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全ての音楽はわたしの二次創作(みたいに思えるのが、嫌なのだ)

全ての音楽の中に、作曲者の意図しない「わたし」が存在することの気持ち悪さについて話す。

いつも、好きな音楽に自分の人生を重ねる行いが、邪道な気がしてならない。音楽の世界に自分の人生が介入していく。他人の作品だった一つの曲にわたしの人生が重なって、作品が「わたし」で汚されていく。それを止めることができずにじっと見ている。

この歌詞はまるで自分のことを歌っているみたいだから。この音があの頃のことを彷彿とさせるから。この曲からは「わたし」の姿が見えるから。だから、好きだ。
空想に思い描くビデオにはわたしの顔がある。わたしが歌い、わたしが踊っている。
全ての音楽はわたしのイメージソングとして機能する。全ての音楽は、わたしの二次創作である。わたしがかつてのわたし、或いはいつかのわたしに出会うための架け橋となる。

好きな音楽について語るとき、いかに自分がその音楽そのものを知らないのか思い知らされる。わたしが見ているのは音楽そのものではなく、音楽を通じて出会う数々の「わたし」に過ぎない。

果たしてそれは本当にその音楽自体を愛していることになるのだろうか。作者の意図しない「わたし」が音楽を冒涜し、食い潰しているだけではないだろうか。

擦り切れるほど聴いた大好きな音楽の作者がいま目の前にいて、わたしの話を聞いてくれる、という場面に出くわしたことがある。そんな奇跡の瞬間に、しかしわたしは何も言えなかった。わたしは彼の作る音楽そのもののことを何一つ知らないから。わたしの目に映っているのは、いつでも「わたし」に過ぎないから。話せることなど何も無いのである。

好きな音楽をどう好きでいればいいのだろう。どんな眼で音楽を見れば、音楽を純粋に愛していることになるのだろう。
音程の起伏や、歌詞や、楽器の音や、世界観自体を、それ一つ一つを純粋に愛せたらいいのに。そして語る言葉を持てたらいいのに。そんな人が羨ましい。

🪼

例に漏れず「わたしの中でわたしを象徴する曲」を一つ紹介する。

ロックンロールハイプのテーマ
沢田凛/土山時雨

激しい曲の展開が台風のようで、全身で風を受けるような衝撃だった。

わたしはロックスターのことを全然知らないけど、この歌詞は、自分の中にある「憧憬」の感情をぐっと引き出すパワーを持っている。
わたしの情緒を揺さぶるあらゆる森羅万象が愛おしくて、泣いたり笑ったりしたくなる頃を思い出す。眩い光に潰されても怖くない。
歌いたいのに掴みきれない音程と、言葉を押し出すように伸び上がる声、散文詩のような歌詞の並び、すべて美しいと思う。

土山時雨の編曲が大好きだ。ギターが大好きだ。沢田凛の歌詞が大好きだ。この音楽を愛してるって、どんなに浅はかな言葉になっても何回でも言う。

(2022/7/16の記事を改稿)

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