湖畔の天幕生活 (三)
湖畔の天幕生活 (三)
四
◇今、月は山の端を離れかけてゐ
る。夜空にはひときれの雲もない。
よく晴れた夜となつた。亭のそば
をぬけると、夕方張つて置いたテ
ントのところへでる。杉だの、檜
だの、松だの、雜草だのに圍れた
平地に、白い屋根だけがほのかに
み江る。だが、こゝまでのぼると冷
江び江するやうだ。
◇私は二つの小田原提灯を亭の軒
に吊るした。と、これはまた素敵な
情景ではないか――江戶末期の祭
禮の夜景を縮めて、ずつと靜かに
したやうな床しさを。それは偲ば
せるに十分である。向ふの岸の宿屋
の窓からもれる明りだつて、此處
からみればあの通り美しいのだ。
だから若し向ふ岸の人が、このこ
んもりとした山腹の林の中に、ぽ
つちりと何かの眼玉のやうにもみ
江る二つの明りが點つてゐる情景
をみたとしたら、どんなにも彼ら
の心をひくことか知れない。
◇宿屋の窓にもたれた旅人だちは
きつとこの灯をみつけるだらう。
そして次のやうなことを話し合ひ
乍ら、彼らの旅情を深くするにち
がひない。
「今晩は、あの山に灯がともつて
ゐるではないか」
「きれいだな。あの灯の下へ行つ
て一夜を明かしたいやうな氣が
するね」
「實にきれいだ。明日の晩はひと
つあそこらまでぶら/\散歩し
てみやうではないか」
「あの灯は今のさきともつたばか
りだね。きつと若い人達が天幕
をはつてゐるのだらう。あそこ
ら邊は天幕旅行者の野營地ださ
うだから。若い人々は元氣だな。
きまりきつた宿屋の味などより
は、あゝした生活の方がずつと
面白いやうだ。僕も若いときに
二三度やつた覺江があるが」
「ほんたうに若い時代が思ひ出さ
れるね。あの灯をみてゐると。
妻を持つてからといふものは僕
も身体がよほど駄目になつてし
まつたやうな氣がする。あんな
ことをやつてみやうといふ元氣
も出ない」
「さうだね。せめて今夜はあの灯
の消江るまで、窓をあけておい
て、蚊帳の中からでも眺めてゐ
やうではないか。そして、われ
/\の、在りし日の靑春を思ひ
出してみやうではないか」
こんな話を交へる旅人達のとま
つてゐる一室が眼にあり/\と浮
んでくるほど、私は空想の多い男
である。
◇Y君はとみると、私がうつとり
と夜景にみとれてゐるひまにもう
寢床の用意をとゝのへてゐる。そ
して今は、天幕の中で硫黄をたく
仕度をし終つたところだ。これは
蚊を殺すためである。實際、山の
蚊はひどいものだ。硫黄が燃江き
ると、用意してきた香水を幕の中
へふりまいた。云ふまでもなく、
硫黄の嫌な嗅を消すために。暫ら
くすると毛布も敷かれ、もう寢床
もすつかり出來上つてしまつた。
Y君とO君とはもう眠ると言ふ。
わたしも眠いことは眠いが、この
麗しい明月の夜を捨てゝしまふの
は、いかにも惜しいと思つたので
もうすこし起きてゐることにした
T君が「僕もさうしやう」と言つ
て呉れたので、二人は天幕へ入る
私とT君とは、亭に腰をおろした
のである。
◇みると月はなんのわだかまりも
ない空を指して高くのぼつてゆく
ばかりである。山も靑い、湖も蒼
い、そして夜の大氣は、眞珠の白
さにみちてゐる。二人はこの風景
の前にゐて暫らくはたゞ默つてゐ
るばかりである。
「やッ、あそこに人がゐるぢやな
いか」
だしぬけにT君がこう言つて指
した方をみると、露のきら/\光
る木の葉の隙を遠く下に眼を走ら
せたところに――そこは恰度、黑
い大きな岩の幾つも飛び出てゐる
岸邊にあたつてゐるが――なるほ
ど、白い人の影が一つみ江る、誰
れだらう――私はさつき描いた空
想の人が、あまりの美しい夜景に
た江かねて、こゝら邊まで、ぶら
/\散歩に來たのにちがひないと
思つてみた。その人が明笛でも吹
いてくれゝばいゝがと思ひながら
二人は時折、その方へ眼をやつた
――併し、白い影はさつきからす
こしも動かないらしく、いつまで
も同じ木の葉のすき間をとほして
眺められるのである。
◇私はこれはすこしおかしいなと
思つて、
「あれはずゐぶん背の高い人にみ
江るね。それにさつきから二十
分もあそこに佇んだまゝではな
いか。よほど熱心に風景にみと
れてゐる人か、さうでなければ、
身でも投げやうとしてゐるのか
も知れないよ、あの人は」と、
T君の顔をみ乍ら、こう云つて
みた。するとこの私の言葉で、T
君もすこしへんに思つたのだらう
さつきよりはなほ注意深くみつめ
だした。私は生憎ととりめになつ
てゐるので、それに眼鏡の度がよ
く合はないためか、たゞ白い人の
影としか、どうみつめてゐても見
江ないのである。
◇そのうちにT君は、
「なあーんだ、馬鹿にしてるぢや
ないか。あれは人ぢやないんだ
よ。星だよ。よく見てみたまへ。
ほら、あそこに西の方へ大分落
ちかゝつてゐる一つ大きな星が
あるだらう、なんと言つたつけ
な、いやにピカ/\と靑く光る
――あの星が水に映る影だよ、
あの白いものは」
と笑ひ乍ら、右手を西空の方へ高
く掲げて、それから靜かにまつ直
ぐにおろしてみせた。
◇なるほど、さう言はれてみると
私にもそれが頷かれるのである。
「さうか。あれは宵の明星だよ。
金星とかいふ星ぢやないか。あ
まり、あたりが神秘だから、わ
れ/\は、つひつり込まれて、
イルユージォンを起してしまつ
たのだらう。どうも、すこしへん
だとは思つてゐたが」
私はさう答へた。
「僕もへんだと思つて、よくみつ
めてゐると、あの白いものがゆ
らゆらとゆれるぢやないか。だ
から、何にか高い處にあるもの
ゝ影が、水に映つてゐるのぢやあ
るまいかと思ひだしたのさ」
こんな罪のないことを話合ひな
がら、私とT君とは、更けるにし
たがつて、いよ/\冴江ざ江とし
てくるあたりの夜景の中につゝま
れ、心ゆくまで、美しい自然を貪
つてゐた。
◇夜は更けてしまつた。と、どこか
らとなく、太鼓の音がひゞいてく
る。おや、どこからだらう?と眼を
みはると、はるかに遠い湖面に、
無數の提灯で飾られた、多分舟で
あらう――だがこゝからみたので
はそれが舟だとは思へない、大き
な雪洞でもうかべたやうである―
灯火のかたまりのやうなものが、
ゆら/\ゆれてゐるのがみ江る。
さう、あれが、さつき下でちらッと
耳にはさんだ、この湖の神を祀る、
昔から傳はつてゐる習慣なのでは
あるまいか。恰度、燈籠流の情趣
にも似たところの。
◇わたしは、數々の美しさによつ
て、すつかり魅せられてしまつた
やうだ。氣が遠くなるやうな風に。
もうこれ以上こゝにゐると、私の
やうな人間は、氣が狂つてくるか
も知れない――わたしは、へんに
不安を感じてきた。そこでわたし
は立上つて、そつと、小田原提灯を
軒から下ろしたのである。
「もう寢やうか」と私が口をきる
と、T君もうなづいた。
◇二つの明りは亭の軒を離れてし
まつた。もしも、私がさつき空想し
たやうな旅人が對岸の旅宿にゐる
としたら、その晩はこんなことを
話合ひ乍ら、眠りについたことで
あらう。
「あ、もう明りが消江たやうです
ね。さァ、われ/\の靑春の思ひ
出も、もうお終だ。今晩はもう
眠ることにしやうか」
「われ/\も靑春に別れるときそ
んな淋しさを味はつたからな」
「さうだつたね」(未完、全5回)
(越後タイムス 大正十二年九月廿三日
第六百十七號 五面より)
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