキは幸福な食べ物だと果歩は思う。
ケーキを食べる時、人々は皆幸福で満ち足りた気分になる。
「ありがとうございました」
オーダーケーキを予約する人は口調も丁寧で物腰が柔らかい人が多い。大切な人の誕生日や記念日を心待ちにしながら準備をするのはケーキを食べる前から幸福で満ち足りた人達だ。
「誕生日の蝋燭は何本お入れ致しましょうか?はい、かしこまりました。それでは長い蝋燭を一本、短い蝋燭を五本お入れ致しましょうか?もしくは有料にはなってしまいますが数字の形をしたナンバーキャンドルもご用意出来ますがいかがでしょうか?はい、かしこまりました。ストロベリーショートケーキ八号サイズ、ナンバーキャンドルは一と五をひとつずつご用意致します。ご来店は本日七時半頃ですね。お待ち致しております」
しかし閉店間際、靴音も荒く駆け込んできてケーキをテイクアウトして行く人々の顔は一様に険しい。
彼らは皆、その日一日我が身に降りかかった理不尽をケーキで相殺して有耶無耶にする為にケーキを買うのだ。ケーキにはそんな不思議な力がある。
「ガトーショコラをおひとつ、苺のタルトをおひとつ、ベイクドチーズケーキをおひとつ、以上で宜しいでしょうか?かしこまりました。お持ち歩きのお時間はどのくらいでしょうか?」
果歩はケーキが好きだ。
しかし、果歩が学生時代からバイトをしていたケーキ屋に就職したのはケーキが好きだからではなく就職活動に失敗したからだ。
面接官を前に事前に用意した薄っぺらで白々しい自己PRをする度に果歩は自分が何の取り柄もない酷くつまらない人間のように感じ、心身をすり減らして行った。
起きている間はどうすれば就職活動が上手くいくだろうと思い悩んでいたので目を瞑ると決まって面接中の夢を見た。夢の中の果歩は上手く話すことが出来ず、それどころか本音をぶちまけて全てを台無しにしてしまうのだ。
長所を教えてください。
「私の長所は明るく真面目で何でも最後までやり遂げることです」
部活やサークルは何をしていましたか。
「部活もサークルもしていません」
アルバイトはしていましたか。
「大学一年生の頃からずっと同じケーキ屋でアルバイトをしています」
最近のニュースで興味を持ったものはなんですか。
「国内の出生数が初めて八十万人を下回ったことです」
大学を選んだ理由はなんですか。
「日本の伝統的な文学を読み解いていくことで現在に至るまでの歴史から人間の生活、価値観を研究し、日本人の思想や精神への理解を幅広く深めたいと考えたからです」
自身を動物に例えるとなんですか。
「キリンです」
自分にキャッチコピーをつけるならなんですか。
「私を一言で表すとしたら、……私を、一言で表すとしたら」
一言で自分はどのような人間だと思いますか。
「……それが分かっていたら、こんなに苦労してません」
苦手なことはどんなことですか。
「今、この状況そのものです」
将来の夢はなんですか。
「ありません。あったような気もするけれど、分からなくなりました」
正に悪夢だった。そしてそれは覚めない悪夢だった。終わりの見えない就職活動は着実に果歩の心を蝕んで行った。
お祈りに次ぐお祈りにすっかり自信喪失して意気消沈していた果歩を見兼ねた店長に「果歩ちゃんさえ良ければだけど、うちに就職しない?」と声をかけられた時は渡りに船だと思った。
お前はうちにはいらない、お前には何の価値もないと突きつけられ続け、すっかり疲弊しきっていた果歩にはやりがいも給与もどうだって良かった。就職活動から逃れられるのであれば何でも良かったのだ。
学生時代から馴染みの店長、社員やパートアルバイトとの関係は良好。家族的な雰囲気の職場の居心地は悪くなかった。仕事の内容はバイト時代とほぼ変わらず、朝は早く夜は遅く、休みは少なく、給与は安かった。
「大ッ変失礼致しました。申し訳ありません。至急ご用意致しますので少々お待ちくださいませ。はい、申し訳ありません。すぐにご用意致します」
朝起きる。ケーキを売る。家に帰って廃棄のケーキをひとつ食べて眠る。また朝が来る。休みの日は何処へも行かず誰にも会わず、泥のように眠った。
日がな一日ショーケースの前に立ち、ケーキを買いに来る客を待つ。
「いらっしゃいませー。ご注文お決まりでしたらお伺い致します」
手慰みにショーケースに着いた指紋を拭って磨きながら果歩は物思いに耽る。
いつまで、自分は一体いつまで、この仕事を続けるのだろう。
誰からも選ばれず、従業員すら手をつけなかった期限切れのケーキを廃棄処分する時、果歩はこのケーキは自分みたいだと思った。
せっかく大学まで出して貰ったのに何者にもなれなかった。
ここではないどこかへ行きたい。
誰も自分を知らない場所で暮らしたい。
何も考えたくない。
夜眠ったまま、朝目が覚めなければ良いのに。
消えてしまいたい。
死にたい。
死にたい。
死にたい。
いつしか、そう考えるようになった。


真っ白な何も無い空間にその男は立っていた。
真っ黒な細身のスーツを着た酷く痩せた猫背の男は果歩の視線に気が付くと「どうも、希死田と申します」と自己紹介した。
あぁ夢だ。夢を見ていると果歩は思った。
そしてどうせ夢なのだからと間髪入れずに「どちらのキシダさんですか?」と尋ねると、男は「希死念慮の希死田です」と律儀に名刺のようなものを差し出した。
男の差し出した名刺には明朝体で希死念慮の希死田と書かれていた。
「……希死念慮、ってなんですか?」
「貴方最近、消えてなくなりたいとか楽になりたいって思ってませんか?」
「あ、思ってますね」
「それが僕です」
希死田と名乗る男は芝居がかった仕草で右足を後ろに引き、右手を体に添えて左手を横方向へ水平に差し出すようにして「以後お見知りおきを」と恭しく挨拶をした。
「いや、以後お見知りおかれても困ります」
「えー、僕と果歩さんの仲じゃないですか」
「他人ですよ」
「言いますね」
夢の中とはいえ突然見知らぬ男に親しげに話しかけられ果歩は大いに困惑した。
唐突で不条理な状況は夢にはありがち展開だが、ただでさえ疲れているのに夢の中でまで不愉快な思いをしたくなかった。
果歩は子供の頃から大の人見知りなのだ。
いきなり貴方の希死念慮ですこんにちはと言われても到底受け入れることは出来なかった。
「……あ、もしかして希死念慮だからキシダなんですか?」
ふと思い当たり、思わずそう口にすると希死田「そうですそうです。流石冴えてますね」と見え透いたお世辞を言った。
「あー、最悪です」
「何がですか?」
希死田は背の低い果歩に合わせて少し屈んで首を曲げると、癖のある長い前髪の隙間から少し充血した三白眼気味の鋭い瞳が値踏みするように果歩を見た。
果歩は思わず、反射的に目を逸らした。果歩は人の目を見て話すのも瞳を覗き込まれるのも不得手だった。
「これから私は、死にたいと思う度に貴方の顔が思い浮かんでしまいます」
果歩が苦悶の表情を浮かべて大真面目にそう言うと、希死田は「おや、いけませんか?」と死神のような不気味な風体には不似合いなやけに可愛らしい仕草で小首を傾げた。
「いけませんね。死にたい時にボサボサ頭のおじさんが傍にいるんだと思うと何だか凄く嫌です」
「果歩さんって大人しそうな顔をして意外と辛辣ですね。そういう所、嫌いじゃないです。では、どんな姿がお望みですか?」
顎に手を当てながらそう問われ、果歩が暫し思案した後「そうですね。猫、黒猫が良いです」と答えると、希死田は果歩が言い終える前に艶やかな毛並みの黒い猫に姿を変えた。
「なれるんだ、猫」
まぁ仲良くやりましょうよと言っているかのように足元に擦り寄って来た黒猫の喉を撫でてやりながら、果歩は噛み付かれないといいなぁとぼんやり考えた。
「変な夢」
果歩はぽつりと小さく呟くと、三回連続大きなくしゃみをした。果歩は猫アレルギーで猫が大の苦手なのだ。




初めのうちは希死田が姿を表すのは夢の中だけだった。
気が付くと果歩は何処までも広がる真っ白な空間の中にいる。辺りをきょろきょろと見渡すと希死田がすぐ傍に立っていて薄気味悪い笑みを浮かべながら会釈をするのだ。
果歩が「あぁ、またこの夢」と全身で疲労と不快感を露わにすると、希死田はそんな果歩の心中を見透かすように「明晰夢ってやつですね」とハスキーな低い声で言って長い前髪の隙間からじっとりと果歩を見つめた。
「これは夢だと自覚しながら見ている夢の事です」
「言葉の意味なら知っています」
「明晰夢の中では夢の状況を自分の思い通りに変化させられるそうですね。その気になれば空だって飛べるかもしれませんよ」
「私、高所恐怖症なので空を飛びたいとは思いません」
「おや、そうでしたか」
希死田は真っ黒な細身のスーツを着た二十代後半から三十代前半の成人男性の姿をしている時もあれば、果歩が希望した通り黒猫の姿をしている時もあった。
猫の希死田は喋らない。ただごろごろと喉を鳴らして果歩の足元に擦り寄って来るだけだ。
人間の姿をした希死田はどうでも良い事ばかりよく喋った。果歩は親しくない相手と話すのが苦手なはずなのに希死田と話すのは不思議と嫌では無かった。
そして果歩はいつしか希死田に旧知の友人のような親しみを覚えるようになった。
最初は声が、聞こえるようになった。
起きている時も頭の中で希死田が話しかけてくるようになったのだ。
「今日はお天気が悪くてしんどいですね」
「金曜日の夜が永遠に続けば良いのにって思うことってありませんか?あ、果歩さん平日休みでしたね。これは失礼」
「眠いけど寝たくないんですよね。だって寝たら朝になっちゃいますもんね。でも寝ないと明日の朝起きられませんよ。いいんですか?そろそろ寝た方が良いと思いますけど」
果歩はいよいよ自分は頭がおかしくなってしまったのだとショックを受けた。
しかし、こんなストレスだらけの世の中なのだから多少おかしくなっても無理もないだろうと思い、頭の中でちょっと風変わりなイマジナリーフレンドと会話するくらいセーフだろうと考え直した。
念の為心療内科も受診してみたが、頭の中で希死念慮が話しかけてくるんですとは言い出せず「過労による軽い抑うつ状態ですね」と診断され、何か趣味を持つと良いですよと調子外れのアドバイスをされた。
ではお大事に、とそのまま診察室を追い出されそうになったので慌てて「最近、疲れているのに眠れないんです」と訴えると「あー、そうですか。じゃあー、軽い睡眠薬、出しときますね。眠れなかったら飲んでくださぁい。ではお大事にー」と何とも間延びした口調で睡眠薬が処方された。
睡眠薬を飲むと夢も見ずに朝までぐっすり眠れたが、薬が効きすぎているのか目覚めは最悪で全身が気だるかったので時々しか飲まなかった。
「全部気圧が悪いんですよ。果歩さんは悪くない。ほら、お薬飲んで寝ちゃいましょう」
「でも、洗濯しないと」
「こんな雨の日に洗濯したってどうせ乾きませんよ。まずは寝てください」
「……分かりました。おやすみなさい、希死田さん」
果歩はいつしか希死田との会話を楽しむようになった。平日休みで希望休も通りにくく土日休みの友達と疎遠になってしまい、長らく恋人もいない一人暮らしの果歩にとって、希死田は体の良い話し相手だった。
そうこうしているうちに希死田はとうとう実態を伴って現実の世界に姿を表した。
十二月はケーキ屋が一年で一番忙しい季節だ。
過酷な残業を終え、這う這うの体で狭いアパートに帰還し、希死田が果歩のお気に入りのソファーに腰掛けて文庫本を読んでいる姿を見た瞬間、果歩は思わず悲鳴を上げて腰を抜かした。
「わぁッ!びっくりしたぁ!」
「果歩さん、おかえりなさい」
「た、た、たたたただいま」
「今日も遅かったですね。しんどくてもちゃんと湯船浸かった方がいいですよ」
「えっと、あの、希死田さん」
「はい?」
「どうして、私の部屋に、その、普通にいるんですか?貴方は私の、その、幻覚なのに」
果歩が壁伝いになんとか立ち上がろうとしながらもごもごと口ごもっていると、希死田は「声が聞こえるんだから姿が見えることもあるでしょう。そこに大差は無いんじゃないですか?」と肩を竦めて文庫本をパタンと閉じた。
「いや、その、大変申し上げにくいんですが、幻聴と幻覚の間には大きな差というか、越えてはいけないラインがあると思うんです」
「えーー?今更そんなの気にしちゃうんですか?目に見えるもの、聞こえるものだけが真実とは限りませんよ。大切なものは目に見えないんですよ。星の王子さまもそう言ってたじゃないですか。それに僕達、結構長い付き合いでしょう?ね、仲良くやりましょうよ」
希死田はそう言うと薄気味悪い笑顔を浮かべ、果歩に握手を求めた。
希死田の手は乾いていてひんやりと冷たく、骨張っていて大きな大人の男の手だった。


それから、果歩と希死田の奇妙な共同生活が始まった。
希死田は幻覚だから何も食べない。眠りもしない。時々話しかけてくる事もあるけれど基本的にはただそこにいるだけだった。
果歩が真夜中、月明かりが射し込む青白い部屋で何をするでもなく天井の隅の長靴の形に似た染みを凝視している間、希死田はダイニングテーブルで一人黙々とトランプタワーを建てている。何が面白いのか一人でチェスをしてる時もあった。果歩はチェスのルールを知らない。
希死田は時々ヴァイオリンを弾いた。果歩はクラシックには疎いけれど希死田の演奏はとても上手でプロみたいだと思った。
「……何だか悲しい音色ですね」
「映画ショコラのオリジナルサウンドトラック、Passage of Timeです」
それは果歩の知らない映画だった。希死田曰く有名な映画のテーマ音楽らしい物悲しくもドラマティックな旋律は鬱屈した果歩の心理状態に危ういほどマッチしていた。
「あーー」
ベッドの上で膝を抱え、果歩が弱々しく呻き声を上げると、希死田はぴたりと演奏をやめた。
「すみません、うるさかったですか?」
「死にたい」
血を吐くように果歩がそう呟くと、希死田は「知ってます」と静かな声で言った。ただそれだけだった。
止めもしない、励ましもしない、唆しもしない。
希死田は基本的に果歩に干渉しないのだ。
果歩の精神状態によっていたりいなかったり、聞こえたり聞こえなかったり、見えたり見えなかったり、人間の姿だったり猫の姿だったりする。
「おはようございます、果歩さん」
「おはようございます、希死田さん」
そんな尋常ではないけれど穏やかすぎるほど穏やかな日々が続いたある朝、果歩の身体に異変が起きた。
眠くは無い。むしろ頭ははっきりと冴えている。
それなのにスマホのアラームを止める事すら出来ない。まるで金縛りにあったみたいに指一本動かせない。
しかし、このアパートの壁は薄い。
こんな早朝に延々とアラームの音を鳴らしていたら近所迷惑だ。隣人に怒鳴り込まれるか、管理会社から苦情が来るかもしれない。
果歩は渾身の力を込めて伸びをして強引に身体を動かし、スマホのアラームを止めると、やっとのことでベッドから起き上がった。
さぁ、身支度をしよう。今からなら化粧を多少簡略化すればまだいつもの電車に間に合う。
無心に歯を磨いて顔を洗っていると、果歩は自分が泣いていることに気が付いた。
涙は拭っても拭っても後から後から零れてきた。これでは化粧どころではない。何を塗っても涙が全て洗い流してしまう。
もういい、化粧は諦めよう。
眉毛だけ書いて最低限の身嗜みを整え、出勤用の制服に着替えやすいという理由でヘビロテしている全く趣味じゃない服に袖を通す。
重たい身体を引き摺って玄関の鍵に手を伸ばすと、再び果歩を金縛りのような感覚が襲った。
「行っちゃダメですよ」
それは地を這うように低く良く響く希死田の声だった。
「……でも、行かなきゃ、今日は絶対に休めないんです」
「貴方がいなくてもなんとかなります。社会の歯車なんてね、それがどんなに重要な役割であっても所詮交換可能な部品に過ぎないんですよ。果歩さんがいない分、今日は誰かに無理してもらえばいいじゃないですか」
「そんなの、そんなのダメです。私のせいで皆さんに迷惑をおかけするなんて」
希死田は果歩を後ろから抱き竦めながら果歩の華奢で丸い肩に顎を乗せると、耳朶に唇を沿わせて「果歩さん」と静かに名前を呼んだ。
「ダメですよ。貴方、今日駅へ行ったら電車を止めちゃいますよ。人身事故を起こす気ですか?その方がもっと大勢の人の迷惑になります」
「でも」
「でもじゃない。今日は、僕と一緒に家にいましょう」
「……働かないと、生きていけない」
「仕事は明日から行けば良いでしょう。一日休んだくらいじゃクビにはなりません。今日は休む。そ?な状態で労働なんて無理です。分かりましたか?」
希死田に幼い子供に言い聞かせるように根気よく説得され、果歩が涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔で唇を震わせながらこくりと頷くと、希死田は「さぁ、会社に死にそう声で休みますって電話をしたら今日は僕と一緒に一日中ベッドでだらだら過ごしましょう。ほら、果歩さん、まずは電話です」と言って、果歩がダイニングテーブルの上に置き忘れていたスマートフォンを指先で摘み上げて恭しく手渡した。
「まず夕方まで寝て、そしたら何か美味しいものでも食べましょう。カロリーも糖質も気にせず好きなだけ。大丈夫、こういう時は太りません。果歩さん、貴方疲れてるんですよ。とにかく寝ましょう」
希死田は薄気味悪い笑顔で無責任にそう断言すると、涙でびしょ濡れになった果歩の頬をそっと撫で、涙を拭った。
その手は氷のように冷たかったのに不思議と温かくて果歩は子供のようにしゃくりあげ、声を上げて泣いた。


繁忙期を乗り越え、閑散期に入った店は落ち着いた客入りになり、果歩はほぼ定時で上がれるようになった。
その頃には睡眠薬を飲まなくても眠れるようになっていたが、希死田は夢には出なくなった代わりに起きてる間ずっと果歩の傍にいるようになった。
恐らく果歩のイマジナリーフレンドのような存在である希死田は果歩以外には姿は見えないらしく、果歩は勤務中でもお構い無しに果歩にべったり着いて周り、どうでもいいことをべらべらと話しかけてくる希死田の言葉にうっかり返事をしてしまわないように大層苦心した。
「今のお客さん、昨日奥さんを怒らせちゃったみたいですね。あのケーキ、お詫びの品ですよ」
「希死田さんってそんなことまで分かるんですか?」
「ふふ、ただの当てずっぽうです」
「なんだただの言いがかりじゃないですか。田島様は月に一度ほど朝一番にお電話で苺のショートケーキとモンブランをご予約されてテイクアウトされて行かれるんですよ」
「じゃあほぼ月一で色々やらかしてるんですね。女性は甘い物を与えてやれば機嫌が治ると思ってるんでしょうね。普通に謝れば良いのにケーキで誤魔化そうだなんて舐めてますよねぇ」
ショウケースの前に立って客を待つ時間、果歩は小声で希死田との会話を楽しんだ。
「そうですねぇ。でも、もしかしたらケーキを食べたら喧嘩はお終いって奥様が決めてるのかもしれませんよ。そういうルールというか、ひとつ目安があった方が楽じゃないですか。怒り続けるのもエネルギー使いますしね」
「果歩さんって案外ドライですよね」
「今日のケーキ、廃棄にならないかな。ブルーベリーのタルトが食べたい」
果歩が待機姿勢で強ばった身体を控え目に軽く解しながら小さくそう呟くと、希死田は「その姿勢、良いと思います。仕事なんてほどほどにやればいいんです。死ぬ気でやると死んじゃいますからね。」と歌うような口調で言って身体を揺すってくっくっくっと喉で笑った。
「果歩さん、知ってますか?キリスト教の神様はアダムとイブが林檎食べた罰として楽園を追放して永遠の命を取り上げ、男には労働の苦しみを、女には出産の苦しみを与えたそうです。その神への裏切りと堕落が人間の全てが生まれながらに背負う原罪になったと言われているそうですよ」
「ふーん、そうなんですか」
「僕は人間が神のように善悪の判断が出来るようになることがそこまで罪深いとは思えませんがね。だからカトリックには労働は罰であるという思想が根強く、カトリックが多い国は経済的に栄えにくいなんてデータもあるらしいですよ」
「希死田さんの雑学コーナー、結構好きです」
「恐れ入ります」
希死田は誰にも見えないのを良い事にショウケースの上に軽やかに飛び乗り腰掛けると長い脚を持て余したように組み、自らの膝に頬杖をついて上機嫌な様子で鼻歌を歌い始めた。
「……その理屈で行くと、女性は労働も出産もして罰が重過ぎませんか?二重取りですよね?」
「お、良いですねぇ。そういう視点、好きですよ」
それは果歩の知らない曲だったが、勤務終了後にそういえばさっき歌ってた曲ってなんて曲ですか?と聞いてみると「アルルの女より、ファランドールですよ」と教えてくれた。
果歩はボサボサ頭に無精髭で痩せぎすの男が座ったショウケースを視界の端に入れながら、腹筋に力を入れて吹き出さないように慎重に「いらっしゃいませー」と程々に声を張り上げた。


「希死田さんって、死神なんですか?」
深夜、ベットの上で体操座りをしてぼんやりと虚空を見つめながら果歩が半ば独り言のように尋ねると、何故か海外の大道芸人のようにキレッキレのパントマイムを披露していた希死田はピタリと動きを止めた。
「……死神、とは少し違いますかね。いや全然違います」
希死田はそう言うと考え込むような仕草で無精髭の生えた顎をさすった。
「最初に自己紹介したじゃないですか。僕は希死念慮の希死田です」
「希死念慮って要は自殺願望じゃないんですか?」
果歩が小首を傾げると、希死田はうーんと唸りながら果歩に歩み寄り、一人分の空間を空けてベッドに腰掛けた。大人二人分の体重に安物のシングルベッドが抗議するように軋んだ。
希死念慮にも体重があるらしい。果歩はその事が妙におかしくて思わず吹き出しそうになった。
「希死念慮と自殺願望はちょっと違いますね。前も言いましたけど、希死念慮は死にたいというよりどちらかと言えば消えたい、に近い。死にたいとは思いつつも具体的な方法までは考えていない状態です。何もかも投げ出してここからいなくなりたい。弊社爆発しろ。非課税の五百兆円欲しい。買ってない宝くじ当たらないかな。不労所得欲しい。ずっと眠っていられたらいいのに、とかまぁそんな感じです。僕は自分で言うのもなんですけど、上手く付き合ってさえいれば、わりと無害な存在なんです」
「……無害」
果歩が思わず目を丸くしてオウム返しにすると、希死田は「今のはちょっと傷付きました」と薄い唇を子供のように尖らせた。
無害。確かに言われてみれば希死田は無害だ。
いつもそこにいるだけで何もしない。ただ、希死田が現れる時は決まって気分が落ち込み、酷い倦怠感と虚脱感に襲われる。
部屋にスライム状の不安と哀しみとやるせなさが充満して窒息しそうになるのだ。そしてそれは不思議と、悪くない気分でもある。
時々このまま希死田と二人きり、働くのも眠るのも飲み食いするのもやめてしまいたいと思う。しかし、希死田はそれを許さない。
「果歩さん、そろそろお昼ご飯食べたらどうですか?朝ご飯も食べてないでしょう?ほぅら、そう言われると何だかお腹が空いてきた。春雨ヌードルくらいなら入るでしょう?」
「果歩さん、アラーム鳴ってますよ。長かった十連勤も残す所あと三日、もうひと頑張りですよ。手足ぐっぱーして血流良くしていきましょう。ほら、果歩さん!起きて下さい!」
「果歩さーん!玄関で寝たら風邪引きますよー!ここは雪山ですよー!寝たら死にますよー!」
希死田は果歩を、いつも自堕落な生へと繋ぎ止めようとする。
「……希死田さんって、いつも何だかんだ言って優しいですもんね」
果歩が顎のラインで切り揃えた艶のある髪を揺らしてくすくす笑いながらそう言うと、希死田は突然突き放すような口調で「優しくは無いですよ。所詮僕は希死念慮ですからね。関わらないに越した事はないです」と吐き捨てて長い前髪を無造作に後ろに撫で付けた。
それは初めて見る表情だった。
希死田は痩せ過ぎな上に顔色が悪く、爬虫類のような印象を与えるものの、それなりに整った顔をしている。素材は悪く無いのだから長過ぎる前髪と無精髭を何とかすればもっとマシになるのに、と果歩は内心勿体なく思っている。
勿論、だからといってどうというわけではない。
希死田は果歩の幻覚だし、果歩は男性全般が苦手で薄ら嫌いだ。憎悪していると言ってもいい。けれど不思議と希死田は同じ空間にいてもストレスを感じなかった。
「さ、果歩さん、お風呂が無理ならメイクだけでも落としてさっさと寝ちゃいましょう。貴方が寝ても寝なくても朝は来ますよ。それなら少しだけでも眠っておいた方が明日楽でしょう?」
壁掛け時計を見るともう深夜と言うよりも明け方といった方が相応しいような時間だった。
「今寝ると逆にしんどくなるから嫌だなぁ」
「つべこべ言わず目を閉じる。眠れなくても目を閉じるだけでも全然違うんですよ」
「起きられますかね。寝坊して社会的に死ぬのは嫌です」
「勤務中に居眠りしても社会的に死ぬと思いますけど?昏倒して怪我をする危険性だってありますし、そうなれば労災ですよ」
「うっ、私の寝不足如きで店長にご迷惑をおかけするわけには……」
「だから五時間前に大人しく睡眠薬飲んどけば良かったんですよ。果歩さんの今日は寝れそうは当てにならないんですから」
果歩は明日仕事中に抗い難い睡魔と倦怠感に襲われる自分を想像して何もかもが嫌になった。
忙し過ぎてトイレ休憩すら取れない繁忙期も辛いが、閑散期の暇疲れはそれはそれで死ぬほど堪える。一日が永遠のように長いのだ。
「希死田さん、朝起こしてくれます?」
「希死念慮にモーニングコール頼むって斬新ですね。朝起きた時に僕がいない方が目覚めは良いと思いますよ」
「えー、でも最近希死田さんずっといるじゃないですか」
「順序が逆ですよ。僕が勝手に出てくるみたいに言わないでください。果歩さんが死にたい、消えたいって思ってるから僕が出てくるんです」
「じゃあもし、私が抗うつ剤とかちゃんと飲んで希死念慮が無くなったら希死田さんのこと見えなくなるんですか?」
不意に果歩が純粋な疑問を口にすると、希死田はにこりともせずに「寂しいですか?俺に会えなくなったら」と爬虫類のような目で果歩を見た。
「さぁ、いなくなってみないと分かりませんね。そもそも希死田さんがいる生活の方がイレギュラーなので、いなくなっても元に戻るだけですし」
「果歩さんってほんとにドライですよね。そういう所好きですよ」
「それはどうも」
「……さて、どうなんでしょうねぇ?腹痛とは違うので薬飲んで即治ったー!ってスッキリ消えるもんじゃないとは思いますけどね。でも寛解する場合もあるみたいですよ。その場合、もしかしたら出てくる頻度は減るのかもしれませんねぇ」
希死田は長い指で顎をさすりながら独り言のようにそう言うと、何処からともなく輪っかになった赤い毛糸の紐を取り出し無言であやとりを始めた。
果歩は結局メイクすら落とせないまま、ぼふんと音を立て横になるとつるつるとした肌触りのサテンの枕カバーに頬を押し付けた。
川。ほうき。四段はしご。東京タワー。
トランプタワーといい、ヴァイオリンの腕前とい、希死田は無駄に手先が器用で芸達者だ。
魔法のように次々と形を変える毛糸の紐をぼんやり眺めている内に果歩の瞬きが段々ゆっくりになり、次第に瞼が重くなり始める。
「あやとり、上手ですね」
果歩が眠たげな声でそう言うと、希死田は果歩の方を振り向きもせず「恐れ入ります」と言いながら流れ星を作って見せた。
何もかも投げ出してここからいなくなりたい。
ずっと眠っていられたらいいのに。
あぁ、もう疲れた。
消えてなくなりたい。
楽になりたい。
死にたい。
死にたい。
死にたい。
「……ねぇ希死田さん」
「なんでしょう」
「死んだら、どうなるんですか?」
闇夜に溶ける細身のスーツに身を包んだ男は果歩の唐突な質問にぴくりと身体を強ばらせ、あやとりをしていた手を止めた。
「気になりますか?」
「……人並みに」
「それは、死んでからのお楽しみです」
希死念慮と共に現れる不思議な男は猫のように妖しく目を細めると、人差し指を唇に当てながら小首を傾げ不敵に微笑んだ。


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