二十一世紀文学のテーマを埴谷雄高と三島由紀夫の議論から(少しばかり)検討する

七〇年十一月二十五日、三島由紀夫が自決した。この日、埴谷邸に行く約束があって出かけていった。家に入ると、埴谷雄高は三島由紀夫が腹を斬ったことに腹を立てていた。文士は文章を書いて存在を暗示すればよいというのが埴谷雄高の言い分であった。書いたものと、自分の行動を一致させなければいけないという考えは古い。それは近代から敗戦までに有効だったものの考え方である。プロレタリア文学者は、転向を恥じた。私は私であることに固執した。そんなことはどうでもいいのである。そこから言葉でどこまで存在を掘り起こし、これまでどこにもなく、これからもどこにもない、まったく新しい思考様式、存在様式を作り出し得るかである。自己の絶対化を守るために腹を斬るなど、三島由紀夫は大馬鹿者だと埴谷雄高は怒っていた。その怒っている埴谷雄高の存在を今なお鮮やかにおぼえている。
川西政明『定本 謎解き『死霊』論』「埴谷雄高との三十年」

「ドン・キホーテは作中人物にすぎぬ。セルヴァンテスは、ドン・キホーテではなかつた。どうして日本の或る種の小説家は、作中人物たらんとする奇妙な衝動にかられるのであらうか」(『小説家の休暇』)と言っていた三島由紀夫は、皮肉なことに、肉体改造に乗り出したときから作中人物ドン・キホーテになっていった。
林進『三島由紀夫とトーマス・マン』

二十一世紀文学のテーマとは何だろうか。

『デカダンス意識と生死感』という、埴谷雄高・三島由紀夫・村松剛による鼎談がある。この中で埴谷は何度か二十一世紀についての言及をしている。ひとつには政治と文学の総合、またひとつにはヒトラー的な大衆煽動が二十一世紀までは続くという見通しにおいて。その双方に共通しているのは、死、あるいは死への情熱といったものを、文学(政治)はどのように扱うのかという問題である。

 村松によれば、政治家が死の情熱の利用を知ったら恐ろしいことになる。その代表例がヒトラーである。対して、標的の馬車の中に子供がいたため爆弾を投げなかったテロリストを描いた戯曲『正義の人びと』を書いたカミュはいくら考えても政治家になれっこないタイプの人物だという。

 埴谷は村松の発言をうけて、だがそれ(生と死)を総合する見地がなければ、二十世紀から二十一世紀に行けないといい、その役目を文学に負ってもらうと述べる。

 三島は埴谷の発言に対し、「文学は死ぬ側にも立ち、生の側にも立つ。両方を総合しなければいかん。そうすると文学はまた、これは政治と文学論にも、もどることになるけれども、つまり文学において、人を死なして平気な政治的見地と、それから、あるいは自分は死ななければならんという、個人のいちばん内心の情熱と、どうやって、総合するか、それの調和というものを、文学がそれをできるとお思いになりますか。」と問う。

 すると埴谷「いや、できるというよりできさせなきゃいけないというふうに思っているわけです。ある意味で、三島さんなんかもやっているんではありませんか。」

 三島「とんでもありませんよ。」

 ここから話はヒトラーへ向かい、三島は政治の完成の先、進歩の先に何があるのかという問題から、文学の問題に進める。「さっき埴谷さんがおっしゃった、非常に危険な文学観だと思いますが、つまり、死と生と両方を文学が総合しなければならないとすると、死滅を、自分の死ということを文学のテーマにすれば、いつかは文学をぬけ出して、自分が死ななければならない。政治の立場で人を平気で死なせるという立場に立てば、これも必ず文学をぬけ出して、字の上で人を殺してもしようがないのだから、実際に人を殺さなければならない。そのときに、文学というのはまったく、文学の自己否定の上にしかなり立たんということですね。文学自体の否定の上にしか文学はなり立たん。と同時に、政治の分野では、進歩の観念でも、また逆の観念でもいいが、そこにひとつの人間の死の衝動に火をつけて、それからそれをシステマタイズするりっぱな体系ができ、あるいは組織ができて、そこで一つのことをやった先ですね、その先になにがあるか。それは文学と政治のどっちにもわからない問題ですね。」

 ヘーゲルは言う。「知は学としてすなわち体系としてのみ現実であり、述べられうるということ、更に、哲学のいわゆる原則とか原理とかは、真である場合には、ただ原則もしくは原理に止まる限り、すでにそれだけの理由で偽でもあるということである。だから、原則を反駁することはやさしいことである。この反駁は、そういう原則の欠点を示すだけでよい。だが原則に欠点があるのは、それがただ普遍的なものもしくは原理、始まりであるにすぎないからである。もしこの反駁に根拠があるとすれば、反駁が原理そのものからとられ展開されている場合である。が、それと対立した断言や思いつきによって外から立てられる場合ではない。だから、もし自らの否定的なはたらきだけに注意を向けて、自らの進行と結果をその肯定的な面からも意識することをしない、というふうに見まちがいをしないならば、反対は本来原理の展開であり、したがって原理の欠点を補うものであろう。つまり、始まりを本来的に肯定的に実現することは、同時にその逆でもあって、始まりに対し否定的な態度をとることでもある。つまり、始まりがまだやっと無媒介であり、すなわち目的であるにすぎないという、始まりの一面的な姿に対し、否定的な態度をとることでもある。だから始まりをを展開させることは、体系の根拠をなすものを否定することだと見られてもよい、更にもっと正しく言えば、体系の根拠すなわち原理は、実際には、体系の始まりにすぎないということを、示しているものと見なさるべきである。『精神現象学』」

 学の体系の原理は始まりに否定性を内包し、それによって発展する。文学は政治を内包することで、文学自体を否定し発展する。政治は文学を内包し、政治自体を否定し発展する。甲骨文字、ハンムラビ法典や源氏物語、ドストエフスキーを見ても明らかなように、両者は始まりにおいて不可分である。ただし、その先に何があるのか、それはその時点ではわからない。

 その後、話題はしばらくデカダンスの分析に及ぶが、政治の大衆化について村松が述べ、埴谷がそれに答える。「まあ二十世紀、二十一世紀はそうでしょうね。残念ながら、ヒトラー時代が二十一世紀まで続くと思いますね。指導者と被指導者をヒトラーは確然と絶対的に分けたが、これは卓見であって、残念ながら、現在のコンミュニズムもそれには対抗できない。これは二十一世紀まで続くと思います。そこで僕は芸術家と言ったのです。政治家ではないのですよ。ひたすら暗示すればいいのです。死とか死の情熱とかを、ヒトラーと同一次元に立ってやってはだめなんですよ。そうではない。それは違った次元のもので、象徴的にいえば、白紙に書いたただの一字です。」

 それに対し三島「僕は文字というものは、もっと精妙なものだと思いますね。ことばというのは、もっと精妙なもので、人を死なせることなどは、絶対にできないと思いますね。ことばというものには絶対、限界を感じます。つまりファイアプレースのそばに人を置いて、どんな激しいことばをつらねた本を読ませても、そのファイアプレースのそばから、人を立ち上がらせるのは、しょんべんをしたいということのほうが強いですからね。」

 ここで奇妙な転倒が起こっている。埴谷は文学を「白紙に書いたただの一字」という現実的で一般的な象徴に託し、三島は文学(ことば)を「もっと精妙なもの」と観念的で特権的な存在と認識しているが、文学の人類への影響力を信じ、新たな理想を暗示すべきと主張するのは埴谷の方であり、文学は人を死なせることはできず(ということは生かすこともできず)、暖炉の前の人間にとっては尿意の方が優先するというたとえでことばの限界を主張するのが三島なのである。埴谷の「文学」に対する評価は「単純で、だからこそ強い」という論理であり、三島の「文学」に対する評価は「精妙で、だからこそ弱い」というものである。この場合、観念的なのは三島の方である。文字の精妙さを強調し、理想としての芸術観を垣間見せている。決して政治への対抗策として文学を使うという思想ではない。この意味で、三島はむしろ理想主義である。もちろん埴谷の政治への対抗策としての文学という考えも、ある種の理想あるいは夢想と捉えることも可能だが、文学を手段として用いる点に埴谷の合目的的な認識があり、三島は文学を「弱いもの」と特権的に措定することで文学を政治に対する手段としない。ここで三島は文学の非力さを述べているというよりも、行動の論理を持ち出すために文学を非力なものとして措定している。実際、次のような会話がこの後にある。

 埴谷「僕は暗示者は死ぬ必要はないと思う。」

 三島「いや、僕は死ぬ必要があると思う。」

 この場合、埴谷はあくまで文学者としてのスタンスを述べているが、三島は文学者としての意見を述べていない。これは先ほどの「文学の否定による文学の発展」の議論からも明らかであるが、文学が政治を内包し否定され発展するとすれば、そして両者が本質的に不可分だとすれば、文学は否定的な政治であり、政治は否定的な文学であるといえる。文学の方が弱いとか、逆に強いとかいったことは、ある意味では内容的に空疎な議論なのである。埴谷と三島はともにこの議論を戦わせているが、埴谷はあくまで文学の優位可能性を信じ、行動への必然性を否定しているものの、三島はあくまで文学の優位可能性を否定し、行動への必然性を信じている。重要なのは、三島の立場はここで「政治革命家」に変化しているということである。「死ぬ必要がある」という当為は、もし文学者の立場から述べた場合、美学的な見地に立ち、要請されたものと見ることができ、当然、三島由紀夫の行動についてそのような観点からの考察が下されることがある。しかし重要なのは、「ことばの精妙さ」を主張し、ことばに人を死なせることはできないと結論づける三島が、文学者の立場から、美学的に行動したとする場合、三島の言論と行動に矛盾が見られるということである。もちろん、実際に矛盾していて、表明された意見と行動が完全に一致していないという面もあるが、この埴谷との対話の中では、少なくとも三島の立ち位置は一目瞭然である。すなわち、ことばを「弱さ」によって特権化し、「文学者」から「革命家」へ行動原理をすり替えた「行動者」のスタンスである。振り返れば、三島が埴谷の二十一世紀文学観を指摘した「非常に危険な文学観だと思います」という言葉は、三島自身の文学から政治へ、暗示者から行動者へのアクロバティックな転調に向けられたようにも考えられる。もっとも、そのときそれは一つの文学観ではなく、三島を動かす一つの原理となっている。それは文学的・政治的・芸術的・行動的な内容ではなく、その形式である。

 この興味深い形式の分析は後に譲るとして、当初の本題であった二十一世紀の文学のテーマについてまとめなければならない。それは、まず総合の形式である。そして、一つの体系の原理である。特に、その原理の中に原理への否定性を含むような体系である。簡潔に述べれば以上である。

 その際に大いに注目されてしかるべきなのは、例えばこの埴谷・三島のそれぞれのスタンスであり、何よりそのスタイルである。一見、文学をそれぞれの形で政治にコミットさせているという認識を持たれる両者だが、埴谷の場合、それは政治への対抗(抵抗ではない)としての文学である。三島の場合、そもそも文学を特権化し、政治革命家と(自らを措定)して行動しているので、そう見えるのである。文学者が政治理論を暗示したり、文学者が文学を否定して政治にコミットしたわけではない。そこが理解できれば見通しやすい。

 奇妙なのは、彼らが政治と文学という、一見広大だが極めて狭い領域で議論したことが、かえって二十一世紀における文学の問題、すなわち総合の形式と体系の原理の問題を明らかにしたことである。読者は筆者がヘーゲルを引用したように、この問題はすでに古く、解決されたものであると考えるかもしれない。それは自由なので大いに結構なのだが、しかしこうも考えられる、すなわち提出されてはいるが、いまだ解決あるいは分析、および実行されていない問題を、この場合は哲学という領域から文学のような領域へ平行移動し、考察することにまったく意味がないわけではないと。

11/27 文章を修正。書き改めたのではなく、若書きに戻した。

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