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泣き虫なわたしが、流し打ちの二塁手になり、活字中毒者になり、能力主義に絡め取られ、ITエンジニアのキャリアを捨てて、還暦を前にソーシャルワークを目指すわけ

昨日(2021/08/22)、認定NPO法人PIECESさんのCitizenship for Children 2021のゼミに、チューターとして参加して、ビーンズふくしまのアウトリーチ事業を行っている山下仁子さんのお話を聞きました。


ある少女が教えてくれたことと、わたしの号泣

山下仁子さんは、「アタマではなく、心で応える」支援を実践されています。質疑応答で「山下さんが心で応えるようになったきっかけがあったら教えてください」という問いが場にあらわれ、山下仁子さんは「これはあまり話したことがないので、うまく喋れるかどうかわからないけれど、話してみますね」と、少し長い自分語りをされました。
この美しく悲しいお話は、いつか、山下仁子さんの許可をいただいて書きたいと思います。概要だけ触れておくと、山下さんが関わったある少女が、親のマルトリートメント(不適切な養育)から逃れようとして、逃げきれなかったというストーリーでした。
その関わりにおいて山下さんは、マニュアルを参照しつつ、自分で考えて、これが正しいであろうと思う行動を選択し続けました。けれども、結果としてそれらの選択は、この少女に山下さんが「アタマ」で応えたことであって、心で応えたなら、別の行動を選択し得たであろう、と山下さんは学びほぐしておられました。そして、これを契機に自らの行動を変えることで、その少女が教えてくれたことに応えている。それが「アタマではなく、心で応える」という言葉に集約されるのだ、ということでした。
わたしはチューター兼ゼミの裏方として、この自分語りをリアルタイムでメモ録りしていました。少女のストーリーの幕切れの一言をメモ書きして、一拍おいて・・・。わたしはZoomでカメラがOnになっているのも忘れて、号泣していました。Zoomが音声Muteになっていたのは、幸いでした。
泣き止んだあと、わたしは自分が号泣したことには、自分の中に理由があるのだろう、と思い、そんなこともCforCの仲間に話したりもしていました。
そして翌朝(イマ、ココ、です)。その理由が立ち現れた気がして、この記事を書いています。

わたしが惹かれるストーリーたち

CforC 2020の仲間、Yukaさんが書いたストーリーがあります。

わたしの年齢のほぼ三分の一の大学生ですが、同じCforC 2020で学んだ仲間であり、今もまだ、共に学び続ける仲間です。わたしはYukaさんのこの告白、自己覚知の素晴らしさに感銘を受けました。そして、「いまは自分のインナーチャイルドの蓋は固くて開かないけれど、いつか、ちゃんと蓋を開けて、あなたの背中を追いますね」とYukaさんに話しました。今年の1月のことでした。
わたしが彼女のストーリーに惹かれる理由。
あるいは、高校の同級生で机を並べていたこともあった藤野千夜の小説に惹かれる理由。
「いてよし」という言葉を生んでくださった木皿泉さんのシナリオや小説に惹かれる理由。
それらがみんな、今朝はつながった気がします。
『孤独』。

山下仁子さんが語ってくれた14歳の少女が、自分の中に抱きしめていた底なしの『孤独』。それに似たような『孤独』が、自分の中にもある。だからこそ、『孤独』を抱えて生きているストーリーにわたしはどうしようもなく惹かれ、心が震えるのではないか、というのが、今朝の見立てです。
2014年に出会った師が、「あなたは何を為したいのだ」という問いを授けてくださり、「わたしには為したいことは無いけれど、子どもの貧困、特に教育格差の世代間連鎖だけは嫌だ」と感じて、そこから7年。ITエンジニアであり、営利企業の企業人であることを辞めて、ソーシャルワークの道を進むことになった自分の中の源泉は、自分が子どもの頃に感じていた『孤独』にあったようです。

わたしがかつて活字中毒で、イマも流し打ちの二塁手で、能力主義に絡め取られた理由

わたしは、小学生の高学年の頃から、主に小説読みの活字中毒者でした。司馬遼太郎などを読む、ちょっとマセた子どもでした。
わたしは、子どもの頃から、流し打ちの二塁手でした。実は今も、流し打ちの二塁手です。子どもの頃、土井正三が好きだと思っていましたが、これは心が震えるようなスキではないです。
わたしは、社会科や算数が好きで得意でした。子どもの頃、学校の勉強はほとんど苦労せずにできましたし、東京のいわゆる有名私立中学を受験して進学することができました。

これらのことは、すべて、わたしの母の好むこと、でした。母は、勉強が好きでした。特に国語が得意で、好きでした。伝説の流し打ちの名二塁手、千葉茂が好きでした。

わたしの母は、非嫡出子としてわたしを産みました。父が母と籍を入れ、父がわたしを子として認知したのは、生まれてしばらく経ってから、でした。そして、そのとき父には、一緒に住んでいる別の相手がおり、その後もわたしの母やわたしと一緒に住むことは、一度もありませんでした。
母はわたしに、「お父さんは出張に行っているのだ」と、ありきたりな拙い嘘をつき続けましたが、わたしはそれが嘘だと、いつのころか思い出せませんが、気付いていた、と思います。
年に一度か二度、父はわたしに会い、そしてどこかへ去って行きます。
子どもの頃、アルバムに貼ってあった長津田のこどもの国で一緒に過ごした写真を見ていたのを記憶していますが、そのほかでは、遊び場であった屋上でキャッチボールをした一回だけの記憶と、あとはふたりきりで一泊、1970年の万博に行った記憶ぐらいしかありません。
わたしは、父に選ばれていない。そんなことを、子どもとして感じていたのでしょうか。そしてわたしは、「父に選ばれなかったように、いつか、母にも選ばれなくなってしまうのではないか」。そんなことも恐れていたのでしょうか。

わたしの母は、小さい頃に実母を亡くし、しばらく独り親の子ども、として育ちました。神社のお祭りの舞い手に選ばれるはずだったのに、母無し子はダメだと理不尽に断られたことを、老齢になってからも、ずっと怨みごととして話していました。また、のちに祖父が再婚した継母に、厳しく、時に理不尽に扱われたことを、悔しがっていました。
母には弟がありましたが、若くして亡くなってしまいました。
そして、自分には能力があったのに、勉強が大好きだったのに、学び続けることをさせてもらえなかった、と嘆いていました。
母は、そんな成育史だったからか、人づきあいがヘタクソな人でした。説明なしに「だれかのために良かれ」と思って動いては、人に疎まれていました。実際、彼女の「良かれ」は彼女の独善に満ちていました。他者に対して、言葉と配慮の足りない人でした。
おそらくそのせいで、母のまわりには人が少なく、わたしは、母と向き合う時間が圧倒的に多かったのだと思います。母もまた『孤独』で、こどもと向き合う時間が圧倒的に多かったのでしょう。
無力だったわたしは、いつか、無意識に、母の好むことを、「自分が好きだ」と思い込むことで、この環境でうまく生きていくことを選んだのだと思います。明確な虐待などは無かったと記憶していますが、一風変わった『孤独』な大人である母の支配下にあったことは、確かだと、今は思います。
小学校でわたしは、泣き虫で有名でした。すぐに泣きました。なんで泣いていたのか、これまで「わからない」と思っていました。でも、なんのことはない。単に、寂しかったのです。とても、寂しかったのです。母に合わせて生きるしかないことが、きっととても、苦しくて寂しかったのです。

小学校5年と6年の担任だった高石章子先生は、わたしをとても可愛がってくれました。同級生からすれば、贔屓じゃないか、と思うぐらい、わたしを「好ましく」思ってくれていました。わたしはいつも、小学校高学年だというのに高石先生の横にべったりくっつている甘えん坊で、泣き虫で、でも全校の生徒会の委員長になったりもする、少しアンバランスな小学生でした。
今朝はわかります。高石先生も、『孤独』な方でした。詳しくお聞きしたことはありませんが、ご兄弟やご家族との折り合いが良くはなく、たしか、生涯独身を通されたはずです。お亡くなりになったときは、施設で、かなり孤独な境遇にあられたと聞いています。
あのとき、あの教室で、『孤独』な大人と、『孤独』な子どもが、惹かれ合っていたのだ、と今朝は感じることができます。

わたしが能力主義に絡め取られ続ける理由

話は変わります。
わたしは、長く、能力主義に絡め取られていました。今もまだ、整理がつききっていません。マイケル・サンデルの実力も運のうち~能力主義は正義か~を読んで、ほんとうに痛感しました。
すべての人が、あるいは全ての生物が、いや、無生物もが、その存在を全うする「唯一無二の価値」を持っている。アタマではわかっています。
でも、時に、優れていること、より優れるようにすることに、身体や心が動く癖がなかなか抜けません。わたし自身は、たまたま今の時代に要求される左脳的な部分が悪くない形で生まれることができ、それを継続的に伸ばす環境に恵まれ、運が悪くなかったこともあって、これまでの社会人人生において、経済的にも、また心理的な面でも、大いにフィードバックをいただいて来ました。優れていないサービス、競争相手を押しのけて、彼ら、彼女らを踏みつけにして、生きてきました。
2014年の師からいただいた問いに答えた「子どもの貧困、特に教育格差の世代間連鎖だけは嫌だ」も、最初は、「能力があり、学ぶ意欲があるのに、その機会に恵まれない可哀想な子ども」に、蜘蛛の糸を垂らすような、そんなことを考えていました。「知性という社会資源」といった単語を、口にしたこともあります。
わたしの中には能力主義が厳然とあって、「優れていることのどこが悪い!」とまだ叫んでいるのです。
でも、これからわたしがソーシャルワークの道に進んだとき、優れている子ども、より優れる努力ができる子どもを、明に暗に、好ましく感じ、見て、関係してしまったとしたら、その場に居合わせる、優れていない子ども、より優れる努力をすることに恵まれない子どもに、どんな影響を与えてしまうのでしょうか。
それが、わたしが「内なる能力主義がラスボス」と考える理由です。
この能力主義をわたしの中に生み付け、育てたのは、まちがいなく母であると思います。そして、その母におもねることで環境適合した、無力な子ども時代のわたしや、その後の成長したわたしも、時にどうしようもなかったとはいえ、そのことにずっと加担し続けてきました。
でも、マイケル・サンデルが言うように、たまたま恵まれた環境にいてたまたま優れた成果を出せた人が、そのたまたま成果を出せたことを根拠により多くを獲ることを認めてしまうと、なんらかの理由で優れた結果を残せない人や、優れていることを証明する機会に恵まれない人や、そもそも優劣を競う土俵に乗ることすら難しい人びとは、つねに収奪されることになってしまいます。極端な話を言えば、サハラ以南のアフリカ大陸で貧しい母から生まれた命が、テスラの車に乗り、快適な空調の効いた部屋で最新のスマートフォンを操るようになれることが途方もなく難しく、むしろコンゴ民主共和国で、それらの最先端機器のために劣悪な就労環境で不当な対価で稀少金属を手掘りしているという、イマあるこの世界の現実を、仕方ない、と許容してしまうことになります。
CforCでの学びを経て、わたしは、わたしの能力主義に絡め取られたインナーチャイルドに、『君は、君のままで大丈夫だよ。優れていなくても、生きていていいんだよ。生まれてきてくれてありがとう。生きていてくれてありがとう。』と声をかけることができるようになりました。でも、自分のインナーチャイルドが入っている缶の蓋を開けて(開けると、胸の奥がシクシク痛みます。)、その缶の底で膝を抱えて座り込んでいるくせに、こちらを頑なな目でキッと見上げている子ども姿のわたしを見て、この言葉をかけると、自然と涙が溢れてきます。
そして、このインナーチャイルドは、まだ『他者より、より優れること』、時には『優れているように見せかける努力』を捨てる勇気を持てずにいます。

わたしのソーシャルワークに続くみち

わたしはまもなく、現在所属しているIT企業を辞め、来年初めの社会福祉士の国家試験を受験します。今は、企業に所属しつつ、貯まりに貯まった有給休暇を消化しながら、社会福祉士の相談援助実習に通っています。実習施設は、知的障害者の生活介護施設です。生活介護施設は、知的障害者が、日中の時間に共同生活を行うことによって、ADL(日常生活動作)の維持・向上、社会性の獲得をめざすことに貢献する施設です。今回、児童分野での実習を希望していたのですが、首都圏に緊急事態宣言が出ている状況下で、実習生を迎え入れてくれる児童分野の施設はありませんでした。代わりにどうですか、と、専門学校の先生が薦めてくださったのが、今、通っている生活介護施設なのですが、これはわたしにとって、おそらく運命的なことなのだと思っています。
この施設の利用者さん、単語レベルでの発語すらないかなり重度の知的障害の方が多いのですが、その利用者さんたちと共に居させていただいて、大人のわたしも学んでいますし、わたしの中のインナーチャイルドも、日々、学んでくれているようです。
発語のない方との触れあいのコミュニケーションや、ときおり見せてくださる優しく美しい笑顔は、わたしに「生きていることの意味」をリアルに、温かく、穏やかに、教えてくださいます。

わたしは、わたしをソーシャルワークの世界に導いてくれたこのインナーチャイルドとともに、ありのままのわたしらしく、この世界との関わり直しがしたいと、願っています。

この結語を書いていて、また涙がでました。この涙は何なのでしょう。探求は尽きませんね。
でも、ひとまず、筆を置きます。

インナーチャイルドを見つめるプロセスを教えてくれたイマココラボのみなさん、自己覚知のリフレクションワークを実践し、深めさせてくれたPIECESのみなさんと、CforCの仲間たちに、改めて感謝です。そして、これからの道を、まだまだ共に歩ませてください。


後日談。
yukaさんが、このnoteの記事を読んで、さらに自分を探求し、こんな記事を書いてくれました。yukaさんのインナーチャイルドと、私のインナーチャイルドが響き合っているのかもしれません。



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