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メイク男子とパンツスタイル女子

ちょっとだけ、考えてみてほしい。

あなたの周りに、ぬいぐるみとか、シールとか、そういう「かわいいモノ」を好むような男子はいないだろうか。
力が弱くて、泣き虫な男子を見たことはないだろうか。

あなたの周りに、ショートカットだったり、ノーメイクだったり、そういうスタイルを選ぶ女子はいないだろうか。
どこか乱暴で、口が悪い女子はいないだろうか。

人付き合いを避けて生きてきたのでなければ、こうした例を少なからず目にしたことがあるだろうと思う。

そんなとき、彼らに「男のくせに」とか「女なのに」などと言う人がいる。
口にしなくても、心のなかで思う人がいる。彼らの中には「男は◯◯であるべき、女は◯◯であるべき」という偏見がある。

こうした性別に対する偏見から人を解放しましょうという運動が、昨今叫ばれて久しい。

さてそう考えると、性別の偏見に対しては真っ向から衝突することになるはずのLGBTQ+。

彼らの世界は、さぞやこうした偏見のない、自由な環境だろう。

本当に、そうだろうか。

そんなことはない。

いやむしろ、ジェンダーに対する偏見は一層激しい。少なくとも、私はそう感じている。

定期的に取り沙汰されるゲイのミソジニー問題。ゲイコミュニティーでは、女性蔑視を前提とした意識を持つ層が非常に悪目立ちしている。おかげで「それはひどいよ」と思っている人も、仲間はずれにされると怖いから黙っておく、なんてことがあったりする。

それから、トランス男性やトランス女性の間では、ジェンダーのステレオタイプを必死に再現しようとする人も多い。簡単に言えば「トランス男性は男らしく」「トランス女性は女らしく」振る舞おうとするの。そうしないと、たちまち「偽物」扱いされるから。

メイクやネイルが好きな男性だっている。ファッションよりもビジネスに興味がある女性だっている。

几帳面で、いつでもキレイに片付けないと気が済まない男子もいる。整理整頓しなくたって困らない女子もいる。

繊細で、感情豊かな男性もいる。細かいことにうろたえず、理路整然とした考え方を持つ女性もいる。

さみしがり屋で、いつも誰かと一緒にいたい男子もいる。独立心が強く、自分の力で何か成したい女子もいる。

トランスだって、同じはずだ。

「私はトランス男子だ」ではなく「私は男だ」と思っているはずなのだから。

「私はトランス女子だ」ではなく「私は女だ」と思っているはずなのだから。

そこにシスジェンダーとの違いなんてない。

だからメイクを好むトランス男性も、パンツスタイルを好むトランス女性も、偽物扱いされてはならないはずなのだ。

けれど、現実はそうじゃない。

当のマイノリティ同士でも、こうした偏見の目線が交わされている。生きづらさを感じてきたはずの人たちが、まるでお互いを監視するかのように。マッチョイズム、ミソジニー。性に奔放なイメージと、まるでそれに応えるかのような下ネタの応酬。

なんだろう、この息苦しさは。

私には実態を知ることができないけれど、レズビアンの世界にはこうしたことはないのかな? 「男社会」だからおこること?

でも、マジョリティの女性コミュニティを見るにつけ、女性の間ではこういう類の偏見がない、などとはとても思えない。

それは男社会が積み上げてきた意識のせいだ、と言われると一理ありそうな気がするけれど、やっぱりそれだけじゃないとも思う。

「らしさ」からの自由は、どこにあるんだろう。

「コスメを手に入れたこと」を「女性性を勝ち取った」かのように語るマイノリティと、その素敵な物語に感動する人々を横目に見つつ、そんなことを考える。

そこで、改めて思った。「らしさ」を演じる、いわゆる「ジェンダーロール」は、もしかすると、絶対悪ではないのかもしれない。

みんな、何かのロールを演じていたいものだ。
男らしさか、女らしさ、Xらしさ、どれかのラベルが欲しいものなのだ。
身に付けると安心する。心の支えになる。いま私、男らしいぞ、女らしいぞ。
そう思えるのは、とてもホッとすることなのだ。

自分が本当に欲しいラベルに手を伸ばせずにいる私には、それがよくわかる。ラベルをつけられない私は、とても、とても心細い。

「らしさ」が失われた世の中で、人は何をたよりに生きていくのだろう。

「女子力高いね」と言われると嬉しくなってしまう私。私にも、偏見があるのだ。

息苦しさを味わわずに、自分のラベルにホッとしていたい。そんな都合の良い未来がくると良い。

本当に、そう願ってやまない。


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