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南 國 消 息 (下)

 翌くる朝は雨のなごりもなく晴

れわたつた冬日和であつた。のび

のびとした氣持で朝寢の床に腹這

つて、朝の煙草をけぶらす枕もと

に、冬のよどんだやうな陽光が、

窓からこぼれさしてくるのである

私はその日ざしをありがたく浴び

乍ら、つぎつぎと煙草の火をうつ

しかへた。

 これからこの淋しい旅宿で越年

して、新らしい年を迎へ、なほ數

日を遊び暮らす心持は、一さいわ

づらはしいことがらを私から追ひ

のけて、今はたゞ妻とどうしてそ

れらの日を暮らさうかといふ思ひ

のほか、私の心は全くのうつろに

もひとしいものであつた。

 散歩好きの妻は、ふたりともに

はじめての、この町の景色を眺め

やうと、私よりはさきに起きて、

窓ぎわの日あたりのいゝところへ

据えた鏡にむかひ、髪をむすんで

ゐるのだ。娘のころは、ひとに欲

しがられるほどたつぷりとあつた

髪が、このごろふしぎにぬけ落ち

てこんなにもすくなくなつたのが

哀しいと、いつか私にうらみごと

を言つたことをふと思ひうかべた


 ひるすぎである。私達はさんぽにで

た。暮れの丗日―もう一日きりで

今年も暮れてゆく―さういふおし

せまつた氣持は、この田舎の村人

とてもなんのかはりはないのだ。

誓文拂せいもんはらひといふ年の暮の市が立つて

近在の村落の人びとは、みなこの

町へ買物にくるのである。それは

田舎町らしいにほひのする、しかし賑

かな眺めであつた。中國の銘酒で

名高いこの町は、ほとんどあのが

らんとした白壁つくりの酒倉ばか

りである。醸造塲から酒倉までの

路を、桶をになつて、つくりたて

の酒をはこぶ若者だちのすがたは

いさましいものであつた。生酒の

にほひがぷんぷんとたちこめて、

或る桶からは、ゆりうごかされた

酒が惜しけもなく路上にはねでた

 人のむらがる町筋はすぐととぎ

れて、みれば一めんの田畑であつ

た。或る小川の奇麗な砂の上に座

つて私達は冬晴れの午後の空をな

がめあきなかつた。こんこんと足

もとを流れる小川の水をじつと眺

めてゐると、なにゆ江となく、「往

くものは水の如し」といふ、人生の

寂寞の果てにゆきついたやうな淋

しい、言葉を思ひうかべずにはゐ

られなかつた。私はうつかりと、

泪ぐむところであつた。私には今

でもさういふくせがあるのだ。


 大晦日は又、冬に珍らしい温か

い日和であつた。南國の冬はあり

がたいものだ。――しみじみとさ

う思ひ乍ら私達は、田家のあひだ

をぬけて、山蔭の路を歩るいた。

川土堤の枯草を焼いてゐた。荷車

をからからとひいて、山かげの路

を遠く、淋しい村落の家へかへつ

てゆく老人は、かれの孫にでもや

るのであらう、奴凧をひとつ空ぐ

るまにのせて、夕ぐれをいそいで

行つた。私達もさういふ親ごころ

をなつかしく思ひ乍ら、子供が欲

しいとひそかにねがつたりしたの

だ。すべてが平和な山村の侘びし

さであつた。

 春になつて、の花がまつ黃い

ろに咲きみだれる頃、そして又、

この川原にゆかしい、なつかしい、

ぽつちりとしたあの月見草が咲き

にほふ、ほのかな、はつ夏の夕方、

螢のとぶ夏の夜ふけ――さういふ

頃のなつかしい氣分を語り合ひ乍

ら、私達の散歩はつきなかつた。


 元旦の朝めしの膳に酒がついて

私は廿五歳、妻は廿一歳の春を、

上機嫌でこの宿にむかへたのだ。

こゑのいゝ妻にうたはせ、はては

をどらせたりし乍ら、氣のむくま

ゝにたはむれ暮らした。階下の室

では、いろあせた藝者やこの宿の

ひとり娘の友達などが集まつて、

終日にぎやかな笑聲がやまなかつ

た。それは私達が寢床についてか

らも、靜かな夜更けをつたひひゞ

く、たゞひとつの人間のこゑのむ

らがりであつた。

 或る日は曇り空で寒い風が吹い

た。さういふ日は終日室にとぢこ

もつて、私は炬燵で原稿を書いた。

それにも倦きると妻に小說を讀ん

できかせた。短い冬の日は、あは

たゞしいほどに暮れいそいで、夜

になると寢るよりほか仕方がなか

つた。晴れた日はあきずに散歩を

した。正月も三日になると、この

宿にも二三人の泊客があつた。四

國の方から渡つてきたといふ商人

だちは、夜になると酒宴さかもりをひらい

てやかましかつた。私の旅費も日

ごとにやせて行つたが、それがな

くなれば、こゝから半日ほどかゝ

る二人の郷里へかへればどうにか

なるといふつもりで、さきをあせ

らうともしなかつた。こういふ氣

儘な旅も半年にいちどだけだ、ふ

たたび東京へかへれば、わづらは

しい生活にひきづられて、妻とも

逢ふことは出來ないのだ――私は

さういふ、やるせない身のうへを

哀しみ乍ら、むさぼれるだけのた

のしみに心をふくらませて、短い

冬の日を暮らした。

 おほ空に寒いゆみ月のかゝる頃

であつたのだ。

――十三年暮。西條の宿にて。――


(越後タイムス 大正十四年三月十五日 六面より)


※文中*部分、下記参照(茶の花→菜の花)




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※記事破損のため一部解読不能な箇所が読めるようになりました。↓




ソフィアセンター 柏崎市立図書館 所蔵

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