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6年越しに初めて『グレイテストショーマン』を観た

サムネはギチギチに詰めて冷凍したつくねハンバーグです。どうも、板垣です。

2017年制作、2018年日本公開の大ヒット映画。
『グレイテストショーマン』

約6年前のこの映画だが観たことがなかった。友人と映画の話になると、一度は話題に出てきていたし、当時はメディアで海外のキャストが日本の音楽番組にも出演していたイメージがある。

内容が素晴らしい(らしい)ことはもちろんのこと、劇中歌は、ゴールデングローブ賞の主題歌賞を受賞。映画を観ていない僕でも、歌を聴けばバラエティ番組の内容と関係ないBGMとして酷使されていたことを覚えているくらいである。サウンドトラックは、2018年の世界で最も売れたCDアルバムらしい。

そんな、乗るしかなかったビッグウェーブに乗れなかった2018年。

避けていたわけではない。ミーハー気質である故、むしろ観に行きたい気持ちもあったと思うが、気づいたら終わっていたというやつである。映画というコンテンツが当時の僕にとっては、「流行っている楽しいもの」という認識だったのだろう。余談だが、鬼滅の刃もチェンソーマンもブームが過ぎてから観た。東京リベンジャーズに関しては観るチャンスを逃してしまった。気がする。勝手に。逆張りをしているわけではないのだが、ここで観たらなんか嫌だなと思ってしまう自分がいる。そういうのを逆張りって言うんですけどね。

そんな僕も、月日が経ち大学生になった今では、大学生という人生のモラトリアム期間のうちに、「名作」と呼ばれるものを映画館で観たいという気持ちが強まり、新宿や池袋や日比谷にある、過去の名作を上映している小さくて古い映画館に通うことが、趣味の1つになっている。

というわけで先日観てきた。TOHOシネマズ日比谷で週に1度ほど上映しているらしい。さらにこの劇場では応援上映も行っていて、応援上映日には声出し・歌・コスプレが解禁されている。らしい。そんなフリークと一度会ってみたい気持ちもある。

当時高校3年生の僕と当時の多くの日本人に向けて、多くの日本人が6年前に抱いていた熱量でお送りしようと思う。


昔マツコデラックスが丸の内プラゼールで『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を観て感動し過ぎて席から立ち上がれなかった話を聞いたことがある。その様子をOLに笑われたことで、以後は映画館に行くのをやめたほどらしい。

そんなマツコと自分を重ねるのは烏滸がましいかもしれないが、この逸話を聞いていつか自分にもこんなことがあるのかななんて思っていた。

僕の場合は『グレイテスト・ショーマン』がまさにこれで、悲しみとか苦しいとかじゃなくて、心が満たされる感覚。夢というものは、綺麗事や誰かのエゴだったりするのかもしれないけれど、何か一つのものを成し遂げようとする人の力、マンパワーはすごいなと思う。

素人目に見ても、映像や歌唱表現が素晴らしい。数百人のスタッフや関係者が心血注いで作り上げられた作品には心を動かされている。実在の人物をモチーフにしている上でミュージカルという表現がファンタジー要素と現実の共存をうまく表現しているように感じる。重ねてにはなるけれど、人の力やその才能で何かを人に思わせられるような人間を世界で1番尊敬している。

以降、あらすじ含め、めちゃくちゃネタバレ。当日の熱量でFilmarksに書き込んだものをそのまま投下する。

主人公のP.T.バーナムは<ショービジネス>の概念を生み出した男。誰もが“オンリーワンになれる場所”をエンターテインメントの世界に作り出し、人々の人生を勇気と希望で照らした実在の人物だ。そんなバーナムを支えたのは、どんな時も彼の味方であり続けた幼なじみの妻チャリティ。彼女の愛を心の糧に、仲間たちの友情を原動力に、バーナムはショーの成功に向かって、ひたむきに歩む。

Filmarksより

主人公のバーナムは恵まれない家庭で親子共々ずっとこき使われてきた。奥さんのチャリティは名家のお嬢様。だからこそ、主人公がある種、人を道具のように扱い自分のことばかり考えて成功や名声にこだわる理由もわかるし、奥さんが富以外の幸せを知っている理由も納得がいく。でもちょっとバーナムに嫌悪を抱く人の気持ちもわかる。

当時の時代背景を鑑みれば、貴族と平民の差は確かに存在して、それに伴ってまだまだ差別は残っていて観ていて心が苦しい場面は幾度かあった。

あと印象的だったのは、評論家。主人公は評論家の意見に非常に意識をしていた。やっぱり成り金精神だからこそ、評価や目に見える成功にこだわっていたのだと思う。とてもリアルでとても刺さった。

そして、ザックエフロンの演じるフィリップがとても良かった。『ハイスクールミュージカル』や『ヘアスプレー』の頃からザックエフロンが好き。名家出身の若手実力派でありながらバーナムと組んで、大切な家族とやりがいのある仕事を得る姿に感動してしまった。バーナムとのバーのシーンもよかったし、特にアンとのダンスのシーンのアクロバティックな動きがとても美しかった。

バーナム夫妻の娘たちもとてもよかった。表情豊かで貧乏ながらに性格も歪んでいなくて無邪気でよかった。

全体を通して、歌や表現、ダンスや演出がとても素晴らしいと思った。これだけ賞賛される理由もわかる。グレイテストショーマンはヒュー・ジャックマンが主人公であるのは間違いないけれど、ショーを引き継いだザックエフロンが最後に踊る場面で、全員がショーマンなんだなと感じた。最高でした。


最後に、ベテランオタクの作品感想に憤りを覚える場面が多々ある、という話をしたい。

というのも、感想において「これは〇〇のオマージュ」「いわゆる〇〇的な演出」「〇〇のパターンで展開が読めたから期待はずれ」などと、事あるごとに過去作を持ち出して類型化してくるのだ。これが、疎ましく思う。

大前提、感想は各人が自由に述べていいものであるし、必ず肯定的な意見だけをしなくてはいけないわけでもないことは理解している。

だが、不特定多数の目線に自身の意見が晒される以上、それを目にして不快な感覚を抱くのもまた自由でありたい。とても良い作品に触れた後はいつもこの気持ちが昂ってしまう。

浴びた作品の絶対数(分母)はベテランに比べて少ない。だからこそ、自分はひとつひとつの作品に真剣に向き合って個々に感想を捻り出しているのに、オマエら達に分かったかのように安易にパターンに押し込んで語られるのが癪だ。と考える自分がいる。

「すぐパターン化して分かったような気になるオマエらより自分の方がよっぽどこの作品に深く向き合ってるゾッ!奴等はモチベが枯れてるんだ!」などと、変なプライドが芽生える瞬間がある。

これは作品の感想に限らず、思考がすぐに類型化しちゃうのがベテラン(大人)なのかもしれないと感じる。ここ最近、これに要因のようなものがあるとしたらそれは何か。

やはり、単に接する作品数が減っていく。ライフステージが変わったり、体力が落ちてきたりして、最もオタク筋を振るっていた10代後半~20代の頃の感覚やバランスが、どこか全ての基準、感想のスタート地点になってしまう感覚があるのかもしれない。

最高も最低も平均も、およそ十代後半~二十代に摂取したものが自分の中にあって、全ての新規をついその頃の基準値で受け取って判定していまう。これを思考や発言に落とし込むと、「すぐ類型化する」になる。無意識に、一昔前の過去に縋って感想を出力してしまう。

という風に思考を巡らせてみると、憤りもちょびっとだけは軽減される。が、やっぱりそんなベテランにはなりたくない。

僕はものすごくワガママな人間なので、いつまでも最高な瞬間を摂取して更新して時には捨ててを繰り返していこうと思う。おじさんになっても応援上映に行ける気概と体力と胸の高鳴りを持ち合わせていたいと切に思う。


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