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その人は額にキスをした

 今日も知らない人とデートした。今日も頑張らなかった。従順な女の子を演じることは簡単だけど、頑張れないのは、剥き出しの私に男が怯えるのを見る方がおもしろくなってしまったからだ。 ーアプリで知り合って初めて会うこの人も、きっと明後日には私を忘れてしまうだろう。私は何かと男の人の居心地を悪くさせてしまうから。ー そんなことをぼんやりと思いながら、隣の駅まで自転車を漕いだ。

 今夜、初めて会った私と彼は、和やかな笑顔で満たされた小さなレストランで、気づいたら2時間半もおしゃべりをしていた。当たり障りのないお互いの話から、仕事、好きなこと、家族、将来やりたいこと、恋愛のこと、途切れる間もなく話し続けた。なんともイタリア人らしい、ダークユーモア全開で軽快な彼とのおしゃべりは心地がよかった。(ジョークの数々はとてもじゃないけど、ここには書けない)私は私で、

「最近は本を最後まで読んだ試しがないよ」

 という彼に、

「つまらない本を読み切る必要はないよ。デートと同じで」

 と言う。今まさにデート風なディナーの真っ最中なだけに、二人とも可笑しくって笑った。私にとったらデートなんてそんなもんだ。本と同じで、開いて出会うストーリーはどれもわくわくする。だけど、最後まで読みたいか、何度も読みたいかは、また別の話だ。

 経験則で言うと、アプリで知り合う人の50%はとりあえずセックスしたい人で、残りの50%はとりあえず花嫁候補を探してる人。前者は、自分に満足していて人生を楽しんでることが多いけど、女も意志と感情を持った一人の人間であることを忘れがち。後者は、思慮深そうな一方で、幸せを感じない理由を理想の女の不在のせいだと思い込んでる率が高め。正直、どっちにも付き合ってられないから、私が自ら2回以上会う人は結構少ない。

 でも、今夜の彼はどっちでもなかった。大事なものを共有する誰かに出会うのを楽しみにしてる人だった。私の容姿や体を過剰に褒めたり、趣味や好み、ケッコン観について根掘り葉掘り聞いたりすることもなかった。ただ、そこにいて色んな話をしてくれたし、聞いてくれた。黒く深い瞳は、ずっと前から知ってる眼差しのような安心感があった。

 だがら、ますます私は頑張らなかった。ものすごく楽しかったし、まだまだずっと話していられそうだった。でも、明後日には忘れられるかもしれないことを、賑わうレストランを背に思い出していた。あぁ、頑張ったらよかったかもしれない。もう少しだけでも「あなたのことを知りたい」って、伝えることができたかもしれない。ちょっとした後悔に気付きながら、自転車までたどり着いて手袋をはめていた時、その人は私の肩を引き寄せて「今日はありがとう。また週末にでも会おう」と言って、額にそっとキスをした。

 ただそれだけのことだった。それは、私に何も見返りを求めない愛情表現だった。今夜、この場所で一緒に過ごしたことが嬉しいことだって言ってるみたいで、自然と笑顔になれる安心感があった。それは聞き慣れた褒め言葉や使い古しの身体的な愛情表現と違って、全身を流れる血液を少しだけ温かくした。

 こんな気持ちになるなんて思ってもみなかったから、今こうして私は書いている。27歳になって、例えば、誰かの手に触れることなんて、なんの特別さも失ってしまった。いつだってオンラインで誰かと出会えるし、今どき友だちと寝たって誰も責めやしない。だけど、額で感じたキスを思い出しながら、小さなレストランのテーブルの上の、すぐ近くにあった彼の手を想像すると、鎖骨の奥がぎゅっとなる。

 触れてみたい人に、何度も読みたい本に、私は今夜、出会ったのかもしれない。これじゃあ、まるで恋じゃないだろうか。


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