【短編】パーフェクトワールド、あるいはバックヤード【創作大賞2023】
あらすじ
本編
1
「……どこだ、ここ」
命からがら貨物船から脱出したものの、自分の現在地すらわからない現状に気づき、私は呆然とした。
頼みのスマートフォンは、もう何時間も前に充電が切れている。
あたりには、色鮮やかなコンテナと、それを運ぶための赤白いクレーンしか見当たらない。
風に運ばれて、磯と重油の混ざった、独特の臭みが鼻腔をかすめる。
どこかで人の声が鳴っているが、姿は見えない。
船の中で何時間も同じ姿勢で縮こまっていたから身体のあちこちが痛む。
汗と磯で肌がベタついてウザい。
能天気に照る太陽に殺意を覚えた。
ヒントになるようなものがどこかにないかとあたりをウロつくものの、見つかるのはどこにでもあるような有名企業のロゴだけだった。
落胆していると、タイヤが地面を擦る音が聞こえてきて、コンテナの影からそっと顔をのぞかせる。
向こうから自動車が走ってくるのが見えた。
薄汚れたトラックだ。広島ナンバー。じゃあここは広島か? マジ? 私、東京から広島まで運ばれてきちゃったの?
そんなつもりじゃなかったのに。
ただ、追われていたから、一時的に身を隠せる場所を探していただけだった。
貨物船のなかに忍び込むという機転自体はよかったのだが、当たり前だけど船は交通手段なのだ。いつまでもそこに留まっていてはくれない。気がついたときには手遅れだった。
「まいったな」
ごく僅かな所持品(タバコ、百円ライター、財布、スマホ、Bluetoothイヤホン)を広げ、さてどうしたものかと腕を組む。
考えた末、ひとまず、船のなかで一本も吸えなかったタバコに火をつけることにした。
吸い、吐く。
それを繰り返す。
ニコチンが頭に回ってくると、まあ同じ日本なんだしなんとでもなるか、という気持ちになってきた。
むしろこうして安全(?)に東京を離れられたことは僥倖かもしれん。
なんたって、私は追われる身なのだ。
東京は危険でいっぱいだ。
なら、事が収まるまで身を潜めていたほうが、ひょっとすると得策か、と思う。
私を待つ人も、今となっては、もう、いないわけだし。
さて。
そうなると、まずは宿か。
でもその前に何か食いたい。
港町っぽいし、やっぱ海鮮丼かな、とか、そんなことを考えながら、私は吸い殻を海に放り投げた。
2
歩けど歩けど、海鮮丼の店はおろか、まともな飯屋すら見つからなかった。
あるのは途方もなく大きくて長い道路と、その先に広がる地平線と、コンテナと、工場だけ。
「アメリカの田舎みてぇだな」
日本から出たことないけど。
日本の地方都市はどこも山に囲まれている印象だ。良く言えば、見守られている。悪く言えば、監視されている。いずれにせよ常に窮屈な感が付きまとう。山と神さまが結びついてイメージできるのも、だから、そういう感覚が刷り込まれているからなのかもしれない。
なんといったって、東京ですら、天気が良ければ富士山が拝めるのだ。
本当にここが広島なのか自信がなくなってきた。
さっきから通りかかるトラックも、ナンバープレートの地名がバラバラだ。大阪や愛知、神戸といった都市もあれば、四国や中国地方から来たトラックもちらほらと見かける。
青い標識を見上げると、阪神高速や三宮と書かれていた。
ということは関西のどこかだろうか。三宮だから兵庫か。兵庫といえばあれか。……なんだろう、何も思い浮かばないな。
人通りがまったくないのを良いことに、タバコを燻らせながら歩く。
こんな呑気なことしてていいのかな、という思いが頭をもたげる。
しかし、今は、こうして、あてもなく放浪するしかないのも事実だ。
仕方ないのだ。
そう自分に言い聞かせ、しばらく歩いていると、工場や団地、あとは……あれは高速道路だろうか、高架橋が密集した、薄暗い場所へ出た。
高架橋の隙間から、発色の良い赤色をした、アーチ状の橋らしきものがチラリと覗く。
当たり前の話だが、別にここは、外界から断絶された絶海の孤島とかではないらしい。
私はひとまず、その橋を目指してみることにした。
しかし……なんというか、しばらく歩いてみて感じたのだが、この街は、どことなく、人工臭い。
自然がほとんどなくて、緑は等間隔に並ぶ街路樹だけ……というのは東京もそうなのだが、この街の場合は、なんなんだろうな、一度すべてを焼け野原にして、そこに新しく街を作ったような、そんな印象を受ける。歴史がなくて、あるのは人の都合だけみたいな。
道路がクソ広いせいかもしれない。
昔、何かの小説で、空襲で焼けた街の道路は広くて走りやすい、という話を読んだことがある。逆に、古い建物が残る街は道がやたら入り組んでいて、車を走らせるのは億劫だ、と。
この街はさぞかし走りやすいんだろうな。
目的の橋は目算よりもずっと遠くにあり、ようやく橋のふもとが見えてきたころには完全に疲労がピークに達していた。
橋の下で仰向けに寝転がる。
レンガタイルのひんやりした感触が心地よい。
アーチ状の橋は、間近で見上げてもやっぱり綺麗な赤色をしていた。その発色の良さが、かえって、わざとらしい。常に見られることを意識している。伏見稲荷から神聖さを抜いたような感じだ。
そんな真っ赤な橋は、海を挟んですぐ先の街まで、一直線に伸びていた。
煌びやかで賑やかな様子が、ここからでも伝わってくる。
街の背後には堂々とした山々が連なっていた。
……こっちとはえらい違いだな。
あの街まで行けば美味しいもの、ゆっくり休める場所がいくらでもあるんだろうけど、もう、とてもそんな元気はない。
動けないです。
横になったまま瞼を閉じる。
目覚めたまま夢を見る。
あいつの顔が脳裏に浮かぶ寸前のところで、カン、カン、と、何か、硬い物同士がぶつかりあう音が聞こえてきた。
身体を起こし、音がする方向へ首を曲げると、少女が橋の上に向けて、何か投げていた。
「……?」
少女が腕を振りかぶり、また、カン、と硬い音がする。
気になって、私は少女のところへ向かった。
「よう、お嬢ちゃん」
少女が振り返り、思わず息を呑む。
綺麗な子だ。
腰まで伸びた黒髪は毛先まで艶やかで、白いワンピースの袖からのぞく腕は透けるよう。いかにも育ちの良いお嬢様といった風体。
その大きくて深い藍色の瞳に、一瞬、吸い込まれそうになる。
「あれ」抑揚のない声。少女が無表情で指差す先には、ツバメの巣があった。「あれを壊したくて」
「………………」予想外の返答にしばしフリーズする。「えーと……?」
「困るの。こんな、目のつくところに巣を作られたら」
「……お嬢ちゃんは、なに、ここの管理人とか?」
少女が不思議そうに首を傾げた。
「私が? なぜ? 全然違うわ」
「管理人でもないのにツバメの巣を駆除してんの?」
「そうよ」少女がやけにあっさり頷いた。「ダメ?」
「……ダメだよ。かわいそうじゃん」
「かわいそう? だって、あれ、所詮、鳥畜生よ」
私はこんな綺麗な子の口から畜生なんて言葉が飛び出たことに軽い衝撃を受けながら、
「鳥でもなんでも、居場所を奪われるのはつらいだろ」
と、ある程度、実感を込めてそう忠告した。
しかし、少女はどうにもピンときていない様子で、
「勝手に居場所なんか作る方が悪いわ」
そう言い、足元に転がる石ころを拾い上げた。
……どうも、この子には、道徳が通じないらしい。
「あー……でも、ほら。あの巣、雛がいるだろ」巣には、ここから見えるだけでも三羽、まだ生まれたばかりの雛がいた。「雛がいる巣を壊すのは、なんか、条例違反とかになるはずだぜ」
それを聞いて、少女の腕がピタ、と止まった。
「本当?」
「少なくとも生き物を殺すのはルール違反だろ」
「巣を壊すだけよ」
「成鳥ならともかく、巣を奪われたら雛は死ぬだろ、どうしたって」
少女が黙り込む。
「だから、巣を壊すなら、せめて雛が巣立ってからにしな。そうすれば、違反にならないし、来年また同じ場所に戻ってくることもないから」
「雛ってどれくらいで巣立つものなの」
「さぁ、一ヶ月くらいじゃない?」
少女はしばらく思案したあと、
「……ふぅん。じゃあ待つわ」
石ころを放り捨て、さっさとその場を後にした。
3
幸いなことに、宿はすぐに見つかった。橋から少し歩いた先に経つ安いホテル。値段のわりには設備が良い。海が近いと夜景が綺麗だ。禁煙部屋しかないことを除けば、いいホテルだ。
ふかふかのベッドが疲れた身体に沁みるぜ……。
フロントで借りた充電器を使い、長らく死んでいたスマートフォンを生き返らせる。
地図アプリを開き、ようやく私は今、自分がどこにいるのかを正確に把握することができた。
神戸の湾に浮かぶ人工島。
切り崩した山を使って完成させた島。
一度、焼け野原になったどころの話ではなく、そもそもこの土地自体が、人の手によって作られたものだったのだ。
はぁ〜……すごいこと考えるものだな、人類。ちょっと見直した。
ついで、ニュースサイトをいくつか確認するが、例の事件について大きく報道されている様子はなかった。情報規制がかかっているのか、それとも……。
こういうとき頼れる人間も、もういないから、自分が、今、どういう状況に置かれているのか、いよいよわからない。
人との繋がりは少ないに越したことない、をモットーに生きてきたが、これは、ちょっと、考えを改める必要があるかもなぁ。こういうときマジで不便だ。でも利便のための人間関係って何?
……考えても仕方ないか。
私はまた地図アプリを開き、周辺の施設を調べてみた。
コンビニがすぐそこにある。飲食店の類も、島の中心部に行けばいくつか点在している様子だ。大きなイケアや動物園もある。娯楽のまったくない島というわけではないらしい。どれも、外向きの娯楽といった感じだが。
スマートフォンを放り投げ、もう少しベッドで横になってからコンビニに行こう、と心に誓う。
とにかく手軽なカロリーが欲しい。
こちとら、昨日の晩から何も食べてないのだ。
……しかし、こんな、呑気にスマートフォンとか使ってて大丈夫なのだろうかと、ふと、不安になる。GPSで探知とかされないんだろうか。わからんな。そもそも、私を犯人だと決めつけてきたあのいけすかない名探偵の話を、果たしてどれだけの人間が信用しているのだろう? 見るからに胡散臭いやつだったし、案外、誰もあいつの話なんか信じてなくて、あいつが一人で勝手に騒いでるだけって可能性もあるんじゃないか?
得意げにペラペラ喋ってた推理も、内容、ほとんど理解できんかったし。
そもそも、冤罪だし。
私、やってないし。
間違った推理を意気揚々と語る人間が信頼されるほど、社会というのは甘くない。はず。
だとしたら、必死こいてこんなところまで逃げてきて、私、バカみたいだな……。
そういえば、あいつにも、思い込みで暴走しすぎ、なんて、よく怒られていた。
もういないんだな。
まるで現実感が湧かない。
悲しいのかどうかもわからない。
わからないことばかりだ、私は。
そんなことを考えていたら、自然と瞼が垂れ下がってきた。
あぁ……でもコンビニ行かないと……だって心に誓ったんだ……。
しかし必死の抵抗虚しく、私は襲いくる睡魔にあっさり敗れてしまうのであった。
4
どこで間違えたのかと糸を辿れば、そもそもあいつと出会ったことそれ自体が間違いだったのだろう。
天真爛漫で、誰にでも愛嬌を振りまき、いつもころころと楽しそうに笑っている女。
私は一発で恋に落ちた。大好きだと思った。今すぐキスとかしたいと思った。ていうかもう食べちゃいたいと思った。もちろんカニバリズム的な意味で。
ここまで強い気持ちが湧き起こったのは、本当に、生まれて初めてだった。
だから、ダメ元でデートに誘ってあっさりOKされたときも、ダメ元で手を握って優しく握り返されたときも、ダメ元でウチ来る? と訊いてすんなりついてきてくれたときも、私は完全に有頂天で脳汁がドバドバ大放出して、ああもうこいつのことを私は一生離さない死んでも愛す誓う幽霊になって枕元に立つと思った。幸せすぎて頭がおかしくなりそうだった。人生の頂点だった。
半年くらいそんな最高の人生をイチャイチャ謳歌していたら、相手のほうがあっさり先に死んでしまった。
殺された。
鍵のかかった部屋で、バラバラに解体されて、首だけ持ち去られるとかいう、あまりにも馬鹿げた状況で。
私はその場に居合わせたわけではないけど、とにかくもうそれはひどい有様だった、と、第一発見者の女が、わざわざご丁寧に当時の状況を説明してくれた。
第一発見者はあいつの恋人のひとりだった。
そう。
あいつが死んだあと、少なくとも発覚しただけで、あいつには私を含め三人の恋人がいたことがわかったのだ。
目の前がクラクラした。
なんだそれと思った。
私があいつひとりに全力で愛を注いでいる裏で、あいつは私と同じか、もしくはそれ以上の愛を他の誰かにも分け与えていたのだ。
あの笑顔も、あの指先の動きも、あの匂いも、あの温もりも、私だけのものではなかったのだ。私にとってあいつはたったひとりだったけど、あいつにとって私は三人のうちのひとりだったのだ。
思い出が、その意味を、価値を、変える。
私は、あいつとの未来はおろか、最高に幸せだったはずの過去すら、失ってしまったのだ。
永遠に。
5
ハッと目覚めると、まだ深夜の三時だった。
シャワーも浴びずスマートフォンだけ持って、私はホテルを出る。
街はしんと静まり返っていた。
たまに、遠くで、車の走る音がやけにはっきり聞こえてきた。
コンビニの入店音が、いつもより大きく感じる。
バックヤードに引っ込んでいるのか店内に店員の姿はなく、私は弁当や飲み物や化粧品やその他もろもろの日用品をセルフレジで購入し、ホテルに戻った。
部屋で、ひとり、もしゃもしゃと廃棄寸前の唐揚げ弁当を食べる。
こんな、呑気にしてていいんだろうか、という考えが、また頭をもたげる。
早いところ東京に戻って、真犯人を探すなり、復讐の計画を練るなり、すべきなのでは。
決着をつけるべきなのでは。
……だけど、なんか、なんだかなぁ。
何をどう頑張ったところで、あいつとの未来も、楽しかった過去も、もう二度と戻ってこないのだと思うと、途端にやる気を失ってしまうのだ。
あんなにも愛を誓った相手なのに。
鬱なのかも。
じゃなければ、こんな、軽薄で、意志がよわよわの自分を、私は許せそうにない。なかった。
「死に顔くらい拝んどくべきだったか」
空になった弁当の容器をコンビニ袋で包みながら、こぼす。
あいつの首は結局まだ見つかっていないし、そもそも、私はあいつの通夜にも葬式にも行っていなかった。
あいつが死んだ、殺された、と、人伝に、というかあいつの恋人のひとりから聞かされただけなのだ。
だから現実感が湧かないのかもしれない。
だからうまく怒れないのかもしれない。
だからちゃんと悲しめないのかもしれない。
もっとしっかりあいつの死と向き合えば、それが原動力となって、行動として現れてくるのかもしれない。
そう思う。
思うだけ。
スマートフォンで東京行きの新幹線の値段を調べるだけ調べて、私はもう一度眠りについた。
6
しばらくはホテルのなかで過ごした。その間、スマートフォンに届く通知はなく、ニュースサイトやSNSが私について語る様子もなかった。
まるで何事もなかったみたいに、穏やかに、日々は過ぎていった。
部屋のなかでタバコを吸っているのがホテルの従業員にバレ、厳しく注意を受けた日の午後。私は快適にニコチンを摂取できる環境を求め島を彷徨い、気づけば、あの、嘘みたいに真っ赤な橋の下に来ていた。
橋の下には例のワンピースの少女がいた。
地面に直接、体育座りして、じっとツバメの巣を見上げていた。
「汚れるぞ」
後ろから声をかけると、気だるそうに少女が振り返り、誰? という顔をした。
「あの雛の命の恩人」
ちょっと傷つきながらツバメの巣を指差すと、ああ、と、少女は得心したように頷き、頭上に視線を戻した。
「あなたのおかげで大変よ」相変わらず抑揚のない声。「あまり無責任に命を救うべきじゃないわ」
「……ひょっとして、毎日来てんの、ここ」
「そうよ」
「学校は? 平日の昼間だぜ。学生だろ、あんた」
「オンラインで受けてるから大丈夫なの」
「パソコンもタブレットも見当たらないけど」
「わりとなんとかなるものよ」
そういうものなのだろうか。
近年の教育事情に疎い私は、とりあえず頷き、少女の隣に腰をおろした。少女が露骨に怪訝な表情をする。海の向こうは相変わらず煌びやかで、たのしそうだった。
「あなたこそ」少女がお尻を数センチ横にズラし、私から距離をとる。「昼間からぷらぷらしてる。大人なのに」
「大人って案外そんなもんだぜ」
「そんなはずないわ。私のパパとママは立派に働いているもの」
「ご両親は何してる人なの?」
「ふたりとも島の研究所に勤めてる」
「へぇ」私は目を丸め、少女を見つめた。「研究所なんてあるのか、ここ」
「あなた」少女の瞳がじっとこちらを見つめ返す。「この島の人間じゃないの?」
「東京から来た」
大きくて深い藍色の瞳が、かすかに揺れたのがわかった。
「そこのホテルに泊まってる」私は背後に見えるホテルを指差した。「なあ、ここって禁煙?」
「好きにすればいいんじゃない」
私は言われたとおり、タバコに火をつけた。
「あんたはずっとこの島なの?」
「アオイ」
「あん?」
「私の名前。あなたは?」
「……ミチだけど」
「ミチさん」アオイが口のなかで転がすようにつぶやいた。「おばあちゃんみたい」
「悪かったな。文句なら親に言ってくれ」
「文句なんてないわ。いい名前だと思う」
「そりゃどうも」
風が吹き、タバコの煙がアオイのほうへ流れていく。アオイは嫌な顔ひとつせず、
「ずっとここよ。この島で生まれ育った」
と答えた。
「じゃあ、あの雛たちと同じだな」
「鳥畜生と一緒にしないで」アオイがすかさす反論する。「それに、あの子たちはいつかこの島を出て行くんでしょう。同じじゃないわ」
そう言うとアオイはお尻を払い、立ち上がった。
「帰る」
「アオイさ、いつもここにいるの」
「ええ。あの雛が巣立つまでは」
そんなら明日も来ようかな、と思いながら、私はワンピースの背を見送った。
7
「暇なの?」
アオイは私の顔を見るなりそう言うと、一時間以上前から橋の下でタバコを燻らせていた私の隣に腰をおろした。
アオイは昨日と同じワンピース姿。ただ、今日は髪の毛を後ろでひとつに結んでいた。後れ毛がぴょこぴょこ跳ねていて愉快だ。
「せっかく東京から来てるのに、ツバメの巣を見て過ごす気?」
「だって、他にやることもないし」
「あっちに行けばいいじゃない」アオイが海の向こうを指差した。「東京ほどではないけど賑わってるわ。美味しいものもたくさんある」
「人が多いところはなぁ……。この島には、なんか、ないの。ツバメの巣以外に」
「貿易港。イケア。動物園。科学館。プラネタリウム。空港。公園。スポーツミュージアム」アオイが淡々と羅列する。「観光する場所ならそれなりに」
「……アオイは普段、何してんの。ここで」
「私? 私は主にインターネットと料理を嗜んでいるわ」
「見事なインドアだな」
「そりゃそうよ。だって、何もないもの、この島」アオイはあっさりと認めた。「むしろ不思議だわ。何のために、ミチさんはこんな島に何泊もしてるの」
答えに詰まる。
何のため。
何のためだろう?
「……信じられないかもしれないけど、私、追われてるんだよ」
「誰に」
「名探偵」
「ミチさん」アオイが憐れむような目でこっちを見た。「大人がそういう冗談を言うと、本気で心配になるわ」
心配されてしまった。
自分よりずっと年下の少女に。
情けなくて泣きそうになる。
しかも、悲しいことに名探偵に追われているというのは事実なのだ。
「じゃあ、あれだ。私さ、恋人に浮気されてたんだよね」
「その傷心旅行ってわけ?」
「まあ、そんな感じかなぁ」
「ご愁傷様ね。期待なんかするからダメなのよ」
「おいおい、まだ若いのにそんな寂しいこと言うなよ」
「でも本当のことよ」
それから私たちはしばらく、橋の下で盆踊りの練習をする集団をぼーっと眺めて過ごした。
天国の恋人よ、見ているかい。
今、私は、年下の女の子と一緒に、呑気に、盆踊りの練習風景を眺めています。
本当にごめんなさい。
8
昔から川沿いを散歩するのが好きだった。
東京は川が多い。
かつては、人の暮らしには川が、水の流れが必要不可欠だったのだろう。
街のなかを流れる神田川や目黒川のような細々とした川も好きだが、どちらかというと、私は、江戸川や荒川や隅田川のような、途方もなく巨大で、海の気配を感じることのできる川を好んだ。
あいつと付き合ってた頃も、だから、その手の川を目当てに億劫がるあいつを無理やり連れ出して、ふたりで電車に乗って、東京の東側へ遊びに行くことが多かった。
「何がそんなにいいの?」
よく、あいつにそう訊かれたものだ。
「なんか、なんだろうなぁ……落ち着くんだよね」
「なにそれ」
「いや、私もよくわかんないんだけどさ」
「ミチちゃんって」あいつは私のことをちゃんづけで呼んだ。私をそう呼ぶのはあいつだけだった。あいつに名前を呼ばれるたびに私は胸が熱くなった。「わかんないばっかだよね」
「へ? そう?」
「そうだよ」
力強く頷かれ、私は言葉に詰まってしまった。
ただ、水が流れていく様を見ていると、その隣を歩いていると、気分が落ち着くのだ。何かの流れのなかに自分も組み込まれている感じがして安心するのだ。でもそういうことをどうやって言語化して伝えたらいいかわからないのだ。
「ちゃんと言葉にして繋ぎ止めとかないとさ、ダメだよ。じゃないと、私だってふらふらどこかへ流されて、ミチちゃんのとこから離れていっちゃうかもよ」
私が言葉に詰まるたび、あいつはそうやって私を不安がらせた。
私の情けない顔を堪能してから「嘘だよ」と言って、ころころたのしそうに笑った。
そういうゲームなんだと思っていた。
お互いの愛を確かめ合うための儀式みたいな。
「好きだってば」
「本当かなぁ」
私の言葉に、あいつが試すような笑みを浮かべる。
あの頃の私たちは、そんな午後をいくつもやり過ごしていた。
9
島に来て、どれだけの時間が経っただろう。
私はすっかりここでの生活に馴染んでいた。
大抵、昼間まで寝て、島を適当にぶらつくか、ホテルのすぐ近くにある大学の図書館に忍び込んで読書するかして過ごした。
図書館は自習する学生ばかりで静かで、空調も効いていて、読書する環境としては申し分なかった。喫煙所が構内にあるのも最高だ。イヤホンで塞いでさえしまえば、大学生のくだらない話に頭を痛めることもない。
たまに、一日ではとても読みきれない本に巡り会ったときは、何食わぬ顔で勝手に図書館から持ち出して、ホテルに戻って、コンビニ酒と一緒にその続きをたのしんだ。
二、三日以内にさっと返してしまえば問題になることはなかった。
大学の図書館で必要とされる本なんてのは、授業に関係する文献か、就職のハウツー本ばかりで、私が好んで手に取るような小説がしばらくその姿を消したところで困る人間などひとりもいないのだろう。
あれから、犯人が捕まったというニュースはまだない。無くなった首が見つかったというニュースもなければ、名探偵や、他の人間からのリアクションもなかった。
東京から、表舞台から、すっかり切り離されてしまった気分だった。
図書館の小説と同じだ。
姿を消したところで、誰もそのことに気が付かない。
涼しい日は、島の中心にあるイケアまで歩いて、買いもしないのに家具を何時間も眺めて過ごすこともあった。
たまに、ソファやクローゼットなんかを眺めていると、不意に、これあいつ好きそうだな、とか考えてしまうことはあったが、それで特別、悲しくなったり、寂しくなったり、悔しくなったりすることはなかった。
そのたび、自分は鬱なのだ、と思い込むことで私は自分自身を許すように努めた。
病気が自分の感情に蓋をしているのだ。
病気が治ったら、私だって、東京に戻って、真犯人を探すなり、復讐の計画を練るなり、できるはずなのだ。
橋の下に行くと必ずアオイがいた。
「まだいたの」
私の顔を見ると、アオイはいつもそう言って眉をひそめた。
「そろそろ東京に戻るよ」
私はいつもそう返して、アオイの隣に腰をおろした。
アオイの隣にいるときだけ、私は、何も考えず、ただ、おだやかな気持ちでニコチンを摂取することができた。
ツバメの雛はまだ雛のままだった。
10
「プラネタリウムに行きたいわ」
橋の下でいつものようにタバコをぷかぷかふかしていたら、突然アオイが立ち上がった。
「なんだ、藪から棒だな」
「だって、暑すぎるのよ」
うんざりした表情で、アオイが言った。
たしかに、ここ数日はとくに夏本番といった感じで、いくら橋の下で日陰になっているとはいえ、コンクリートが照り返す熱に着実に体力を奪われている実感はあった。
「薄暗くて涼しい場所に避難しましょう」
「それでプラネタリウム?」
「それでプラネタリウムよ」
「案外、ロマンチックなんだな」
「ええ、案外ロマンチックなの」
もちろん異論はなかった。
プラネタリウムは島の科学館に併設されている。
イケアに行った帰りに、前を通りかかることはあったが、実際になかに入ったことはまだなかった。
プラネタリウムへ向かう道中、長い遊歩道をとぼとぼ歩いていると、アオイが急に立ち止まった。
「どうした?」
「イルカがいじめられてるわ」そう言って、遊歩道の壁を指差す。「目を塞がれてる」
そこには、デフォルメされたイルカの描かれたアクリル板が飾られていた。もう何年も雨風に晒されてきたのであろう。表面は薄汚れて、四隅に打ち付けられた留め具はすっかり錆びついている。
「あ、うわ、マジじゃん」
言われて気がつく。
誰かのイタズラだろうか。イルカのつぶらな瞳のうえに、噛み捨てたガムが擦り付けられていた。
「よく気がついたな、こんなの」
「だって、全部そうなんだもの」
「は?」
遊歩道の壁には、等間隔に何十枚もずらっと、同じ絵柄のアクリル版が飾られている。
よく見ると、その瞳すべてに、丸めたガムが擦り付けられていた。
イタズラにしたって、あまりにも異様な光景に、思わず、ゾッとする。
病的で、執拗。こんな狭い、しかも人の少ない街で、何十体もいるイルカの瞳、ひとつひとつにガムを擦り付けていった人間がいるのだと思うと、ちょっと、あまりにも恐ろしすぎる。
「怖いわね」アオイの、抑揚のない声。「私みたいな可愛い女の子も狙われるかもしれないわ」
そう言いつつ、アオイがその場でくるりとまわってみせた。
白いワンピースの裾がふらりと揺れる。
アオイは、今日は長い髪をおろして、その小さな頭のうえに大きな麦わら帽子を乗せていた。
「……アオイのその格好って、もしかして、わざと?」
私は呆れつつ、尋ねる。
「当たり前じゃない」アオイはあっさりと認めた。「使えるものは使わないと損だわ」
「………………」
「ひょっとして、狙いすぎかしら」
アオイが自分の格好を見下ろし、訊く。
「いいや」私はかぶりを振り、答えた。「似合ってると思うぜ」
11
プラネタリウムは最近リニューアルされたばかりらしく、なかの設備はまるで東京の大きなシネマのようだった。
何もないようなこんな島でも、技術は進歩するのだな、と、私は変なところで感動する。
世間は夏休みに入っているらしく、プラネタリウムには私たちのほかに、ちらほらと家族連れの姿があった。
「いいのかしら」隣でアオイがつぶやいた。「私が行きたいって言ったのに、お金を出してもらってしまって」
「甘えられるうちに甘えとけばいいんだよ、大人には」
「そういうものなのかしら」
なんてやりとりをしていると、次第に場内が薄暗くなり、ショーの開始を告げるアナウンスが流れた。
ぽつ、ぽつと、
明かりが、空に灯る。
本物の夜だ、と思った。
そう錯覚するほど、頭上一面に投影された星空は精巧で、そして煌びやかだった。
早送りされ、ぐるぐると回る星模様はとてつもなく幻想的だった。
ほぉ、と、隣から嘆息がこぼれるのが聞こえる。
そっと盗み見ると、アオイの大きくて深い藍色の瞳が、星空を反射して、爛爛と輝いていた。
まるで夜空を映す暗い海の水面のようだ。
見惚れていると、アオイが私の視線に気づき、何? と目で訴えかけてきた。
「……あ、いや、本当に好きだったんだな。プラネタリウム」
「言ったでしょう」アオイが小さな声で囁く。「案外、ロマンチックなのよ、私」
「そのセリフ、全然信じてなかった」
「失礼ね」
「だって、鳥畜生とか平気で言うし、そのへんの情緒がぶっ壊れてるのかと」
「本当に失礼ね」アオイが視線を星空に戻す。暗い海の水面。「星空は好きよ。私はね、ミチさん」
と、そこでちょうど解説のアナウンスが流れ、アオイはタメになる解説が終わるのを律儀に待ってから、また口を開いた。
「……私はねミチさん。何も減らないし、足されないことが完全であるための条件だと考えるわ。でもそんなことありうるのかしら? 人の気持ちだっていずれ欠けるのに。だからね、きっと、私は流動的なものに惹かれるの。絶えず変化し続けるものに。だって、それって、考えようによっては、何も減らないし、足されない状態に限りなく近いと思わない? 切り崩されて、そこに新しい街が作られたとき、その山は以前の山ではなくなったわ。埋め立てられ、形を変えたとき、その海は以前の海ではなくなったわ。でも、星空は違う。星々が絶えず移動を続けても、私たちが見上げる星空は変わらず星空なのよ」
私の言いたいこと、伝わってるかしら、と、アオイが星空を見上げたまま、尋ねる。
私は曖昧に頷いた。
場内が明るくなって、暗い海の水面に浮かんでいた星々は散らばり、消えてなくなった。
12
プラネタリウムのお礼にアオイが夕食をご馳走すると言い出した。
「知らないと思うけど、私、料理が得意なの」
「……いいのかよ、親御さんいるだろ」
「大丈夫よ。どうせふたりとも、夜遅くまで帰ってこないから。それに、私、やっぱり、貰いっぱなしって嫌よ。気持ち悪いわ」
変に気を使わせてしまったかな、と思う。
しかし、アオイが普段どういうところで生活しているのか、気にならないといえば嘘になる。私は素直に招かれることにした。
アオイの家は、プラネタリウムの最寄駅から二駅行った先の、集合住宅の一室にあった。
集合住宅という単語からおよそ連想するような住居とは大きく異なり、薄い木目調の、小綺麗な感じの部屋だ。
しかし、干しっぱなしの洗濯物がそのままにしてあったり、段ボールを使った収納箱から買い溜めた洗剤やティッシュペーパーがのぞいていたりと、隠せない生活感があちこちにある。
「ミチさんは食べられないものってある?」
リビングのソファでしばらく待たされていると、学校指定のジャージにエプロンという、珍しい姿でアオイが現れた。
なんでも食える、と答えると、
「じゃあ、腕によりをかけた至高の麻婆茄子を振る舞うわ」
と言って、アオイが手際良く食材をキッチンに並べ始めた。
「なんか手伝うことある?」
テキパキと動く背中に問いかけると、
「無用よ」ぴしゃりと返された。「遠慮しないでくつろいでいてちょうだい」
「じゃあ、アオイの部屋でも探索しちゃおうかな」
「……やっぱり少しは遠慮してほしいわ」
まあ構わないけど、と言って、アオイがすんなり自分の部屋を指差す。冗談で言っただけなのに……。
用心深いのか不用心なのかよくわからないやつだ。
まあ、構わないなら遠慮なく探索させてもらうが。
アオイの部屋はリビングの隣にあった。扉を開けると、学生鞄や教科書、ノートの類がびっしりの勉強机や、小学生のとき使っていたであろう裁縫セットや彫刻刀セットが乱雑に詰め込まれた三段ボックスや、枕元にぬいぐるみが置かれた薄ピンク色のベッドや、サンリオのシールがベタベタ貼られた衣装ケースが目に飛び込んできた。うおおおおおおおお……。想像以上の実家感に、ちょっと、クラクラしてしまう。勉強机なんて、これ、小学校に入学するとき買ってもらったやつだろ……。世界地図が挟まったデスクマットにシールの跡とかめっちゃあるもん。やべぇ……。この雰囲気、めちゃくちゃ懐かしい……。って、ぎゃあああ、小さいときの遠足の写真とか飾ってある! これ本当に見ても大丈夫なやつなのか……? 入室を許可されたはずなのに、罪悪感が半端ない……。
と、勉強机でも一番目立つ棚に、カラフルな便箋がいくつも差さっているのが目にとまった。
勉強道具ばかりの机で、そこだけ、あからさまに毛並みが違う。
いやでも流石にこれは……と、私の理性が叫ぶが、私の理性はよわよわなので、気がつけば何食わぬ顔で便箋をひとつ手に取り、差出人を確認していた。
東京。
東京から来た手紙だ。
あいつ、東京に知人なんかいたのか……?
しかし、消印の日付が随分と古い。
他も差出人は同じなんだろうか、と、別の手紙に手を伸ばそうとしたところで、料理ができたわ、とアオイの声がして、私は慌てて便箋を元に戻した。
13
アオイの作った麻婆茄子は、自信があるというだけにかなり本格的な四川風で、大変美味だった。
「今日は、なんか、色々ありがとな」
「こちらこそだわ。これで貸し借りはなしね」
玄関先でそんなセリフと共に見送られ、私はアオイの家を後にした。
あたりはすっかり暗くなっていた。
頭上を見上げる。
プラネタリウムで眺めたような星々の姿はない。
トラックの明かりが行き交う道路沿いをとぼとぼ歩いていると、突然、スマートフォンが着信音を鳴らした。
「あなた、今、どこにいるの」
電話に出た途端、厳しい口調で問い詰められる。
「……えーと」
私は久しぶりの通話で勝手がわからず、しばらくフリーズする。ようやく出た答えは「関西……?」という、ひどく曖昧なセリフだった。
「そんな説明で伝わると思っているの」
怒られた。
私は迷った末、
「神戸です」
と、正直に答えることにした。
「なんでまたそんな場所に」
「なんでって……それ言わなきゃダメですか?」
「つまり言えない事情があるわけね」
「いや……なんか、別に「はっきりしてちょうだい」
私の要領を得ない返答に、相手の苛立ったセリフが被さる。
時間の流れがまるで違う、と思った。
この島と、東京では。
とても追いつけない。
「わかったわ」電話の向こうで、相手が勝手に合点した。「あの子のことを放って、逃げ出したわけね。あなたの気持ちはその程度だったわけね」
それはわかりやすい挑発のセリフ。
電話の主は、あいつの殺人現場を一番はじめに発見した女……三人いる恋人のうちのひとりだった。
「逃げるも何も」私はまごつきながら答える。「あいつはもう死んだんですよ」
「まだ犯人は捕まってないわ」相手がすかさず言い返す。「終わってないのよ」
「……そういえば、あの、胡散臭い名探偵いたじゃないですか」
「いたわね」
「あいつ、どうなりました?」
「死んだわ」
「は、え?」
「死んだわ。殺された。あの子とまったく同じ状況で。つまり、鍵のかかった部屋で、バラバラに解体されて、首だけ持ち去られて」
「え、なんでですか」
「知らないわよ」
私はしばし、言葉を失う。
死んだ? 殺された? 間違った推理を意気揚々と披露してきた、あのクソ名探偵が?
頭は悪かったけど、根は良いやつそうだったのに……。
「事件は終わってないのよ」
電話口であいつの恋人が繰り返す。
「だから早く戻ってきなさい。東京に。あなたがあの子を本当に愛していたというのなら、一緒に真犯人を探し出しましょう。復讐しましょう。それがあの子への一番の弔いになるのよ。わかっているでしょう、あなたも」
私の返事を待たず、電話は一方的に切られた。
14
しかし私は東京に戻らなかった。島のなかで、本を読んだり、橋の下でアオイと雛の巣立ちを見守る生活を続けた。
「まだいたの」
「そろそろ戻るよ」
眉をひそめるアオイの隣に腰をおろし、私はタバコに火をつける。
こんなやりとりも、もう何度したかわからない。
「結構大きくなってきたんじゃないか?」
煙を吐く。
「ええ、そうね」
アオイが頷いた。
雛は最初のころより、ひとまわりもふたまわりも成長していた。
あの調子なら、巣立つ日もそう遠くないだろうと思われた。
対して、私の感情はあいかわらず、ぼんやりとしたままだった。怒りも悲しみも沸いてこなかった。
やっぱり鬱なのかも。
試しに調べてみたら、島の中央に大きな医療センターがあった。
でも島の人間でもないのにそこの心療内科に通うのはなんだかバカらしく、結局、私は、進展も後退もない日々をただやり過ごすのだった。
15
しばらく雨でホテルから出られない日々が続いた。
なんでも、台風が近づいているとか、なんとか。
私はここぞとばかりに図書館から拝借してきた小説の世界に入り浸った。
最近のマイブームはミステリ小説で、小説のなかの名探偵は現実のそれとは異なり、見事な論理で大勢の容疑者のなかから真犯人を言い当てたり、あっという方法で鍵のかかった部屋をこじ開けたり、一見すると無関係に思えるファクターを華麗に繋げてみせたりしていた。
読んでいくうち、たしかに、こういうのに憧れたくなる気持ちはわかるな、と思った。
快刀乱麻を断つ姿はかっこいい。
たったひとつの真実を突き詰める姿勢には、なんというか、人間の根源に関わる何かを刺激する力がある。
きっと、曖昧なもの、不可解なもの、どちらでもないもの、わからないものを、そのままにしておけるほど、人間は強くないのだろう。
だからフィクションでは名探偵なんてものが求められるのだ。
そうして、ようやく嵐が過ぎ去り、天気がカラッと乾いた午後。
私は久しぶりに橋の下へ向かってみることにした。
橋の下にはアオイがいた。
しかし、いつもと様子が違う。
棒立ちのまま、足元をじっと見下ろしていた。
「……アオイ?」
後ろから声をかけると、私に気づいてアオイが顔をあげた。
「私が来たときにはこうだったの」
いつも通りの、抑揚のない声。
アオイの足元に目をやると、なぜか、地面が真っ赤に汚れていた。
そしてその中心には、ぐちゃぐちゃに踏み潰されて、ハンバーグでも作るみたいにこねて丸められた、肉団子が放り捨てられていた。
なんのつもりか、テッペンに一本だけ、羽が突き立てられている。
「これって……」
その羽が意味するものを理解し、言葉を失う。
「雛でしょうね」
見上げると、主を亡くし、その存在価値を完全に失ってしまったツバメの巣が、寒々しく海風に吹かれていた。
「誰がこんな……」
「知らないわよ」
私はハッと気づく。
プラネタリウムに向かう道中で発見した、イルカのアクリル版。何十枚もあるそれの、瞳のうえに擦り付けられた無数のガムたち。イタズラにしては異様な光景。
「……あれをやったやつが、犯人なんじゃないか」
「かもしれないわね」
しかし、アオイはあくまで平然とした態度のままで、
「いずれにせよ、もう終わったことよ」
と告げた。
「終わったことって……」
「これでようやくあの巣を壊せるわ」
アオイはいつの間に準備していたのか果物を収穫するような長いマジックハンドで器用にツバメの巣を剥がすと、それを海に放り捨て、さっさとその場を後にしてしまった。
16
次の日。橋の下にいっても、アオイの姿はなかった。
次の日。橋の下にいっても、アオイの姿はなかった。
次の日。橋の下にいっても、アオイの姿はなかった。
次の日。
東京に戻らないと、と思った。
17
「まだいたの」
玄関先で、アオイはそう言っていつものように眉をひそめた。
今日のアオイは、学校指定のジャージに身を包み、髪は雑にツインテールにして、サイズのあっていないメガネをかけていた。
「明日、帰るよ。東京に」
私が答えると、アオイは、そう、と、無感動に頷いた。
「それはよかったわ。お元気でね、ミチさん」
抑揚のない声であっさり別れの言葉を告げられる。
私はそのことに一抹の寂しさを覚えながら、
「……あー、でさ、よかったら、最後に飯でも行かねぇ?」
おそるおそるそう尋ねると、アオイはこれまたあっさりと頷くのであった。
18
ホテルの最上階にレストランがあることは知っていたが、実際に足を運ぶのは初めてだった。
私たちは窓際の、島を一望できる席に通された。
「本日はお招きいただきありがとうございますだわ」
アオイがわざとらしく恭しい態度で頭を下げる。
「そんなドレス持ってたんだな」
「母親のものを勝手に着てきたわ」漆黒のドレスを見せびらかし、アオイが言う。首元にはパールのネックレスが光っていた。「よくわからないけど、大人ってこういうときには洒落込むものなのでしょう」
「…………」
Tシャツにジーンズ姿の私は何も言えなかった。
「ちなみに、今日は財布は持ってきてないから。よろしくね、ミチさん」
「……貰いっぱなしは嫌なんじゃないっけ?」
「大人には甘えられるうちに甘えとけっていう、ミチさんの教えに従うことにしたの。至言ね、あれ」
「さいですか」
……まあ、もちろんお金は初めから私が持つつもりでいたけど。
しばらくしてやってきたウェイターに飲み物を尋ねられ、アオイが堂々とスパークリングワインを頼むので驚いた。
「……未成年が一丁前に酒なんか飲むなよ」
ウェイターがいなくなった後、私は声をひそめ、大人として忠告する。
「大丈夫よ。家でもたまに飲んでるし」
「そういう問題じゃ」
「それに、私、こう見えて、もうお酒を飲める歳なのよ」
「……え、嘘。アオイっていくつだっけ?」
「十四」
全然大丈夫じゃなかった。
「よく疑われなかったな」
「堂々としていれば、案外、どうとでもなるものよ。真実なんて」
なんて話していると、飲み物とコース料理の前菜が運ばれてきた。
ちなみにコースは魚料理メインのものを選んだ。
あんなことがあったあとでは、とても、肉料理は食べられそうにない。ハンバーグなんか出てきたら最悪だ。
「傷は治ったのかしら」
名前もわからない複雑なサラダをもしゃもしゃ食べていると、アオイが唐突に訊いてきた。
「ほえ?」
「だって、ミチさん、傷心旅行だったんでしょう」
「……ああ」
そっか。
そういえば、アオイにはそう伝えていたんだった。
「うーん、どうだろうねぇ。なんか、本当に傷があったのかすらも、今となっては自信が持てないや」
「そういうものなんじゃない?」アオイがグラスに口をつける。飲み慣れているというのは本当らしく、その姿はわりと様になっていた。「だって、別れなんて、よくある話だもの」
「まるで経験があるみたいな言い方だな」
「あるわよ。ここに住んでいれば嫌でもね」
「へぇ?」
「この島って、人が定着しないのよ。出ていくばかりで。たまに人がやってきたと思っても、すぐにどこかへ引っ越してしまうわ」
「そりゃまた。ずいぶん寂しい話だな」
エビや貝類がふんだんに使われたトマトスープが運ばれてきた。
そういえば、この島に来てから、魚類を食べるのは初めてかも、とそんなことをぼんやり考えた。
「仕方ないわ。だって、ほとんどの人やトラックや船にとって、この島はただの経由地点なんだもの。そういう前提で作られた島なの」
アオイが窓の外を見下ろし、淡々と説明する。
眼下に広がっているはずの、長い長い車道や島を囲う海原は、今は、夜の暗闇にずしんと沈んでいた。
ちかちかと、島を行き交うトラックや船の明かりが瞬く。
すべての明かりが、ここじゃないどこかを目指して移動を続けている。
アオイの大きくて深い藍色の瞳が、そんな明かりの数々を反射させていた。
「じゃあ」私はふと気になって訊いてみた。「アオイにとっては、この島って何なの?」
「生まれ育った場所」
ひどく当たり前の答えが返ってきた。
ひどく当たり前で、だからこそ、やっぱり寂しい話だな、と思う。
「他にはいないのか? その、アオイみたいに、この島で生まれ育った子は」
「いたわ」アオイがエビにがぶりと食らいつく。「もういないけど」
「その子はどこへ?」
「東京よ」
東京。
私は、アオイの部屋で見つけた、色鮮やかな便箋の数々を思い出す。
「うーたんって言うの。愛嬌があって、みんなから好かれてるような、本来、私が苦手とする部類の子だったけど、なぜか彼女とだけはすぐに仲良くなれたわ。島で生まれ育ったもの同士、惹かれ合うところがあったのかもしれないわね」
「スタンド使いみたいな話?」
「? 何の話?」
通じなかった。
使い古された例えだけに、妙に恥ずい。
「今でもその子と連絡はとってるの?」
「ミチさん」アオイが怪訝な目を向けてくる。「なぜ、そんな、うーたんのことが気になるの」
戸惑う。
なぜ?
……なぜだろう?
自分でもわからなかった。
——ミチちゃんって、わかんないばっかだよね。
あいつの言葉が脳裏をよぎる。
「はじめの頃はしょっちゅう手紙が来てたわ」アオイがつまらなさそうに答えた。「半年くらいでパタンと届かなくなったけど」
「それって」
「でも、そういうものでしょう?」
アオイに問われ、私は何も言い返すことができなかった。
19
先日の雛のこともあるので、アオイを家まで送り届けることにした。
というのは言い訳で、ただ単に、この少女との別れを先送りしたいだけなのかもしれない、と思う。
「それじゃあ、今度こそ本当にさようならね。ミチさん」
玄関先でアオイが告げた。
「ああ。おかげで楽しめたよ。ありがとな」
「恋人にフラれたときはまた来るといいわ」
「……そうならないように励むよ」
そうしなさい、と言われ、私たちは本当の本当に別れた。
最後まで抑揚のない声だった。
アオイの家を離れ、いつかと同じように、ひとり、道路沿いをとぼとぼと歩く。
東京。
そうか。
私、明日、東京に戻るんだ、という実感が、ようやく湧いてきた。
もう待つ人もいない東京に。
……いや、いるにはいるか。あいつの恋人は、今でも、殺人事件の犯人を必死こいて探しているのだろう。私の前に現れたニセモノの名探偵のように。あるいは、小説のなかに登場するホンモノの名探偵のように。
東京に戻れば、嫌でも私も巻き込まれるのだろうな、と思う。
それはめんどいなぁ。
私のなかには、あいかわらず、事件をどうこうしたいという感情が欠落していた。
だって、もう、終わったことなのだ、と考えて、そっか、私もアオイと似たようなもんか、と気づく。それがちょっとおかしかった。
アオイ。
この島で生まれ育った少女。
あの子はこれからどうするのだろう?
誰もいない島で、何もかも諦めて、そのまま大人になるのだろうか。
私がどうこう言える立場ではないと頭では理解しつつ、しかし、どうしても彼女のことを考えてしまう。
トラックが後ろから私を照らし、そのまま走り去って行く。
物流の島。
物が流れる島。
すべてがここじゃないどこかへと運ばれて行く島。
あのトラックも、荷物を運ぶためだけにこの島に来て、そして、またどこかへ行ってしまうのだ。
私だってそうだ。
荷物と一緒にこの島に運ばれてきて、そして、何食わぬ顔でまた東京へ戻るのだ。
この島からは何も減らないし、足されることもないのだ。
もともと何もない場所だから。
これでよいのだろうか? という考えが、頭をもたげた。
あいつの事件は、私じゃなくても、きっと、いつか誰かが解決するのだろう。だって、私の他に、あいつには、あとふたりも恋人がいるのだ。あいつにとって私は唯一無二じゃなかったのだ。
でも、アオイには。
あの子には、私にしかできないことが、まだ何かあるんじゃないか?
20
「なんでまだいるの」
玄関先で私の顔を見るなり、アオイが呆れたようにつぶやいた。
まあ、そりゃそうなるか。
なんていったって、昨日の今日なのだから。
「もう次の恋人にフラれたの?」
「バカ言うな。やり忘れたことを思い出したんだよ」
何よそれ、と不審がるアオイを無視して、私は、外へ出るから支度しろ、と一方的に告げた。
アオイは渋々といった様子ではあるが素直に従い、しばらくして、いつものワンピース姿で現れた。
「どこへ行くのかしら」
「いいところ」
「それって、誘拐犯の常套句よ」
「……まあ、歩こうぜ」
外は眩しいくらいに晴れ渡っていた。
太陽の光がジリジリと私たちの肌を焼く。
大きな大きな車道。
のわりには狭い歩道。
走りやすさだけを考えて設計された街。
地平線の果てがゆらめいて見えた。
真っ白な雲がもくもくと浮かんでいた。
あの雲の下には港があって、今日も多くの船が大量の荷物をおろしてはどこかへ消えていくのだろう。
私はアオイの手を引きながら歩いた。
小さな手は体温が高くて、うっすらと汗ばんでいた。
言動が大人びているだけで、まだ子どもなんだな、とあらためて感じた。
「ねぇ」抑揚のない声。「本当にどこへ行くつもりなの? 私、嫌いよ、こういうのは」
「アオイはさ」
「何よ」
「このままでいいと思ってるのか?」
「……どういう意味かしら」
「うーたんのこと。いや、それだけじゃない。他の色々なことも、たぶん、全部含めて。ツバメの雛のこともそうだし、この島のことも、すべて」
「言ってることがわからないわ」
「だって、友達だったんだろ?」
アオイの手がきゅっと固くなる。
「なら、ちゃんと確かめに行こうぜ」
そうだ。
私は……なんというか、この少女に、そんな簡単に、諦めてほしくないのだ。
人との繋がりを。
関係を。
そういうものだからと、あっけなく認めてほしくないのだ。
「一緒に東京に行こう。うーたんに会って、ハッキリさせよう」
「呆れたわね」アオイがため息をこぼす。「本当に誘拐犯じゃない」
「ああ」私は握りしめる腕に力を込める。「それでいいよ」
「……いやよ」
アオイが足を止めた。
「今更、別に、会いたいとは思わないわ」
「じゃあ、なんで手紙なんか大事に取ってるんだよ。それって、まだ諦めきれてないってことじゃないのかよ」
「見たのね」
「住所はしっかり覚えた」
その手を引き、無理にでも歩かせようとする。
しかし、アオイは頑としてそこから動こうとしない。
私たちは歩道の中心で膠着する。
背中に、ひとすじの汗が流れるのが、わかった。
「なんでミチさんがそこまで一生懸命になるの」
アオイが言う。
その声には普段の余裕は感じられなくて。
「私がもういいって言ってるんだからそれでいいじゃない」
「ダメだ。ハッキリさせるんだ。そのためにこの島から出るんだよ」
「……なぜなの?」
焦り。
苛立ち。
怒り。
懐疑。
それらがすべて込められた瞳。
近づこうとすると、来ないで、と鋭い声が飛んできた。
アオイが背を向け来た道を戻ろうとするので、慌てて腕を引き、その小さな身体を繋ぎ止める。
「離してちょうだい」
「嫌だ」
「駄々を捏ねる子どもみたいよ、ミチさん」
「子どもはそっちだろ」
「最低」
脛に激痛が走る。
「ちょっ……! 蹴りは禁止だろ」
「金的目潰しなんでもありよ」
そう言って、アオイが私の腕に勢いよく噛みつこうとしてくるのを、寸前のところで避ける。
アオイとの距離が縮まる。
好機。
しかし、私がアオイの頭を掴もうと腕を伸ばすよりも先に、さっと後ろに逃げられた。
そのまま力づくで腕を振り払われそうになるのを、なんとか堪える。
くそう……。
十四歳と体力で勝負するのは分が悪すぎる……。
「どうしてそこまでして私を連れ出そうとするの?」肩で息する私を、アオイが睨みつけてきた。「ハッキリさせるって何を? 曖昧なものを曖昧なまま、わからないことをわからないまま、思い出を思い出のままにしておくことって、そんなにもいけないことなの? 誰かひとりをいつまでも想い続けなくちゃダメなの? それって誰が決めたの? 私の心をなぜ勝手に決められなくちゃならないの?」
「だって、許せないだろ」
気がつけば私まで叫んでいた。
「勝手にいなくなって、勝手に突き放して。もっとずっと一緒にいたかったのに。いつまでもふたりだけでよかったのに。あっちは全然そんな風に思ってなかったなんて。私だけの一方通行だったなんて。勝手な思い込みだったなんて。何度も言った好きがこれっぽっちも届いてなかったなんて。そんな事実だけ突きつけて消えるなんて。もうどうしようもないなんて。取り戻せないなんて。そんなの、許せるわけないだろ……っ」
「……ミチさん」アオイの身体から、ふっと、力が抜ける。「誰の話をしてるの?」
その拍子に、手のひらがするりと滑って。
「え?」
バランスが、
崩れる。
「あ」
アオイの、ひどく焦った顔が視界に飛び込む。
……そんな表情もできんのかよ。
そう思った直後、私は勢いよく後ろに倒れ、そして意識を失った。
21
目覚めると知らない天井……ではなくて、私を見下ろすアオイの無表情な顔があった。
起きあがろうとして、後頭部に痛みが走る。
「まだ動かないほうがいいわ」アオイがつぶやいた。「笑っちゃうくらい派手にズッコケったんだもの」
「ズッコケって……」
なんて間抜けな響き……。
「え、ていうか、これ、どういう状況?」
後頭部の柔らかな感触に気づき、尋ねる。
「傷は人肌で温めるのが一番だって聞いたことがあるの」
「それって本当に正しい医学知識?」
なぜか私はアオイに膝枕されていた。
「でも気分は安らぐでしょう」
「……まあ、多少は」
こうして人肌を感じるのなんていつ以来だろう、と、そんなことをぼんやり考えながら、しばらく膝の感触を味わっていると、アオイの手のひらがそっと私の前髪に触れた。
「うーたんのことだけど」優しく撫でられる。「本当に、もういいの。信じてもらえないかもしれないけど。でも、本当なの。きっと人の心って常に移ろい続けるの。ひとつに留めておくことなんてできないの。私も、他の誰かも、みんな。そういうものだと納得したの」
「……うん」
撫でられるがままにされ、私は瞼を閉じる。
不思議と、晴れやかな気分だった。
自分の気持ちを吐露したことで、私は悟ったのだ。
私はちゃんと怒っていたのだ。
でも、その怒りの矛先は、あいつを殺した誰かじゃなくて、あいつ自身に向かっていたのだ。
そのことを認めたくなくて、私は私の感情に自分で蓋をしていたのだ。
でも今、認めた。
だからこの話はこれで終わりなのだ。
「それにね」
アオイが続ける。
「私、この島のこと、嫌いじゃないのよ。色々な人が来ては去って行って。移動を続けて。星空みたい」
「うん」
頷き、瞼を開ける。
大きくて深い藍色の瞳のなかには、私の姿がしっかりと映っていた。
22
「だから、なんでまだいるのよ」
久しぶりに橋の下に顔を出すと、驚くことにアオイがいた。
いつもの純白のワンピース姿で、髪の毛は、今日は、頭のうえでふたつ、お団子にしてまとめている。
私は眉をひそめるアオイの隣に何食わぬ顔で腰をおろすと、タバコに火をつけた。
「実は」数日ぶりのニコチンが身体に沁みる。「入院してたんだよね」
「タバコの吸いすぎで肺でもやったのかしら」
「バカ言え。頭の病院だよ」
「……バカの治療ってこと?」
「テメェ……」
あのあと二、三日しても後頭部の痛みがまったく引かないので流石に怖くなり、島の医療センターへ駆け込んだらしばらく様子見で入院することになったってだけだ。
「アオイこそ、何してんの、こんなとこで」
「……あれ」
うんざりした顔でアオイが指差す先には、新しいツバメの巣があった。巣のなかで、まだ小さな雛たちが騒がしく鳴いている。
「……しぶといねぇ。何、あれも壊すの」
「もう諦めたわ。キリがない」
「そっか」
「ミチさんは」
「うん?」
「いつ、東京に戻るのかしら」
煙を吐き、私は答える。
「そろそろ戻るよ」
本当かしら、と、アオイが疑わしげな目で私を見つめる。
私は曖昧に微笑み返す。
本当のところは私にもよくわからなかった。
でも、なんだか、それでもいいやという気持ちです。
今。
了
いとうくんのお洋服代になります。