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一 錢 亭 雜 稿 (「王友」第十九號)


       本 社 菊 池 與 志 夫

  童 子 の 釣 魚

 大阪の市岡といへば、現今でこそ人家櫛

比の市街であるが、今から四十年前には一

望の草原で、狐狸安住の僻地であつた。私

の家の裏には一筋の野川が流れてゐて、そ

の向ふは一面の田圃であつた。庭續きに裏

木戶を出ると、洗場がその川邊につくられ

てあつたが、或る日、私は母の眼をぬすん

で、父の愛用の小さな釣竿をかついで、よ

ちよちとその洗場へ出て行つて、父の眞似

をして釣綸を川へ投げやうとして足を踏み

滑らし、河中へ落ちた。かん高い子供の叫

び聲を、母が聞きつけて、飛び出して來て

見ると、私は川水に流され乍ら、頭の芥子

ぼん(昔の子供は頭の眞中だけに丸く伸び

た毛を殘して、ぐるりは全部くりくり坊主

に剃つてゐた。これを芥子ぼんと云ふたさ

うである。)だけを浮き沈みさせてゐた。

若い母は、前後の考へもなく、いきなり川

へ飛び込んで、私の芥子ぼんをつかんで水

から引揚げ、呑んでゐた水を吐かして漸く

蘇生させた――といふ昔話を、その母の口

からよくきかされたが、これが私の三才の

時のことであつた。私は生來、釣魚好きで

あつたものと見えて、三才にして既に釣道

樂を覺えてゐたわけである。それといふの

も、私の父が釣道樂だつたので、その影響

をうけたのであらう。その後、六才の時

に、父に連れられて、小舟に乗り、水門が

閉つてゐる時を見計らつて、暗渠に入り込

んで、その石垣の穴にゐる鰻を釣つてゐ

た。するとどういふ間違か水門の扉が、急

に開けられたのである。今までせき止めら

れてゐた川水は奔流となり、あつといふ間

に小舟は押し流されて、あはや瀧のやうに

落ちてゐる水門の向ふ側の川へ顚落しさう

になつたのを、父が必死になつて、石垣の

穴へ手を突込んで、大聲で喚きつゝ、根限

り舟を引き留めてゐるうちに、漸くこの騒

ぎに氣付いた人びとが、慌てて水門を閉め

て呉れたので、危いところで親子が生命拾

ひをしたといふ出來事もあつた。それから

といふものは、私は水難の相があるといふ

ので、暫らく水邊に近づくのを固く戒めら

れたが、釣好きな父は、そのうちに、そん

なことも忘れ果てたもんか、不相變、私を

連れて釣りに行くやうになつた。私は長じ

て商業學校へ通ふ頃になつてからは、學業

を放り出して、單獨で釣りに凝り出して、

危く落第しかけたことがあつたが、もう普

通の人ならば分別盛りの男の厄年を過ぎた

今でも、尚ほ釣りの味が忘れられないとい

ふのも、何かの深い因緣のさせる業であら

うと思つてゐる。

  晴 釣 雨 讀

 私の趣味、道樂は、釣魚と愛書との二つ

しかないから、春夏秋冬、晴れた日には釣

魚を樂しみ、雨の日は書物を愛玩するとい

ふ生活に憧れてゐる。大東亞戰爭の只中に

生きさせてもらつてゐる、嚴肅な事實に眼

を蔽ひ、心を外らさうとする者では斷じて

ないが、ありがたい事には、今の日本で

は、これぐらいの夢を見ていいだけの、心

のゆとりが、個人としての吾われに許され

てゐる。勿論、私は王子製紙會社の事務員

といふ天職に一身を捧げてゐる者であるか

ら、晴釣雨讀と云つたところが、公休日以

外のことを指すわけがない。我社には停年

制が實施せられてゐないから、退社を命ぜ

られたり、依願解傭の外は、生命のある限

り奉職して居られる譯である。たとひ、會

社に停年制が制定せられてあつたとして

も、普通停年と云へば五十五才が通例で、

最近では人不足の關係からか、六十才とい

ふ定めも多いやうであるが、いづれにして

も、私の弱體では、そこ迄たどりつける見

込は全然ない。だから、私のやうな場合、

身心を休養させ、生活を豐富にするため

に、最も多い時間のあるのは公休日だけで

ある。そこで私は晴れた公休日は一竿をか

ついで、一尾も獲物のない釣魚に出掛け、

雨の公休日は家にこもつて、私の短い一生

の晩年のために購ひだめた本を見て樂しむ

のである。ところが、本の方は何も雨の公

休日だけと限られた譯ではない。平日の出

社前の朝でも、退社後の夜でも、或は往復

の電車の中でも、多少の許された時間はあ

るが、釣魚は公休日の一本槍である。週日

がずうつと好晴續きで、この分なら次の休

日には定めし絕好の釣日和にめぐまれるだ

らうと、張り裂けさうな釣魚三昧の樂しみ

に心をふくらませて、その前の晩などは遠

足の前夜の子供のするやうに、ひと通り取

り揃へた釣支度を枕元に置いて、何しろ私

達の釣魚と云へば朝が早いことだしするか

ら、夕食を食べ終るが早いか寢床に就くの

だが、朝の時間に遅れてはといふ氣掛りが

あるためと、釣り場へ着くのももどかし

く、一刻も早く綸を水面に垂れて、心ゆく

まで、釣魚の醍醐味に浸らうといふ、たの

しみの昂奮が、胸いつぱいにひろがつてゐ

るためとで、夜中に幾度も目が覺める。お

ちおち眠れないとはこのことである。軈て

漸く夜明前の程よい時刻が來ると、起され

もせぬのに、平常日とちがつて非常に寢起

きの鮮かな起き方をし、洗顔や朝食もそこ

そこに濟せ、釣支度を辯慶のやうに身につ

けると、いそいそと自家の門をくぐつて、

ひつそり閑とした戶外へ出るのである。未

だ人の往來もなく、犬も眠つてゐる無風の

靜かなひと時である。こういふ天眞爛漫と

も云ふべき純眞な心持は、年齢層の別な

く、釣客共通のものであつて、しかも僅か

一週に一回の樂しみなのだから、思ふ存分

の滿悦を與へてくれてもよささうなものな

のに、誠に世の中のことは萬事、魔多し

で、私の乏しい經驗によれば、天は必ずし

も公休日釣客に萬全の惠みを垂れないので

ある。休日の前日までは無風の好日だつた

天候が、翌朝は灰色の雲低く雨を呼ぶこと

もあれば、砂塵で眼も開けて居られない程

の烈風が吹き荒れるとか、釣場の最寄の驛

を出て、四、五寸にも伸びた麥畑のなかを

歩るいて、中天にひるがへり囀る、雲雀の

聲に心ときめく思にはやり乍ら、ふと遠く

へ眼をやれば、淡彩の桃の花ざかりであつ

たり、若草に交つて、蒲公英が咲いてゐた

り、あちこちと、ひとかたまりづつ、息づ

まるほどむつとする、田舎らしい匂ひのた

ちこめる菜の花畑があつたり、その目の覺

めるやうな黄色い花に、白い春の蝶が止つ

てゐたり、嫁菜、土筆、蓬を摘む子供らが

嬉々としてゐたり、滿月麗らかならざるも

のはない、陽春の朝であつたのに、釣場へ

着いて、竿支度ももどかしく、やつとの思

ひで無風の水面に綸を垂れる頃をねらつて

待つてゐたやうに、春先によく吹く氣まぐ

れな强風が吹いて來て、靜かな釣氣分をか

き亂して了ふのである。釣魚ほど陽氣と風

に敏感なものはないのだから、こういふ心

なき天候の禍はひとり春のみに限つたわけ

ではなく、四季を通じて釣客の心を萎ませ

がちなのである。公休日だけの吾われ釣客

が、ああ今日はいい釣日和だつたと、天を

仰いで感謝できる日は、三度に一度の割合

なら上乗の方である。吾われに冷酷なのは

只天候ばかりではない。これが釣果の點に

なると、更らに一層心細い極みである。

「昨日迄は嫌になるほど釣れたのに・・」

とか、「今日はあんまりお天氣が良過ぎて

魚が上づつてゐる」とか、「水は澄み過ぎ

てゐる」とか、「こう濁つてゐては・・

・」とか、「この邊は網を打つんでね」と

か「こう釣客が多くてはね」とか、無數の

悲しい不漁の理由が、必ず吾われ純一無雜

な釣客の心を蝕ふべく待ち構へてゐる。し

かしどんな非道い目に會つても、どれほど

つれない不結果に終つても、釣客はこりる

といふことを知らない。次の出漁のことを

考へる時には、もう、前週の憂き目をけろ

りと忘却してゐる。こういふことを繰り返

し乍ら、永年、一竿の樂しみに惑溺してゐ

るうちには、稀に決心の釣果に醉ふことも

ある。二年に一度か三年に一度かあるなし

といふ、この金的を射る歡びを味ひたいば

かりに、どんな勞苦も、失望も、物の數で

はないのである。これが釣魚の骨頂であ

り、身上であると、私は思ふ。

   讀  書  人

 木村莊八氏著「随筆 風俗帖」の中の

「讀書」と題する一篇を讀むと、「讀書人

は四十、五十から先きの本舞臺にかかつて

何處か滑稽で、うまく間の抜けたところが

あり、朗らかな樣である。これに反して非

讀書人は稍々もすると陰氣に、寂しく、險

相になりたがるが、自分の見る身邊の生活

(主觀)ばかりを餘り見過ぎる狭さのせゐ

になりはしまいかと思ふ。これは僕はその

人それ/″\の性格だけのことではないと

思ふのである。」といふ一節があるが、噛

みしめて味ひ深い言葉だと思ふ。

 この頃のやうに、他の趣味娯樂があらゆ

る制約をうけて、その捌け口が、簡素で稅

金のかからぬ讀書へ殺到するといふ奇現象

を呈してゐる時代では、私の眼識も怪しい

ものだが、私は昔から、讀書人と非讀書人

とを、その人の眼と肌合ひとで判別するこ

とにしてゐる。どこがどうと一いち指摘す

ることは容易でないが、風貌を一瞥して美

術家がそれと分るやうに、一種の感で見分

けがつくものである。わざわざ斷るまでも

ないが、ここでいふ讀書とは、内田魯庵氏

が口を酸つぱくして力說してゐる通り、自

分の職務上とか研究上の必要からの讀書で

ないことは論を俟たないのである。

  文 章 と 口 演

 私は或る文人が主張する「文章は饒舌る

通り」に書けといふことを身上として、草

文の心構へとしてゐるが、私にとつてこれ

は至難の業である。頭の中ではひと通り章

句が整つて、文章としての表現の形式が出

來上つてゐるのに、いざペンを持つて原稿

紙に向ふと、不思議にも忽ち澁つて了ふの

である。夢で氣に入つた文章が書けたの

で、目覺めて急いで書かうとすると、てん

でペンが動かぬ。辛うじて紙に書いたもの

は、頭の中で出來上つてゐたものや、夢で

書いたものとは、まるで似ても似つかぬも

のとなつてゐる。これは修練が足りぬから

である。

 なにか饒舌らねばならぬことがあつて、

首尾を整へるために、最初に文章で草稿を

つくつてみる。どうにか必要なことは洩れ

なく書けたので、これを頭に入れて置く

が、實際に饒舌つたあとで考へてみると、

あれも云ひ落した、このことも云ひ洩らし

たといふことばかりで、取り返しのつかぬ

ことが多い。これも修練が不充分だからで

ある。

 無駄話や座談や對談などで、天を怖れぬ

放言を吐くことを愼んで、「文章は饒舌る

通りに書け」、「口演は草稿の通りに饒舌

れ」るやうに、自分を鍛錬し直さなければ

ならぬと、もう手遅れながら、痛感し、反

省してゐる。

   御  随  筆 

 「随筆とは、散歩の足跡みないなもので

あると私は思ふ。氣の向いた時に杖をひい

て行つてこそ、散歩に本當の味はひも出る

し、連れの者との話もはずみ、お互に心と

みに和むのである。」とは、「随筆 びい

どろ」の著者杉江重誠氏の言葉である。

又、「随筆とは大便のやうなもので、時が

來なければ出るものでない。」とは、杉村

楚人冠氏の言葉ださうである。いづれも言

ひ得て妙であると思ふ。

 古い歴史そ持つ科學雜誌で「科學知識」

といふのがあるが、この雜誌の編輯者は随

筆に御の字をつけて「御随筆」と呼んでゐ

る。

「どうか御随筆をひとつ御執筆下さい。」

とか、私も三回程書いたものを載せてもら

つたことがあるが、原稿が届くと、「御随

筆確かに落手いたしました。何月號の誌上

に掲載いたします。」といふ叮重な葉書を

もらつたことがある。「大便のやうなもの

である」随筆に御の字を冠せて御随筆と呼

ぶと、御随筆、御随筆と口づさんでゐる内

に、どうも可笑しさが込み上げて來て、肝

心の御随筆は一行も書けぬやうな氣がす

る。

 私は、公用文や私簡で「御」の字の使ひ

方が分らず、いつも苦勞してゐるが、他人

の書く随筆だから敬語の「御」を使つたん

だと言はぬばかりの、「科學知識」の編輯

者の徹底した、科學的な行き方を眞似れ

ば、何も苦勞することはないと、漸くそこ

に氣がついて、爾來、氣が輕くなつたやう

である。

   趣     味

 趣味にうつつを抜かしてゐる人の行動や

話は、罪のない、子供くさいもので、誠に

稚氣愛すべきものである。玉突きに凝つて

ゐると、昔の米屋の看板が玉突屋に見えた

り、夜、寢てからも天井を玉突臺に見立て

て、あの隅で寄せ玉を失敗したと口惜しが

つたり、圍碁、將棋の好きな人は、天狗話

がはづんで、眞に自分が弱くて負けたとい

ふことを承服しないのが共通性らしく、負

けた人が、「あの一番はホンの一寸した見

誤で負けたんだ。」と頑張ると、勝つた方

は「何んでも勝負事は、ホンの一寸した見

誤で決ふんだ。」と應酬するし、釣好きの

人は、分別盛りの男が、中には非常に社會

的地位の高い人など迄が、釣餌の「みみ

ず」や「ごかい」などを手に入れるのに血

眼になつて騒いだり、浴槽へ釣綸を垂らし

て、浮木下の加減を調べたり、雨で出漁の

出來ぬ日にはぼうふら除けに飼つてある防

火用水槽の罪もない金魚を釣り上げて憂さ

を晴らしたり、スケートに凝つて居る人

は、事務室の床を滑走するやうな足つきで

歩るいたり、ゴルフに熱中してゐる人は、

一寸腰をひねつて兩手を右肩上へ振りあげ

てみたり――こんなことを書き出したら限

りがないが、これらは皆、本人としては、

無反省で、無意識で、無邪氣であつて局外

者が彼是批判がましいことを云ふべきでな

く、只、微笑ましく見聞してゐればいいの

である。自分に何かそれに類する趣味があ

れば、その境地は充分分る筈だし、全然何

一つ趣味がないといふやうな、心のゆとり

も潤ひもない低溫人間などは、他人のこと

に一言の容喙をする資格がないからであ

る。

  木 版 畫 と 藏 書 票

 私には繪心は全然ないが、ただ漫然と繪

を見るのは好きである。しかし、洋畫や日

本畫を買ふだけの財力がないので、版畫集

を買つたり、自分の藏書に貼りつける藏書

票をつくつてもらつて樂しんでゐる程度で

あるが、數年前に始めて川上澄生氏に、ラ

ンプの繪を畫いた藏書票をつくつてもら

ひ、その後、毎年一つづつ違つた作家に製

作を賴んで、今では六種の藏書票を持つて

ゐる。最初、私の弟の嫁に、我國水彩畫の

泰斗三宅克己畫伯の姪を貰つたので、今年

は是非、眞鶴の畫室を訪ねて、美しい藏書

票の原畫を一枚懇願しやうと思つてゐる。


 さて、私の持つてゐる藏書票の話である

が、最近の郵便切手などの圖案は全部その

人の手になるといふ、加曾利鼎造氏に「お

らんだ船」の繪に「一錢亭文庫」の五字を

入れてもらつたのが一枚、






 太田臨一郎氏に、「本と酒壺とマドロス

パイプと卓燈」といふ慾張つた圖柄に「菊

池與志夫の愛書」の八文字を畫いてもらつ

たのが一枚、



茨木猪之吉氏に、「孟宗竹林と山椿と臥

牛」の繪に、「一錢亭藏書」と入れてもら

つたのが一枚



―この三枚は藏書票交換會の作品で、

全國の同好者と交換し合つたものである。その

他に、中津工場の青木千代麿氏に懇望して、作

畫 製版、刷上げ迄全部同氏の手を煩はしてつ

くつてもらつたのが二枚ある。






 この内、椿の繪は、我國藏書票の權威者

である、齊藤昌三氏から推賞されたもので

ある。前の三枚が、その道の専門家の作品

でどことなく垢抜けがしてゐる代りに、色

彩がけばけばしく、版畫として餘りに奇麗

にすつきりとまとまり過ぎてゐるのに比べ

て、青木氏のは、素人くさい、稚拙味があ

つて、いかにも木版畫らしいところが好も

しい。わが社で木版畫をつくる人は、私の

知つてゐる範圍では、靑木氏の他に、淀川

工場の前島秀秋氏があるが、自家用の藏書

票を持つてゐるのは、矢部隆常氏と靑木千

代麿氏だけを知つてゐる。



 エッチングなどと違つて資材關係から考

へても、これからは木版畫が大いに旺んに

なるものと私は思ふ。差出がましいことを

言ふやうではあるが、社内の愛書家諸氏が

率先せいてこの木版藏書票に趣味を持つ

て、各人個性の滲み出た作品をつくられる

やうになる日を私は待望してゐる。

     (昭和十八年四月二十六日稿)


(「王友」第十九號 
  昭和十八年十二月二十八日發行 より)

※一錢亭の最後の随筆。


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               紙の博物館 図書室 所蔵


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