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わたしとおかあさん

精神科。ヘルプマークを鞄につけたとてもやせ細った女の子と、そのお母さんと見られる人が待合室の私の向かい側に座っていた。

二人はお互いにスマホに夢中になっていたのと、女の子の身なりとは裏腹にお母さんの方は指にゴールドの指輪をいくつも重ねていたこと、女の子はお母さんの後ろをまるで子供のようについて歩いていたことに違和感に感じた。二十歳超えているであろう女の子がお母さんの付き添いとは考えにくい。

薬局に行くとまたその親子が。私がソファーに落ち着くとなんとお母さんの方がyoutubeを普通に音を出して見始めたのだ。私は離れたソファーに移動したが、頭の中で何かがぷつんとキレた。薬剤師さんに呼ばれた親子はカウンターの方に歩き出し、その時も女の子はスマホに夢中になってお母さんの後ろにいる。聞こえてくる話によるとどうやら私の知っている薬を飲んでいる。薬の説明は全部お母さんが聞き、お母さんが最近の様子を話している。きっとあの子は一人で病院に来ることができない。お母さんがいないと何にもできないんだ。それがあの親子関係では当たり前なのだ。はたから見たおかしさに早く気づけ!あの親子をぶち壊してやりたい!

私は自分を放り出しそうになって、さっき診察であれだけ調子がいいと言っていたことが悔しくて、もう一度診察に行ってしまおうか考えているうちにいつも対応してくれる優しい薬剤師さんに呼ばれ、話していくうちに燃えたぎっていた怒りは鎮火された。

私は他者の前で振舞っている自己と本当の自己が分裂していて、産まれてからずっとそれが当たり前のように過ごしていた。特に家族の前で、傷ついているのにおどけて見せたり、自分の意志を伝えるべきところであえて子供っぽく振る舞っていた。今思えばそうすることで家庭内の平穏を守っていたし、それが乱れることの方が嫌だった。今も影響を受け続けているのが、「家族(特にお母さん)の前で泣けないこと」だと思う。小学3年生の時お母さんに「嘘泣きだ」と言われて凍りつき、それ以来家族の前で泣くのをやめた。本心を信じてもらえない気持ちと、泣くという感情に含まれる、「悲しい」「悔しい」「痛い」などの本心が伝わること=一人の人間として成長が見えること、なので成長していることの恥ずかしさをなぜか感じていたのだ。だから悲しいときに、悔しいときに、痛いときに、そんなことがわからない平気で鈍感なへらへらした子供を演じていた。卒業式もお葬式も、家族がその場にいるからという理由で泣かなかった。同時にお母さんの涙も一度も見たことがない。

小さい時に私が駄々をこねて母に田んぼに置き去りにされたことがある。とは言っても近所だったので私は歩いて家に帰ったのだが、すれ違いでお母さんの方は私を探しに出かけていた。お母さんは帰って来るなり私を睨みつけて、その気まずさと言ったらとにかく憎たらしい。今でもその感じを味わうことが多々ある。一般の家庭で行われるのであろう、あるいは私の妄想だが、母親の誘導によって正しく導かれ話し合い、どんなことが起きようと最後は包容に帰ることで成長することができる、そんな教育などできない幼いお母さんに対して私はよたよたと困惑し、自らが引き起こしたこととしてこのサバイバルが終わる自然の時間の流れに頼るしかなかったのだ。そしていつの間にかもとの関係に戻っている。

子供がさらに子供づらしていることで平穏を保ったベタベタとした関係の中でのお母さんはとても優しくて大好きだった。その大好きを疑い、何が嫌だったのか、何が辛かったのか、何がしたいのか、何が好きなのか、一人の人間が本当の気持ちを本当として伝え合わないでできた空洞に足を踏み入れてお母さんに近づく勇気さえあれば、お母さんも勇気を出したかもしれない。でもそれはあまりに重すぎた。

産まれながらに病気と言われてもよかった。大人になって病名がついたことでいろんな本を読んでお母さんとの関係のおかしさに気づき、本当の自己が喋ったり行動することが大切という当たり前のことがわかった。自分が封じ込めてきた悲しみや怒り、痛みが愛おしくてこの先の人生をかけて取り戻したい。だからそんなところにいないで救い出されるべき!と私の偏った目に偶然映った病院のあの親子に、きっと私とお母さんを見たのだろう。意志のない女の子と娘に付きっきりになることで自分自身も娘に依存しているお母さんという勝手な妄想の物語をぶち壊して、私とお母さんを救い出したかった。

母と娘というだけで感じてしまう宇宙のような呪いに私たちが抗うときは、すでに全ての真理を知ったように疲れている。そのことを忘れている時間もある。忘れている時間が増えればなかったことと同じとも言われた。なかったことになんかされたくない。けれど実際忘れている時間が楽だ。生きている限り、生きる方のことをしなくちゃいけないし、そのためには整理のために戻ってくることもある。いくら整理をしてももうお母さんの前で泣くことはこの先一生ない。

べたべたした関係の中で、本当に抱きしめられることのない子供のまま、私もお母さんも大きくなってしまったのだろう。
気色悪い。そしてそれを忘れる。なんどもなんども、呪われて呪っているまま忘れたい。


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