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腹鳴恐怖症だった私と吃音症の娘NO.145 吃音症の娘が中学生になる前にやっておきたいこと。

吃音のある娘は、4月から中学生になる。

1月の末には、中学校の入学説明会が行われたばかりだが、制服の採寸や、先生の説明などで、すっかり安心していたのだけど、そうもいかないかと思う今日この頃。

最近の娘を見ていると、卒業まで学校に行く日は、23日しかないのだけど、ここのところ、休みたいと思う日が何日もあった。

その事から、いくら考えないと言っても、この状況では、今まで通り、吃音者に対する配慮をしていただけるように、病院からも、学校側にお願いをしてもらおうと、私は母親としてここ数日、考えていることである。

普通の人、一般の人、生きづらさをほとんど抱えてない人という、この表現がどうなのかは分からないが、そういう方々には、吃音症で、学校を休みたい、本当は休まず学校へ行きたいが、足が動かないというようなことが、恐らく、『甘えている』と思われることは少なくないと思う。

しかし、このことは、決して甘えとは違う、確かに、誰だって、学校や会社を休みたい、ということはある、しかし、色々考えて、よし!と行けるのだと思う。

もちろん、娘のように、それができなかったり、とても行きたくないと、深い気持ちがあれば、精神がやられてしまうと私は思う。

私が悩んできた『腹鳴恐怖症』、娘と同じ『吃音症』の人が、少しでも悩む時間が少なく、考えすぎず、心が軽くなればと思うし、若者には、私みたいに、一つの症状のために、囚われ、このことで、人生を無駄にしてほしくないと思っている。

私はかなり無駄にしたと、昨年の3月までは思っていた。
しかし、今の私は、その『腹鳴恐怖症』があったからこそ、人の痛みというものも少しは考えられたり、人に少しでも寄り添い、優しくできたりするのではないかと思う。

ふじわら先生に学んだ素敵な言葉がある。

『症状や悩みは自分を輝かせるギフトである』

この言葉を、学んだ頃は、まだしっくりきていなかった。

しかし今は、私の今までの人生、『腹鳴恐怖症』があったからこそ、輝いている。
いや、輝いているとまでは、正直今のところは到達していないのだけど。

正直なところ、お腹の音は、色々な環境の変化でまた、気持ちの浮き沈みが色々ある中、3歩進んで2歩下がっている状態だ。
鳴るには鳴る、それは自然現象で仕方のないこと、ただ、考える時間はうんと減ったのには間違いない。

恐怖という意味では改善されている。

『腹鳴恐怖症』と『吃音症』どちらも、過去への囚われであり、考え方は似ている。
そして、生きづらさを抱えている人の考え方も似ているのだと思う。

娘の吃音に対し、全く心配がないわけではないが、物事も前向きに捉えることができるようになり、もちろん、『なるようにしかならない』ということは良くわかっている。

その場その場で対処していくしかない。
しかし、今までの流れでわかっていることは、吃音者に対しての配慮をしていただくしか、吃音の娘が、少し休みながらでも、中学校に行ける道は無いと、よくよく考えると、そうだろうなと、一番側で娘のことを見ている私はそう思うのである。

今、吃音症の娘の為に出来る精一杯のことを、今、私はやろうとしている。

症状や生きづらさ、悩みを、理解という意味では人それぞれで、なかなか理解されにくいということも多い。

しかし私は、少しでも、症状や生きづらさを抱えている人の心が軽くなり、前向きに、存在価値という意味で、与えられた今ある環境の元、幸せに輝けることは可能ではないだろうかと思う。

一度きりの人生、やはり、自分の思うように生きていきたいと、51歳にして、強く思えるようになった。

今ある現状を受け容れ、前に進みたいと思う。

今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました^ ^




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