移動をしたい未来

ここ数日は移動というか明らかに多動な生活をしています。


11日の朝から兵庫県丹波市を出て、静岡を経由してから東京へ。
12日は東京から岩手県盛岡市へ。
13日は盛岡から夜行バスで東京へ
14日に東京で過ごして。
15日は夕方に東京を出て兵庫県丹波市へ。


ああ、なんだか頭がボーッとするなあ、寝不足だなあと思うとき、ちょっと移動し過ぎていることが多いです。そしてだいたい頭が疲れていて、完全に思考力が落ちているのがわかり、相手が話していることを真面目に聞いているのにもかかわらず処理ができてないときがあります。やばい、いかんぞ。

しかし、これでも移動に新幹線を使えているから、少しマシで。高速バスで似たような時間の過ごし方をしていたけど、疲労は一気にMAXへ駆け上がるので、出来ることならなるべく移動しない暮らしをしたいなあと思うようになってきました。いよいよ移動したくない気持ちになってます。


移動をするのは、「会う」とか「見る」とか「触れる」といった、この身体が知覚するうちの、「聴覚(変換後)」と「視覚(二次元処理)」を使ってパソコン画面とかスマホなどを使った情報のやりとりするだけでは不十分なもの、「触覚」「嗅覚」と「視覚(三次元処理)」「聴覚(未変換)」など対面したり、直接そこに行ったからこそ感じられるものを得るために、移動するということにはとても価値があると思います。


そして実際に、コミュニティをすこしずつ作ろうとしていくとき、実際に出会って話すことの重要性を感じています。それがないと熱量がなぜか埋めることができないことが、とても不思議で仕方ないし、情報だけのやりとりと考えれば、本当に非効率で仕方がないとは考えられるのですが、情報だけのやりとりをしているとテンションが下がっていくのです。不思議ですね。


いま東京で仕事をさせてもらっている部署で、僕は本当に自由にさせてもらっていて、週1回のグループ会議には出席するように要請されていますが、それ以外は自由に、思うままに、できるだけの力を発揮してください、というありえないほどの寛大さでもって、自分の存在を信じてもらえています。

なかなか「これ!」といった結果を出すのが難しいし、部署の性質上それが難しいからこそ、僕のような「一定のリスクは感じて動くから、驚くような迷惑はかけなさそうだが、何をするか不明なので面白いことを期待したい」と思えるような存在を置いてくださっていると感じてて、僕は社会実験的にいま生かされているといった自覚で生きています。とても刺激的です。


そのなかでやはり「会うこと」や「そこに居ること」による「安心感」とか「愛着の発生」というのはあるもんだなあと感じているのです。仕事をしにきているわけだから、好き嫌いということなんか度外視し、結果を出せるようにやらなきゃどうなんだ、ということもチラリと感じたりもします。

しかし、仕事をするのは「稼ぐため」だけではないと思うのです。僕らは、「お互いの存在が必要だと感じるため、存在を認め合うため」に仕事をすることもあるのだとすれば、僕らはそこにリアルに存在することがとても大事だということを十分に味わう必要があるのではないか、と思います。


なぜ稼ぐのかといえば、交換手段としての「お金」を手に入れて豊かになるための条件を揃えるため。豊かになることが幸せになると信じているから。

だから「お金」という手段を信じていて、その価値をお互いに信じているから、お金を貯蓄することに価値があると信じていられるわけです。


ですが、有限な時間の中で、僕らは貯蓄をして安心感を獲得するためだけに生きているのではないはずです。僕らはお互いの存在を認め合い、暖かく関わることそのものも、また仕事をしている理由じゃないかなと思うのです。

いろんな仕事があるけど、その中でいろいろと課題にぶつかる中で、その人なりの頑張りを見せようとすることをお互いに見守り、支えあうこと。その中でふとした一言が、頑張ろう、生きよう、貢献しよう、って思うきっかけになるものだと思うし、それを生み出す営みだけでも十分に大事なことなのではないかと思うのです。


今日は先輩のマキオカさんが、こんな風に言ってくれました。


「横ちゃんって、なんていう役職だっけ。CP?PC?
 ああ、PC(※プロフェッショナル・コントラクター)か。
 いやいや、あれも契約社員と同じで3年契約ってことなの?
 そうなの?今は、そうか。うん、でも『今は』ってことだよね。
 え?だってやっぱり、もう少し一緒にいてほしいじゃん。ねえ。」

※プロフェッショナル・コントラクターは、僕が既存社員には存在しない、若手の嘱託社員として半ば強引に入社してしまったので新しい役職名をつけなきゃいけなくなったので出来たという我が社の役職名です(笑)


いや、そんなん言われたらほんまめっちゃ頑張ろうって思いますよね。

そういう一言が生きる支えになるとすれば、それは金銭を超えた価値になると思うし、それこそがお金を払っても手に入らない、お互い同士が生み出すことができる「喜び」や「嬉しさ」になるのではないかと思ったのです。


「あなたはどうしてそんなに移動するの」
「会いたい人と幸せな時間を生み出せると信じているからだよ」


「そんなに移動して大変じゃない?」
「大変だけど、それでも僕は嬉しいから移動するよ」


そうシンプルに言えるために生きていられるようにしてみよう。


急に読者の方からサポートもらえてマジで感動しました。競馬で買った時とか、人にやさしくしたいときやされたいとき、自暴自棄な時とか、ときどきサポートください。古民家の企画費用にするか、ぼくがノートで応援する人に支援するようにします。