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フィンランド音楽における「フィンランド性」とは何か?

「『フィンランド的要素』―もし実際にそれが実証的な感覚に存在するとしても―は、それは特異な性質ではない。それはそれぞれが異なる方法の中で付加された多数の要因の総体である。」
―1992年2月、FMQへのミッコ・ヘイニオの分析的論文から

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 ある国の音楽が持つ国民的性質の特異性を定義することへの問いかけは、変化や統合に直面しているヨーロッパにおける論題の1つである。しかしそれは同時に答えることが非常に難しいものの1つでもある。まず第一に、我々の音楽におけるフィンランド的要素は、私にとってはおそらく自分の肩甲骨を見ることと同じくらい難しいものと言えるだろう。第二に、私はヨーロッパの他の地には見ることのできない、純粋な意味でのフィンランド音楽の特徴を指摘できるかどうか疑わしく思っている。「フィンランド的要素」―もし実際にそれが実証的な感覚に存在するとしても―は、それは特異な性質ではない。それはそれぞれが異なる方法の中で付加された多数の要因の総体である。

 それにも関わらず、人々は常にこう問いかけるのである、「フィンランド音楽におけるフィンランド性とは何か?」と。「フィンランド(Finnish)」という言葉がこの問いの中に2度現れる。言い換えれば、それは少なくとも2つの異なる意味を持っている、ということである。

 私たちがその音楽がフィンランドのものだという時、私たちはそれが①(A)フィンランドで活動している、あるいは(B)フィンランドで生まれた作曲家によって書かれたもの、②フィンランドという国の歴史に結びついたもの、③(A)その名前、あるいは(B)その言葉が、とりわけフィンランド的であること、④それがフィンランドの民族音楽を含んでいること、⑤それが(A)シベリウスによるもの、あるいは(B)シベリウス的であること、⑥その様式が(A)伝統的な、(B)未発達、あるいは制限された、あるいは(C)非国際的なものであること、または⑦それが本質的にフィンランド的である―例えば悲観的、憂鬱さ、のんびりとした気分―ということを意味していると言えるだろう。

 ①~③の特徴は音楽以外の、④~⑥は程度の差こそあれ、音楽の具体的な特徴を示している。しかし⑥(A)と、とりわけ⑥(B)は、しばしば音楽史上の記述というよりもむしろ価値観に関するものであり、⑥(C)はこれらの価値観から引き出された音楽的・政治的結論に近いものである。⑦の項目は、この私の論文の表題から判断して、私の立場をはっきりさせることを期待させてしまうかもしれない。その場合、私はあなたを失望させてしまうのではないかと恐れている。なぜならフィンランド音楽の特質に対するいかなる評価も、必然的に不確かなものだとわかってしまうと思うからだ。

 フィンランド音楽の歴史を記す上で、我々はどのような作曲家が実際に関与したのか議論しなければならなかった。その答えは、フィンランドで生まれた、あるいはフィンランドに定住した作曲家であれば誰でも含まれる、という単純かつ自由なものだ。しかし問題は思う程には単純ではない。

 1852年、作家であるザカリアス・トペリウスは―現在一般的に認められているように―、フィンランド音楽の創始者はフレドリク・パーシウスという名のドイツ人であるという見解を示した。一方で、16歳でヴィープリに移り住み、ストックホルムで余生を過ごしたベルンハルト・ヘンリク・クルーセルは―彼自身は主張したものの―、フィンランドの作曲家・音楽家には分類されなかった。しかしこれが起きたのは1791年、フィンランドがスウェーデン王国の一部であった時であり、つまり言い換えればこの作曲家は単に東側の地域から王国の首都に移動しただけなのである。スウェーデンの人たちが彼をスウェーデンの作曲家と見なすのは当然のことである。それにもかかわらず、こうした同様の名誉はクルーセルと同時代の作曲家であるエーリク・トゥリンドベリには与えられなかった。

 事実、トゥリンドベリは今日知られている通り、スウェーデンには移住しなかった。しかし作曲家がその国の音楽史に地位を与えられているかどうかは、彼がどこで何をしたのかということだけではないのはもちろんのこと、彼の音楽の国際市場における評価にも左右されるものである。もしトゥリンドベリの弦楽四重奏曲がクルーセルのクラリネット協奏曲ほどの国際的評価を浴していたら、彼もまたスウェーデンの音楽史に含まれた自身の名を見つけることができたかもしれない。

 その他にもパーシウスやクルーセルのように、旅人であった人もいた。ヘルマン・レヒベルガーは1970年、23歳の時にリンツからフィンランドへ移住しており、カイヤ・サーリアホは彼女がその名を広め始める前から既にパリに居を構えていた。フィンランドの音楽史家の気持ちの上では、彼らはパーシウスやクルーセルの全く同じように、フィンランド音楽を象徴した存在だとしている。そしてもしあなたが、彼らがさらにオーストリアやフランスの音楽史にも記録されるかどうかと尋ねる必要がある、とするなら、私はあなたにトゥリンドベリを見ろと言うだろう、そしてこう言うだろう「それは彼らの美的評価に左右される」と。

 様式において、クルーセルとトゥリンドベリは直接ドイツとオーストリアのウィーン古典主義から、パーシウスは初期のロマン主義から影響を受けている。同じように、レヒベルガーやサーリアホといった現代の若い作曲家たちも、国際的な傾向に深く精通している。従って、これら2つの極端な例の間のどこかで、私たちの「典型的なフィンランド音楽」を探求するのがより得策だろう。

 1809年にフィンランドがロシア帝国の自治大公国になるまでは、この国は独自のアイデンティティを発展させることはなかった。しかし、他の国でも、ナショナリズムと国民国家が誕生したのは啓蒙時代以降のことであり、彼らが生み出した音楽を国民的なものとみなすことができるのは、それ以降になってからである。民族的ロマン主義運動はヨーロッパの東部と北部の周辺地域における社会的・歴史的必要性から生まれ出たものであり、この地域における芸術音楽の伝統は、その地よりも南部にあるものほど古いものではなかった。

 民族的ロマン主義的様式は「フィンランド的様式」と同等のものである。しかしフィンランドの民族的な音楽は民族的ロマン主義の時代の前後に書かれたものだ。当時、国家を団結させるための歴史的な出来事に密接に結びついた音楽はフィンランドの民族的(そして確かに愛国的な)音楽として見なされるようになった。役割は内容よりも重要となることが証明された。というのも、音楽的素材そのものが完全に外国由来のものであっても、少しも気にする者はいなかったからだ。これについて最もよく知られた例はもちろん、パーシウスによる我らが国歌《我等の地 Maamme》である。これはドイツのマズルカと、J.L. ルーネベリによるスウェーデン語の詩『我等の地 Vårt land』を、その音楽にはあまり合うとは言えないフィンランド語に翻訳されたものに基づいているものだ。

 もはやアフリカの地図上では見つけることのできないビアフラ共和国では、自身の国歌を求め、シベリウスのフィンランディアに行き着いたという点ではフィンランドを上回る。であるからこの作品ははっきりと独占的にフィンランド的なものとは言えないのである。

 それにもかかわらず、ロシアがフィンランド大公国の自治権を縮小しようとしていた20世紀初頭における抑圧の年月の間に、それは象徴的価値を獲得した。フィンランディアへの愛国的反応は、エドヴィン・ライネの映画「無名戦士」(ヴァイノ・リンナの小説に基づく)での使用によって、のちに強められた。

 国家的意義を獲得した音楽は、このように機会の問題と慣習に大いに因ることとなる。特定の音楽作品が与えられた歴史的・社会的状況の上に現れる。そしてそれがもし共有財産になるための音楽的に十分な「強度を持つ」ものであれば、それはその社会的・歴史的状況が必要とする感情を引き起こすのである。

 音楽は従って、適応性の高い手話言語なのであり、あらゆる種類の状況に耐えうるものである。BBCのドュメンタリー番組「巨人の足音のうちに In the Giant’s Footsteps」において、フィンランドの湖と森を写す場面でフィンランドの音楽が挿入されたとき、それらにはシベリウスの音楽と同じ程度にマグヌス・リンドベリの音楽も適用し得たのである。(さらに多くの驚くべき組み合わせがなされている。多くの爆弾を数珠並びのように次々と投下しているB-52を写したベトナムのドキュメンタリーでは、それが特定の音楽作品によって強調されただけだというのに、その映像が私の心に永遠に刻み込まれてしまった―その音楽はシベリウスの《カレリア組曲》の〈インテルメッツォ〉であった。)

 作品の表題は音楽の構造の範囲外という点で、非音楽的なものである。しかし表題は―純粋な器楽作品であっても―ある意味ではその作品において不可欠な部分である。その音楽の構造に違いはなくても、もしそれに別の表題が与えられていたら、その作品は厳密にいえば同じものではない。表題は必然的に聴衆の内に、その作品によって引き起こされた連想や感情に影響を与える。とりわけ今世紀(訳注:20世紀)の前半に書かれた作品の一覧は、フィンランドの歴史、自然、地理、そしてなによりカレヴァラの神話から取り上げた表題がほとんどである。

 1930年代に優勢であったナショナリズムの時代のさなか、国際的な刺激は民族的主題を示すことでフィンランド音楽のうちに密かに浸透させることができた。アーッレ・メリカントの《キュリッキの略奪》と、ウーノ・クラミの《カレヴァラ組曲》は、それらがストラヴィンスキーの要素を持つにも関わらず人気を得た。疑うべくもなく、持ち込まれた国際的な要素の種類も決定的なものだった。それがシェーンベルクの様式で書かれていたなら、《カレヴァラ組曲》が受ける評価は控えめに言っても冷淡なものであっただろう。

 若い世代の作曲家であるエーロ・ハメーンニエミが1984年に《調べ Soitto》と呼ばれる管弦楽作品を書いた時、聴衆の注目を集めたのは、単にその主題がヴァイナモイネン(フィンランドの民族的叙事詩、カレヴァラの中心的人物のひとり)を連想させることではなく、その表題がフィンランド語であるという事実に対してであった。若いフィンランド人作曲家の大半にとっては、作品にフランス語の表題を与えることで、自身の国際的な理想観を強調したいと考えている。ハメーンニエミはあえて時流に反する選択―絶対的な意味においてではなく、彼の時代に関係したものであるが―を行った。

 今や表題のみですら、人々がその作品をフィンランド的であると見るかどうかを決定する助けになりうるのだから、言葉の持つ影響力はさらに大きなものとなる。このことは、パーシウスの最もよく知られた歌に当てはまる。民族的ロマン主義は国家精神に満ちた無数の合唱作品を生み出し、その傾向は今世紀にまで続いた。私が既に述べたとおり、社会における役割と、作品の主題あるいは意図の両者は、実際の音楽的内容の対して非常に表面的な要求であると見られている。同じことはテクストにおいても当てはまる。これは最も多様な姿を、内容を損なうことなく再び装うことができるのである。

フィンランドにおいて、《フィンランディア讃歌》はV.A. コスケンニエミの詩で知られているが、それも数百に渡るその他の言語や編曲が生み出されている。タイトルから判断するなら、アメリカの言葉は概してコスケンニエミのテクストの愛国的な調子を大切にしているように感じられる(たとえばBeloved Land、A Land of Ours、Our Great Lone Hills)し、ヴァイノ・ソラの言葉には宗教的な意味合いが(God’s Treasures、Accept Our Thanks、Be Still My Soul)見られる。しかし、新たなテクストに実際に全く異なる内容が与えられるというケースがあり、それはとりわけ民族音楽において存在する。多くの民謡がジングルの状態からキリスト教的愛国心に満ちた歌へと成長を遂げた。たとえば愛の歌である《膝の中に座っていた Kreivin sylissä istunut》は、J.H. エルッコの詩『あなたは我らの国の生まれた地 Olet maamme armahin synnyinmaa』から借用したものである。

 音楽の民族的なブランドを確立するために、19世紀のヨーロッパの周辺諸国は自身の民族音楽に立ち返っていった。民族的ロマン主義の時代におけるその音楽的内容は未だ強く息づいているため、フィンランドの音楽がどの程度に「フィンランド的 Finnish」なのかは、それらがどれくらい民族的な素材を含んでいるかに左右されるだろう。しかし、現在民族的要素を表現すると考えられている民謡の旋律は、そもそもは全く無関係の人々から来たものなのかもしれない。あるいはたとえそれらがフィンランドから端を発するものであっても、それらはかなり後になって民族的価値を獲得しただけで、その時にはそれらは既にそれら自身の環境から乖離したものになっていた。

 スメタナの《モルダウ》はボヘミアの風景や田舎の住民の魂を非常によくとらえている、と多くの人たちは言う。しかしそれがスウェーデン民謡《麗しのワームランド Ack, Värmeland du sköna》と一致することはよく知られた事実であり、それはおそらくこの作曲家がグーテンベルクに指揮者として雇われた際に耳にしたものであろう。《ほんの小さな民謡 Vain pieni kansanlaulu》は、多くの人たちの考えでは正真正銘のフィンランド民謡ということだが、それはR. ムスタパーの言葉にスルホ・ランタが作曲した、交響曲第4番《オラトリオ・ヴォルガーレ Oratorio volgare》(1951)から来たものである。しかしそれはフィンランドの民族的伝統以上にランタに帰するものはほとんどない。それは《イタリア》という別名を持ったドイツの作品であるメンデルスゾーンの交響曲第4番(1833)で既に使用されているからである!

 従って、他国に起源を持つということは、かつてこの地で人気を誇った、明らかにフィンランド的な民謡の旋律であると見なすことに何の障害ももたらさなかった。また芸術的な音楽の要素として民族音楽を作ったという事実こそが、そもそも自国由来への信仰の表れである。ロベルト・カヤヌスの《フィンランド狂詩曲》(1886)や、レーヴィ・マデトヤの交響曲第2番(1918)、ウーノ・クラミの《カレヴァラ組曲》(1927)、ヴァイノ・ライティオの《夏の情景》(1935)、あるいはエイノユハニ・ラウタヴァーラの《ペリマンニたち》のような器楽作品以上に、作曲家や聴衆により完全なフィンランド性を感じさせ得るものは何だろうか?これらすべての作品において、フィンランドの民族音楽のモティーフ、あるいは要素は、言わばそれぞれの条件下で思うがままに作用しており、言い換えれば、それらは調性のシステムとは完全に相いれない文脈の上に位置しているわけではない。民族音楽は、本質的な自主性を形成するために―それはすでに民族的ロマン主義の指針の一つである―融合した、といえるだろう。

 私たちは現在に近づくほどに、作曲者は国家における民族的な印象を形成することなく、民族音楽を開拓できるということが明らかになっている。たとえばアーッレ・メリカントの《ショット協奏曲》(1925)を考えてみよう。この作品では第2楽章において民族舞踏が突然浮かび上がり、リズムと調性の両者がその周囲の楽章に著しいコントラストを生み出している。エーリク・ベリマンの《ラッポニア》(1975)におけるヨイク風のモティーフと、ペール・ヘンリク・ノルドグレンの《天上の光》(1934)における数多くの民族楽器の音色は、私にとっては「フィンランド的」ではなく異国風に感じる。さらに注目すべきは、どちらの作曲家もヨーロッパ以外の音楽も利用しているということである。

 1950年代と1960年代のモダニストたちにとって、民族音楽はタブーであった。これは70年代後期および80年代前半の若いフィンランド人の作曲家たち(耳を開け!協会)のポスト・セリエルの音楽においても優勢であり続けた。だが今やそれは衰えてきているようだ。エサ=ペッカ・サロネンは1991年のヘルシンキ・ビエンナーレ期間中のインタビューの中で、「紙の音楽 paper music」の時代は過ぎ去り、現代の作曲家は後ろめたさを持たずに民族音楽さえも再び使用できるのです、と述べている。サロネンが言う「現代の作曲家」とは、おそらく新しい音楽を専門とする音楽祭が認めた作曲家のことだろう。ダルムシュタット学派の信奉者とその弟子たちが、自身にとって「新しい音楽」とは何を意味するのかを明確化しようとしていた一方で、その他の世界中に無数に散らばる作曲家たちは民族音楽を進んで利用してきたのだ。

 こうしたわけで、サロネンの発言は既に私が述べたことを肯定してくれている。民族音楽の要素は必ずしも音楽を民族的にするものではないということだ。しかしヨーロッパ以外においてはこの一般化は危険を伴う。ある作曲家が私たちに自身の音楽を紹介するために遠方へ向かえば向かうほど、自動的に私たちは彼のことを、ある国家を代表する固有の存在として見做すようになるのである。期待されるのはせいぜい民族的に方向付けされたものだ。ある時スコットランドで、フィンランド人がパーヴォ・ヘイニネンのオペラ《綾の鼓》を見た。そのコメントは、聞けば「いいね―でもこれのどこがフィンランド的なの?」といった内容のものだった。

 シベリウスの民族音楽から得た刺激は、非常に限定的にしか用いられなかった。それらは主に彼の交響詩《クッレルヴォ》にあてられており、それは後に彼がこの「若々しい愚かさ」とは何の関係も持たないことを望んだ1つの理由であると思われる。したがって学者たちは、何かフィンランド的なものを求めるために、彼の教会旋法の使用に目を向ける必要に迫られた(もちろんそれらはフィンランド的なものではないのだが)。シベリウスは早年から、自身よりも彼の支持者たちが熱烈に望んだ役割―「フィンランド音楽の発揚」―を背負わされてしまった。これについて、彼は予想以上の成功を収めたが、彼の支持者には依然として1つの問題が残されていた。それはフィンランドに現れた民族意識の要求を満たすためには、シベリウスは民族的でありながら同時に国際的な巨匠でなければならないということである。そしてヨーロッパではナショナリズムはしばしば国際主義への障害と見做されていたのである。

 例えばシェーンベルクは「民俗学的交響曲 folkloristic symphonies」を冷笑に付していたし、ヒンデミットは音楽におけるナショナリズムを、ディレッタントであることを示しているに過ぎないと考えていた。(ドイツ人の目するところでは、ドイツ音楽は常に普遍的なものであり、その他の国の音楽は民族的ということだ。)

 シベリウスの音楽において、フィンランド的要素を定義しようとする上で持ち上がる問題の種類は、次の発言から見て取れる。

 「シベリウスが直感的に創造したり感じたりするものは、フィンランドの風景や人々の魂と結ばれている。(…)しかし一方で、この作曲家の比類なき独自性を持った個性が、フィンランドの民族性や風景、歴史にあまりにも依存しすぎてしまうことは(…)比較的よくあることと言える。」(レーヴィ・マデトヤ、1935年)

 「彼のイディオムが民衆の旋律の様式を超えて響きうるということにおいて、これは当然ながら比喩的な言い方だが、しかしこの音楽の内面の性質をとらえた表現である。このイディオムは、今も昔もフィンランドの田舎や悠久の昔の印象を独創的に表現したものであると聴衆は理解している。それを詳細に分析することは、この巨匠の性格を分析することと同様である。」(タネリ・クーシスト、1950年)

 従ってシベリウスは、彼の持つフィンランドの環境の影響を受けたが故にフィンランド的なのである。しかし彼をフィンランド的だと見るとすると、もはや彼をシベリウスだと見做せるものと区別することができなくなる。言い換えれば、シベリウスの音楽は、それがシベリウスであるが故にフィンランド的なのだ。しかしこれは単なる循環論法ではなく、環境と芸術家の相互作用をその両者の面から見た場合の話なのだ。あるいはコスモポリタンであったエルンスト・パーングーが1928年に話したように、偉大な芸術家は「自身の環境において最も中心にある、最も重要な血管から自身の能力を引き出す」が、同時に彼らは「特定の方向にその時代の血流を」導くのである。

 これはなぜ「シベリウスの」様式が本当にフィンランド的に感じられるのか―そしてフィンランドの様式がなぜ「シベリウス的」なのか―を説明している。例えば今日、ヨーナス・コッコネンの弦楽のための作品である《アダージョ・レリジオーソ》を聞くと、その印象は極めてフィンランド的だ。より詳細な分析の結果、シベリウスの後期を連想させる特徴が明らかとなった。

 フィンランド以外においては、シベリウスの音楽は最初から「メイド・イン・フィンランド」の烙印を押されており、たとえ彼が国際的な名前であっても、今もなお変わらずにいる。他国の人たちはしばしば他のフィンランド音楽からもシベリウス的なニュアンスを見出すことができると考えている。私はこれがヘルマン・レヒベルガーにさえ起ったことを思い出す、それはまだ彼がフィンランドに来る前の事なのだ!

 新しいフィンランド音楽、あるいは伝統性を感じさせる1970年代に書かれた作品と分類される作品は、調性の要素と簡素なリズムやテクスチュアを洗練させるものであったが、これに反して最新のものは、無調性と複雑なリズムやテクスチュアに特徴づけられる。前者は調性の自由な扱いを意味しているのであり(ヨーナス・コッコネン、アウリス・サッリネン)、後者はポスト・セリエリスムを示している(ウスコ・メリライネン、パーヴォ・ヘイニネン)。聴衆たちはポスト・セリエリスムの作品よりも、調性の自由さを持つ作品の方が、より一般的なフィンランド性を持つ作品であると見做していると私は信じている。

 言い換えるならば「フィンランド性」は「伝統性」と、また「伝統性」は「フィンランド性」と同義であると言えるだろう。音楽が伝統的かどうかは歴史との関係を評価することによって議論することができるだろうが、しかし実際には伝統主義に対して肯定的、または否定的な姿勢を持たずにそれについて言及することは難しいように感じられる。伝統性は暗に家庭的なくつろぎを意味しており、また家庭的というのは閉所恐怖症に対するいずれかの安心感を呼び起こすだろう。イデオロギーの闘争は、フィンランドでは伝統的な音楽と唱える者と国際的な音楽とする者の間で何十年間も続いており、またその議論はほとんど変わっていない。

 1975年、サッリネンとコッコネンのオペラがフィンランドにおける真のオペラ・ブームを引き起こした。これらの成功の大部分は、間違いなくその作品のイディオムにおける伝統性とフィンランド的主題に起因していた。「耳を開け!」協会の若い作曲家たちは、これらの作品を「羽毛帽子のオペラ」と揶揄していた。

 彼らはこれらの作品が国際的な舞台で成功することなど信じられなかった。しかし彼らは間違っていた。これと対照的に、若者たちが「羽毛帽子のオペラ」の代替案として認めていたパーヴォ・ヘイニネンのポスト・セリエルによるオペラ《綾の鼓》(1984)は決して軌道に乗ることはなかった。(その理由はヘイニネンを受け入れ、コッコネンとサッリネンを良しとしない新たな音楽の界隈が2つの異なる機関、2つの異なる世界だというところにある。これらの機関の価値観、運営方法、芸術家、主催者、観客はほとんど触れ合わないほどの相違があった。)

 従って、完全にフィンランド的なものであると見做される音楽は、同時に保守的で発展性のない窮屈なものであった。もちろん「非国際的」という烙印は単純に、国外の関心を引き起こさなかったことを意味している。しかしそれはさらに、国外の人たちには適していないという音楽的・政治的な結論も暗に示しているのである。この結論の成否は、私たちの音楽をどこに持ち込むかに左右される。もし私たちがフィンランド音楽を確立されたヨーロッパの文化に持ち込み、急速な成功を収めたいとするならば、私たちは彼らの慣習に従ったほうが得策だろう。フランスとドイツは基本的に彼ら自身の音楽とは全く異なる新しいフィンランド音楽(カイヤ・サーリアホやマグヌス・リンドベリなどによるもの)を受け入れる。北欧諸国とイギリス―(アメリカについては言うに及ばず)―は、民族的な価値観を与えられた作曲家たち―レーヴィ・マデトヤやアウリス・サッリネンら―も含む、広い範囲にまで受け入れる国々である。

 根本的な問題が残されている。「フィンランド音楽は本質的に特定の種類を持つものなのか?」ボリス・V・アサーフィエフによると、音楽は言語のように、様々な世代によって蓄積された経験、「豊富なイントネーション」、与えられた時と場所の集団的意識の一部である。従って、作曲家や社会、歴史の中にフィンランド的要素を想像することは道理に適ったことのようであり、言い換えれば、概して文化的環境は音楽をフィンランド的なものにしているのである。おそらくフィンランド的要素は、人々の毎日の生活に近しいポピュラー音楽で見つかるはずであり、そこにある作品はみな似たり寄ったりのものばかりである一方で、近年の芸術音楽は全体的に民族的な分析を無視したものであると私は思っている。

 フィンランド的要素は、数え切れないほどの特徴の総体である。これらの特徴の多くは必ずしもフィンランドにおいてのみ独自性を持っているものというわけではない。フィンランド性というものはそれらが形成したひとつの集合体なのである。しかしこの集合体でさえ、絶え間ない歴史の変化を受けている。私たちが言うことができるのは、ある瞬間においてはフィンランド音楽のうちに何がしかの特質を多く備えているが、それを過ぎればその特質はほとんど連続性を持たないものである、ということくらいである。この点をさらに言うならば、私たちはこう言うことができるだろう―ある特定の瞬間にある特定の種類の音楽が単純に前面に浮かび上がってくる、言い換えればそれは流行ということである。

 「民族的性格」は結局のところ、文化的・歴史的特質の集合体のメタファーにすぎず、そこには決定的な因子を求めることのできる点が存在しない。どういうわけか、私たちは、国家がただ単に私たちの言うところの「彼は彼にならずにはいられない」とする一個人のように働くだろうと思い込んでいる。

 それゆえに憂鬱や悲観性、より影の濃い色調といったものを、フィンランドの性格の、ひいてはフィンランド音楽の典型的な特徴として頼ってしまいがちである。

 自殺者の統計数の多さや冬の夜の長さ、低音部に対するフィンランド的嗜好(オペラにおける役割や器楽的な好み)を同時に語りがちである。クーラやマデトヤ、ノルドグレンといった作曲家たちの音楽における影の深い色調を指し示すのは実に容易なことだ。

 しかし、私の音楽における支配的な特徴、あるいはフィンランドにのみ存在する特徴さえも、確かなものではないと私は信じている。この段階において人は通常スラブ民族について言及する。皆が主張するように、もう一つのフィンランドの典型的特徴は、コッコネンを好例とするような、ゆったりとしたテンポである。1970年代にコッコネンが享受した名声は、個人的な特質を一般化し、それらを民族的だと呼ぶように人々に促したように感じるのである。

 誰かがフィンランドの特徴の好ましい基準を思いついても、彼はそれに十分に適した例を見つけることができず、その代わりに全く逆のものを示す多くの例を見つけてしまうだろうと私は疑っている。これらの統計的な証拠はない。

 このようにフィンランド音楽におけるフィンランド的本質は、音楽的分析を回避した非常に不確かな現象であると考える。しかし私はフィンランドとその他の地域の両方で広く信じられているように、フィンランド音楽は本質的に典型的なフィンランド性を持っているということを指摘すべきであろう。したがって、ある段階では、これらの種類の音楽は本質的にフィンランド的だという結論が導かれる。民族的ロマン主義の時代には、こうした結論は―それらが本来慣習的であっても恣意的であっても―、長く続くかもしれないし、作品の創造にも影響を与えることもあるかもしれない。民族的ロマン主義の残滓はフィンランドにおいては1950年代直前まで、言い換えれば、私たちの文化全体の革命をもたらした社会や経済の構造的変化が起きるまで生き続けていた。その過程において、私たちの音楽は、クルーセルの時代のそれと同じくらい国際的になり、「フィンランド的 Finnish」という碑文は視界から消滅し、ただの神話にすぎないものとなった。

この論文は1991年1月に「Musiikkitiede」に初出した「Suomalaisen musiikki suomalaisuus」の要約版である。1992年2月にFMQにおいて掲載され、著者の心からの許可とともに再掲載された。

邦訳:小川至

こちらのコラムは、ウェブマガジンである「フィンランド音楽季刊誌(FMQ)」に掲載された記事の邦訳文章です(1992年3月13日掲載)。
以下のサイトにて原文をお読みいただけます。
What is “Finnish” in Finnish music? by Mikko Heiniö

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