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死人と老眼鏡 (下)

 その夜のことである。

 ほのぐらい洋燈ランプのしたで、叔父

と叔母と、美代子と章吉は食卓を

かこんでゐた。彼と叔父、叔母と

彼とのあひだには、さかんに盃が

交されてゐた。

 裏庭で雞がさわぐ音がすると、

跫音といつしょに、くらがりから、

聲がした。

 それは父の若い頃の友達だつた

といふ、M老人であつた。

黑びかりのする、くすみきつた、顔

を洋燈の灯に近づけながら、六十

ちかいその老人はしやがれ聲で章

吉にあいさつした。

 章吉はすぐその老人に近づいて

ゆけた。彼等は、さま/″\な方面

での父の話にふけつた。父の若い

頃――大酒家でおまけに、蕩兒で

あつたことや、章吉の母と結婚す

る前に或る女と半年ばかり、同棲

してゐたことなどは、彼がはじめ

て知つたことである。章吉の近親

の人だちは、父の名譽のために、

父の生前の暗いことをかくしてゐ

たのだ。しかし、今、章吉はそれら

のことをいくらきかされやうと、

けつして父を卑しむ氣にはなれな

かつた。彼はすでに、純潔な生活

を守つてはゐなかつたし、酒だつ

て、童貞だつて、父以上に早くか

ら亂れてゐたのである。

 彼にむかつては、どつちかとい

ふと、謹厳な態度を示してゐた父

の晩年を思ひ出し、父の一面に、

そんな人間味がかくされてゐたこ

とを、むしろ、おくゆかしくさへ思

つてゐたのである。――

 叔母は、ひざの上へ、突伏して

了つた美代子を寢床へいれに立つ

ていつた。

 Mぢいさんは、小聲で唄をくち

づさんでゐた。

「三味線をもつてきや」

 叔父は盃をカタンとおいて、叔

母によびかけた。

「あんた、こんなものが三味線の

 箱のとこにおいてあつたがナ。

 だれのぢやらう?」

叔母は三味線をそこへおき乍らサ

ックに入つた老眼鏡をさしだした

 章吉は、つめたい銳い水銀が、

背すぢを走るのを感じた。彼の頬

と唇は、けいれんした。彼は靜かに

叔父の眼をみた。そこには、純朴

な、無感覺にちかい、善良な、一

つのみなれた顔が、酒で赤ぐろく

そめられながら、微笑をうかべて

ゐるだけであつた。

「それや、老眼鏡ぢやよ」

「あんた、買うて來たんナ?」

「いんや、章まのおとゝのぢやつ

 たのや、それを骨といつしょに

 埋めるつもりかしらんが、わし

 が、ちょつと、骨箱をのぞくと、

 中にいれてあつたけに、つまら

 んことをすると思ふて、章まに

 は惡るかつたが、黙つてのけと

 いたのぢや。恰度、わしも眼が

 不自由で困つちょつたところぢ

 やけに、ねがつたやうなものぢ

 やつた」

「あんたはよくもそんな空恐ろし

 いことをしやるナ。あんたはほとけ

 のばちいゆうものを知らんのかい

 さもしい了見ぢやなァ」

 叔母は眞劍に叔父の行爲の不當

なことをなじつた。

「生きて動いとる人のを取り上げ

 るのぢやつたら惡るいか知れん

 が、骨になつた人のぢやもの、

 第一眼鏡のいらうやうもなし、

 又、佛へ義理をたてゝ、一處に

 埋めるちゆうのは、それこそ、つ

 まらん話ぢやからのう」

 叔父はつまらんといふことだけ

をたてにとつて、なか/\叔母に

まけてゐなかつた。

「あんたが、そね江いふんやつた

 ら、もうどうでも好きにしやれ

 わしや第一、佛にすまんし、章

 まにもすまん思ふとふからナ。

 佛の罸があたるんやつたら、あ

 んたひとりに、ひどうあたるの

 ぢやからナ」

 章吉は默つて二人の話をきいて

ゐた。彼は不快だつた。夕方、墓

地でつよく胸をうたれた、怪異な

出來事のすぢみちをたどつてみれ

ば、たかが、こんなことにすぎなか

つたのか――こんな氣持の惡い、

からくりをみせつけられるくらゐ

なら、自分は恐ろしい神秘力の毒

氣にうたれて倒れた方がよつぽど

ましだ。彼はこう思つていら/\

してきた。あのとき、美代子にせが

まれなかつたら、眼鏡は父といつ

しょに土の中に埋められたとばか

り信じて、安心してそのまゝすご

したのだ、また叔父にしても、今、

叔母が、それをみつけだしさへし

なかつたら、默つてすませるつも

りでゐたのにちがひない。章吉は

自分の眼ではつきりみてゐない時

間に、どんな恐ろしいことや、卑

しいことがどこかの片隅で起つて

ゐるかといふことを考へて、から

だに泡だつ惡寒を感じたのである

 だれの眼からみても、叔父は善

良な素朴な、そして正直な人間に

ちがひなかつた。しかし、その叔父

でさへ、死人に對しても、自分に

對しても、こんな不愉快な冒瀆と

不正直とをしてゐるではないか―

こう考へてくると章吉の感情はた

かぶるばかりだつた。

 彼は叔父にしろ、叔母にし

ろ、もうそんなことはけろりと忘

れたものゝやうに、叔父はM老人

に合せて、「びんのほつれ」といふ

端唄をうたつてゐるし、叔母は、

爪彈で三味線をやりだしてゐたの

である。

 章吉は父が死んでからまだ十日

とたゝないうちに、こんなさわぎ

をするなかに自分をみいだすのが

悲しかつた。不快だつた。三味線

だけはやめてほしいと思つて、彼

はM老人に話しかけた。

「今年の田の方はどうです?」

「いや、つまらん。かいもく、つま

 らん。わしのやうに、人間がつま

 らんごとなると、田まで好い顔

 はしてくれやせん。馬鹿にしく

 さつてな」

 M老人の顔に、淋しいかげがす

ーうッととほつたやうに、章吉は

感じた。

「來年から、百姓はもうやめぢや」

 M老人は、心のそこからなげだ

すやうにかういつた。

 自分の愛する父の骨といつしょ

に老眼鏡を土のなかに埋めやうと

する、章吉だちの心もちを叔父は

つまらんことだといつて笑つて。

――章吉は叔父のエゴイズムが呪

はしかつた。が、今、彼の前で心の

そこからしょげきつてゐる、M老

人が、自分の晩年の衰類をつまら

んといつて哀しんでゐるのをみる

と、なにかしら、あらたかな氣にう

たれるのを覺江たのである。

 (十二年五月)


(越後タイムス 大正十二年五月二十日 
      第五百九十八號 二面より)




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