これまでを時系列でまとめました。

私の一番古い記憶。

友達のところに遊びにいくね。母はいいよという。そして玄関から外に出ようとしたとき、母にいったらいけないと叫ぶ母に足をつかまれる。顔面からガラスに激突する。そこから記憶がない。幸いに目はつぶれなかったが、眉から目をかすめるように斜めに針で縫うほど傷ができる。眉は剃りこみをいれたようになっており、その後、その風貌から様々な偏見にあう。

1985年3月 A病院(内科)受診
母が不眠症で受診
息子に、テレビの向こうから人がみている、トイレのカギを閉めると出られなくなる、等の妄想をいうため、それを息子は信じていたため、幼稚園で問題となる。
トイレにいけなくなる。学校でもらすようになる。
妄想状態にあるため、宗教やねずみこうの餌食にされる。
幼稚園にいくんだよ、という記憶。
ケーキを自分で持つという記憶。
てを切る。かみそり

1985年4月 B病院 入院
母が妄想で息子を裸にしたり、おかしなことをするので、実家で育児をする。
実家でもおかしな行動は続くので、父が息子を迎えにくる。
いっきゅうさん、自転車
興奮してガラスを蹴り、足に大けがをする。
精神科に入院したが、体温計を飲んで自殺を図る。
息子は父の実家に預けられる。父の実家には、父の兄(長男)家族と父の母、私からすると祖母がすんでいる。
祖母はやさしかったが、父の兄やその妻はなぜうちが預からなければならないのかなど不満がある。
1985年5月 B病院 退院

1986年5月 B病院通院
1986年8月 A病院(精神科) 通院
通院のとき、駅から遠いため、タクシーで行く。
B病院は精神科専門の病院なため、タクシーの人に警戒される。
そのため、通院をいやがるようになる。

1988年10月 B病院通院終了
医師に通院の必要なしといわれた。祖父母たちがお金を渡して精神病ではないと診断してといった可能性もある。

1989年4月 ―息子、小学校入学―
1990年6月 C病院 通院
その後、症状は徐々に悪化していく。
息子が家に友達を呼び、楽しく遊んでいたら、急に妄想に取りつかれた母が息子を蹴り飛ばし、首を絞め、ごめんなさいといいなさい、ごめんなさいといいなさい、と動けなくなるまで首をしめた。
側溝や借りていたアパートの屋根裏に死体があるというので、大家にでていってもらうといわれる。息子は周囲の大人に罵声をあびせられ取り囲まれる。それでも母は息子をたすけることもなく、妄想による行動を繰り広げる。
統合失調症の両価性により、息子に好きと嫌い両方の気持ちをぶつける。息子は混乱し情緒不安定になる
小学校1、2年生のころまで学校でといれに行けず、もらすので、先生になぜトイレに行かないのかといわれる。毎度つれていかれる保健室。母にいわれたことなどを説明するが、先生たちはおかしい家庭だと悪口をいわれた。虐待や、精神的未発達による失禁だと思われるかもしれないが、単純にトイレにいくことが恐怖だった。ただ、我慢していて、我慢できずにもらしていただけだった。家で、また、実家などの暮らしでは失禁などすることはいっさいなかった。オムツをとるのもはやかった。
アパートだったが、子猫をひろってきて育てるようになる。子猫は家にすみつくようになる。

3、4年ははをキチガイと認識する。(そのような言葉を使うのはよくないというのは理解しているがあえてつかう。母の異常さを病気として理解する考えは世の中にはなく、当然身近にいる父や、親族や、学校の先生も同様だったから。私が母の異常な妄想から解放されるためには、母を異常者として異質なものとしてとらえなければ、児童として発達はできなかったということ)
母を異常者として嫌い、拒絶するようになる。母の異常さをとりこんでいては正常な発達ができないから。異常さを拒絶することで、自己を確率できる。
それでも児童という立場では母という愛着対象が必要な場面もある。両かせいになる。
しかし、母はたびたび実家に帰り、私はひとりぼっちの生活をおくるようになる。愛着対象の喪失を何度も経験する。
りょうかせい、愛着対象の喪失の経験により、情緒不安定になる。
飼っていた子猫をかわいがりつつ、虐待するようになる。

ひよこの話。
猫を母がすてる。みんなが捨てろ捨てろといったと本人はいっている。

5、6年になると母を殴るようになる。妄想状態にある母をトイレにとじこめたりもした。
エアガンを母にうつなどした。

父は酒をのみ子供を殴る、ははになぜ朝食のお膳がそのままになっているのだとおこる。
私の頭の上をものがとびかい、母と父が喧嘩をしている。

幼稚園か小学校か、それ以前か。母が調子が悪いので母の母が様子をみにくる。
朝食を片付け、掃除や洗濯などをし、買い物にいって夕食を作ってくれた。
泥酔した父が帰宅し、だれの了見であがりこんでいる、勝手なことをするな、でていけという。
終電もないのに変えれないという母の母に強くあたる。
お酒がはいっているからではなく、しらふでもこのように思う。お酒が入っている影響は強調されたにすぎず、父本人の問題。
母の母はそれいらい、父にたいして絶縁する。

アルバイトをはじめる。
1パンの工場 パンのなかにビニールが入ってた。自分がいれたと思い込む。またおかしいことをいったりしたりするので、ノイローゼだといわれ解雇される。
2図書 自分が本をやぶいたなどと思い込み、高い辞典や成年しなどを買ってくる。会計ができず、前の人が払ったおかねを次の人が払ったと思い込み、違算ばかりして、そのおかねを払わされる。

1995年4月 -息子、中学校入学-
母の妄想はさらにエスカレートし、中学校に乗り込み、息子の顔が違うんです。息子が何人もいてと、意味の分からない妄想をいう。先生からいじめられるようになる。
息子はさらに母に暴力をふるうようになる。ずっと一人でおきょうのように妄想をしゃべる。また、徘徊をするようになり、警察に保護されることもあった。そのためトイレに閉じ込めたりした。
おまけで、父親も酒を飲み泥酔して警察に何度もつれてこられた。
側溝に死体がある、屋根裏に死体がある、息子が真珠湾攻撃をはじめた、原爆を落とした等、妄想は激しくなっていった。
近所の幼馴染みの女の子とのトラブル
先生に好きなら伝えるといわれる。私はほんとうに好きではない。と伝える。

2年生のクラスかえ
友人ができる。部活に入る。その人たちと遊ぶようになる。
家にも友達がくるようになる
入賞するようになる。
他の人たちのみるめがかわるようになる。

3年生
市で優勝する。
それにより、特待生として複数から声がかかる。
しかし、私立だと制服やその他いろいろなものにお金がかかるため諦める。
相手は授業料免除などいろいろ提案したが、父や母が理解がなかった。
父のすすめで工業高こうへいく。資格をとって高卒で働けということだった。

1998年4月 ―息子高校入学―
1998年9月 C病院 勝手に終診
アパートから追い出される。
母は実家で暮らすようになる。

息子は高校で国家資格を取得する。
クラスで5、6にん選抜され、さらに上位の国家資格を取得するようにいわれる。
さすがにそれは勉強がおいつかず取得できなかった。
部活動も継続(個人種目)で市や県で上位に入る。
友人もできる。
資格も取得し、就職ができるようになるが、本当は違うみちにすすいたいと進路の先生に相談する。
その先生が国立大学を卒業し良識のある人だったた。本当は医者になりたいというと、それは今からだと難しいから、
それに近いところで自分がやりたいことがないかとさがす。父や母のことで苦労してきたので、また同年代の人が殺人をしたり、身近でも中学校で殺人未遂するなどあったので、
そうした問題をどうとらえたらいいのかと思い、心理学に興味をもち、今後スクールカウンセラーなど需要もみこめると思い、臨床心理士を考えるようになる。
大学に進学するというと、工業系の先生に批判される。せっかく就職さきもあるのにと。

1999年4月 A病院(精神科)
2000年3月 A病院 勝手に終診
あまりに症状がひどいため、祖父母もさすがに通院させたが、継続的な治療はさせなかった。薬を祖父母が自分で試し飲みし、体調が悪くなったことから、精神科に行かせない、薬も飲ませないと強く思うようになる。

2001年4月 ー息子、大学入学ー
息子は高校は働けるようになるためそういう高校に行ったが、本当は医者になりたかった。
さすがに医者の大学には行けなかったので、心理学の大学に行く。
このとき、父の経済状態では大学にいかせられなかった。
そのため、奨学金とアルバイトで大学に行く。今も奨学金が400万借金として残っている。

母の徘徊により警察が介入する。
しかたなく祖父母は息子に相談する。

2004年10月 D病院受診
大学で知り合った精神科の医師を紹介する。
一度通院して、薬を飲んだが、これは犬の薬だ苦しくなるといってやめてしまう。
祖父母は二度と飲まさないというようになる。
2005年3月 ー息子、大学卒業ー
どうやっても母の呪縛から逃れられない、そして母が病気だとわかったので、適切な治療をするようにすすめる。しかし、祖父母が応じず、母も応じない。
このままでは息子も破綻すると思い、大学在学中に市役所や社会保険事務所に相談するも、相手にされない。正社員の道もあったが、このような事情のため、アルバイトをしながら通院ができるように動くようになる。
このころ、母は緑内障を発症し、目が見えなくなっていく。
眼科で診察中にトラブルをおこす。(眼圧を測るのは目に突起をあてるため普通の人でも怖い、統合失調症ならじっとしていられない。)

2005年4月 E病院
息子が代理で通院。緑内障で目が見えなくなりかけていることを伝える。
往診してもらい、医師が直接様子をうかがい、医療保護入院となる。

2006年7月 E病院 入院
入院中、看護師が入院患者からお金をとるという事件がおきる。
母も間違いなくお金をとられていたのに、妄想だといわれ相手にされない。
当初は閉鎖病棟だったが、医師、看護師、スタッフすべてが患者を無視している。
そのため、見舞いにきた息子が閉鎖病棟から出たくても、患者と間違えているのか相手にされず、しばらく病院内から出られないことがあるほどだった。

2006年11月 E病院 退院
2006年11月 E病院 通院
これでもう自分で通院できるね、薬もちゃんと飲むんだよと伝え、母はうなずいたため、息子は就職活動をはじめる。
しかし、新卒ではないため、難しかった。正直に説明しても、なじられるだけだった。

2007年4月 息子は他県で働く
県外でようやく正社員として働けるようになる。

2008年3月  E病院 通院やめる
病院から連絡があり、通院をしなくなったと聞く。病院側から母の実家に連絡をしたが、もう治ったといって電話を一方的に切られた。
保健所(児童の虐待は児童相談所だが、このケースはこちらになる)に通報、保健所が動くが、祖父母が母を会わせようとしない。虐待と同じく法律が整備されてないため、強制捜査できない。息子がいた県の市役所、保健所と、母の実家の保健所でやりとして色々やった結果、無理だということになり、息子が介入してもらえないと、動けない、という結論になる。
祖父母は保健所の介入を断っている以上、その敷地に入れない。しかし、保護者として息子が介入すれば、そこに行くことができるそう。そこは行政の法律か施行規則かわかりませんがそうなようです。

そのため、休日や夜勤明けなどで往復するようになる。
2010年2月 肺炎で倒れる。部活で市で優勝できる身体能力があって、働いていたときはさらに体力があったが、おじいさんよりも劣る体力になる。異常を感じ検査したが、異常がないといわれる。
頑張って働き、休みは親の介護をするが、次第に体の痛み、疲労感が増すようになる。
残業ができていたのができなくなる、8時間勤務がつらくなる。母のもとにいけなくなる。仕事ができなくなる。

追記 結婚について、

結婚を考える女性が二人いた。1人は大学で知り合い、長く付き合った。二人は難病になる前後に知り合った。

最初に結婚を考えていた人は、彼女の親とも挨拶をしたことがあるが、統合失調症の母のことを話すと付き合っていることについて反対するような態度をとられた。その後もつきあっていたが、あるとき彼女から生理が2か月こないと話してきました。そのころから私の母が統合失調症だということを気にしはじめ、子供が同じ病気だったら嫌だといいだしました。結局、その後すぐ一方的に別れをいわれ、連絡も訪問も拒否されたので、本当に妊娠していたのかわかりません。もしそうだったらとても悲しく色々と思い悩む。どちらにしても、それがきっかけで私との結婚を真面目に考えたのではないかなと思う。
恋愛なら気にならなくても、結婚を考えると現実的な問題となってきます。もし自分の子供が統合失調症になったらと考えたら当然、結婚をためらってもおかしくないと私は思います。
ただ、統計上は、誰でも統合失調症になる確率は1%から0.5%あります。母からすると孫にあたるので発病率は数パーセントであまり変わりはありません。
もちろん、そう説明しました。それでも、本人やお親は心配するものです。私も含めて、誰だって健康でいたいにきまってますし、子供にはさらにそう願うでしょう。

もちろん、そうした障害を乗り越えてこそ、結婚できるものだと思います。

二人目に考えた人は燃えるような恋愛でした。私は軽薄ではないので、むしろ慎重なタイプなのですが、その人とはなぜか出会ってまもなく親密な関係になりました。自分にはもったいないくらいの人だったので本当に頑張りました。しかし、相手の両親は最後まで納得してもらえませんでした。彼女はその板挟みのなか、なんとか私とともにいてくれましたが、結局、私が難病になり働けなくなったことを伝えると、限界だったのでしょう、別れを告げられました。



2011年1月 ドクターストップがかかる。

余談:父は三男。実家はそれほど貧困なわけではないため、長男、次男ともに大学の学費を払ってもらえた。しかし、三男の父は大学の学費を出させてもらえなかった。父は働きながら短大を卒業できるよう、夜間の大学に通う。しかし、6年間通うも、単位を取得できず、退学することになる。働きながらは難しかったらしい。私は大学を卒業できたが、あと2年、修士課程に行けば臨床心理士の受験資格が得られた。特に大学側は私の大学院への進学を拒むこともなかった。そのため、経済的理由、言わなかったが母の介護の理由から、大学卒業後アルバイトしていた期間、聴講生という身分で、大学の先生がいた御三家の大学に所属させてもらっていた。さすがいい大学だけあって、授業がとても面白かった。しかし、新聞配達+大学卒業だけでも身を削るような思いなのに、大学院は難しかった。父よりも古い人は、昔はミカン箱を机として頑張ったものだ、今の若いものは弱い、などいう。それは現代と過去とで環境の違いを理解していない。例えば、現代だと大学のレポートなどはクラウドに提出する。パソコンがなければ授業にならないこともある。以前であれば、段ボールをノート代わりにできた。それでも、古い人は、今は大学がノートパソコンを購入補助している、奨学金がある、などといいわけするだろう。根本的に現代を理解できてない。話が脱線したが、結局は、父も私も同じような道をたどっている。大学へいき、あと少しで目標に届かなかった。



2011年3月 父の元に戻る。
のちにわかるが、父はカードローンの借金150万があった。カードが3枚あり、すべて限度額いっぱいいっぱいまで。もう新しいカードが作れない状態で、利子だけ数万毎月払っている状態だった。それなのに、数万払っていれば問題ない、お金は返せるなどいっていた。
家はゴミ屋敷。
ヘルパーを雇い家を掃除してもらうも、あまりに汚いため対応できないといわれる。
台所の床はぬけ。ゴキブリが家の中で巣をつくって、夜はコオロギのようにガサガサと大合唱。
息子が結婚や住宅のために貯めていたお金を父のカードローンを一括返済。手元のお金がほぼなくなる。父は最初は借金を肩代わりすることを拒んだ。結局何年も説得したが、結局暴力でいうことをきかせるまで、俺は返せる、車を買うんだ、など幼稚なことをいっていた。今でも、酒を飲んではおまえが大学に行ったのが悪いと関係のないことを言う。

2012年1月 F病院 通院再開
祖父母、こちらもいくら説得してもいうことを聞かない。こちらに暴力をふるうわけにもいかないが、もう堪忍袋の緒が切れ、母を無理やり父のもとに連れてかえった。
無理やり母を通院させようとしたが、母はおばあちゃんといきたいとわめき、母の兄の嫁にまで付き添いをたのみ、ようやく通院を再開した。

父はアルコールによる問題行動で母を殴ったり、息子に殴ったりするので、そのたび息子が抑制した。すると、息子が病気で働けないことをなじり、うつ病だといい、息子がおかしいといい、息子を精神病院につれていくといいだした。いい口実だと、父と精神科に行った。当然息子は問題なし、父は認知症のテストとアルコール依存症のプログラムを受けることになる。
しかし、父はアルコール依存症のプログラムをやめる。今は息子にかくれてお酒を飲む。

こうなるまで、お父様はどうされてたんですか?と何度も何度も聞かれたので書きます。父親はずっとお酒とアヴェックでした。また、広範性発達障害のため、問題だと認識もできず、どうにかしたいと思っても、市役所に相談する等、適切な判断ができない状態だった。
母の治療のため、父のもとに帰らず母の実家に行ったら嫉妬し激怒するような幼稚さだった。

2013年 無知な職員とろくに勉強もしてないくせにわかったフリをしているPSWでケアマネージャーに家族を分断しろといわれる。父と母は今のアパートで、私は別のアパートで暮らすようになる。しかし、父はアルコール飲み放題、母は薬のまなくなる。家は1か月で荒れ放題になる。そのため、それを職員とケアマネにみさせて、私はアパートを解約し、家にもどる。ケアマネや職員の分析は私が母や父といるから問題になっているから、私が自立すれば問題は解決すると思っている。しかし、父は発達障害の疑いがあるように、父には母を面倒みれないのはこれまでの経験からも明白なわけである。普通の人にはそれが理解できない。これでアパートの契約料や解約料などで数十万を存することになる。

病院が母体のヘルパー事業所が家事援助をやめる。理由、儲からないから。それよりもデイサービスの方が単価も高く利益率も高いからだそう。他の事業所にかわる。

2015年 障害者用の職業訓練に通うも、体の痛みをこらえながら通学、その状態では通えないとすぐやめさせられる。

2015年 会社設立、障害者優先調達推進法でなにかできないか、試す。障害者優先調達推進法はそれを作った政党のためのものとわかる。

2017年 ヘルパーが変わる。文字通り、近所の何も知らないおばちゃんがくる。世間話をして帰るだけになる。母が冷蔵庫に汚いものをいれていても、まな板や布巾がきばんでいたり、台所が汚れていたり片付いていなくても、母にやらせて自分はみているだけ。それについて相談したが、改善がなく、ヘルパーが足りないということからヘルパーは来なくなった。

生活保護を検討するも慢性疲労ならだれもがつかれているという理由で断られる。診断書をもっていってもかえれといわれる。録音するというと、じゃあもうおわりといって、置くにいかれた。

現在、貯金はもうほとんどない。医師にMRIやホルモン負荷検査等をしたいといわれても医療費が払えないためうけれない。特定疾患に指定された難病ではないため、医療費の補助もでない。

母はあいかわらず統合失調症の症状がひどく。父はアルコールをやめられない。

現在は一日に数時間パソコンに向かってネットをみたり、動画をみたりする程度で疲れる。あとは寝たきり。病院など通院する日はそれだけでその日はなにもできないくらい疲れる。期日などがありどうしてもやらなければいけないことがあるとやれなくはないが、休み休み行うしかできず、思考が低下し、その疲れ痛みは何日ものこる。

正直、展望がもてません。最低でも私だけでも月10万は必要です。健康ならアルバイトでも肉体労働でもなんでもすれば稼げることですが、今の状態で突き10万は思いつきません。親のことも考えるとできれば15万以上ほしい。

どうしたらいいのでしょう。

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