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命がかかると厳しくなる

先日、ワクチン接種を巡って、自分で意思決定をしたいという大学生の子供にどのように向き合うべきかという記事を書きました。

私なりには、とにかく「子供の命を守ることが最優先」なので、それを達成するための思考を整理したものです。

しかし先日、子供には散々言われてしまいました。「脅すなんて信じられない」、「もう父親が怖くて無理」といった具合です。子供を傷つけてしまったであろうことを考えると、残念ではあります。本意ではありません。

ただ私自身、このワクチン接種は命に係わる問題だと思っているので、それによって子供に憎まれようが、恨まれようが、それで大学卒業時までの間、ワクチン接種を防げるのであれば、それでよしとしたいと思っています。

仮に子供が望む通り、子供に判断を委ねるような状況にしておいて、出てきた結論が「ワクチンを打つ」だったら、それを覆すのは相当に大変だと思われます。結論が出る前に動かないといけませんでした。万が一、ワクチンを打ってしまったら、子供とはお別れする覚悟が必要だと考えていました。なので、命さえあってくれるのであれば、そのことに感謝したいと思っています。

ここで、ちょっと違う話をします。

私、体罰は大嫌いです。絶対に容認するつもりはありません。

大したことではないですが、自分が高校で運動部に所属していた頃、よく上級生から苛められていました。下級生である私たちの態度が悪い、声が出ていない、挨拶がなかった・・・いろいろな理由をつけられて、練習を早めに切り上げた上級生が、下級生を延々と走らせるのです。走らされている間、上級生は下級生に罵声を浴びせ続けます。

下級生だった私は、走らされ続けながら、「こんな時間があるのなら、上級生が走ればいいのに。そうすれば、体力もついて、チームも強くなるだろう。一体、何をやっているんだ?」と疑問で、疑問で仕方ありませんでした。

私たちの時代は、まだまだ学校で体罰のようなものが多かったように思います。小学校のときでも、友達が先生からぶっ飛ばされているのを見たことがあります。今だったら、大問題になっていることでしょう。

こうした体罰や苛めのようなものは、戦後まもなく、学校の先生に旧軍人がたくさんいて、その人たちによる影響が大きかったという話をよく聞きます。

例えば、こちらの論文では、運動部における体罰について、軍隊起源説を検証しています。

当時の大学にはミリタリスティックな雰囲気が相当に漂っていたと思われる。1945 年から数年間の記述には「軍隊帰り」「兵隊帰り」「みんな戦争帰り」「戦争に行きシベリアに抑留」「予科練から復員」等々の表現が随所に見られ,この時期の野球部に多くの軍隊経験者がいた事実を確認できる。
※鈴木秀人(2020)「「軍隊起源説」から考える運動部の「体罰」」、体育学研究65、211頁

論文内では、軍隊起源説に対して懐疑的な扱いになっていますが、こうした記述をみても、やはり軍隊の影響というのは、何かしらあったのではないかと思えてなりません。

体罰も苛めも絶対によくないです。さっきも言いましたが、私、そういうのは大っ嫌いです。

ただ、軍隊のことを考えると、少々の体罰というのはあり得るのではないか?と思ってしまうのです。

軍隊がいるところは、言うまでもなく戦場です。いつ何時、敵の攻撃を受けるか分かりません。敵から隠れていなければいけない場所では、静かに、迅速に行動しなければならないはずです。それができない人が一人でもいるだけで、部隊が全滅をしてしまう可能性だってあります。

そうであればこそ、それができない人には、相当に厳しい方法で伝える必要があることは容易に想像できます。その人の命はもちろんのこと、部隊全員の命が懸かっていると考えたら、体罰のような仕打ちが行われる事情、少しは分かる気がするのです。

今回の大学生の子供に対する私の対応というのは、もしかしたら子供にとっては精神的な「体罰」や「苛め」に近いものだったのかもしれません。私にそのつもりがなくても、子供の側ではそのように捉えられてしまったように思います。

しかしどうしても、そうせざるを得ませんでした。命が懸かっているのです。いうなれば、今の社会はもはや戦場です。私の行動は、その認識下なので、子供との間にはそのあたりのギャップもあるのだと思います。

こういう動画をみると、私の対応はよくなかったのかもしれません。いや、命がかかる話でなければ、多分、如何様にでもできたと思います。また学校での集団接種などが報道されていた時期でもあり、十分な時間があるとも思えませんでした。前述の通り、戦場での措置に近かったと思います。

いずれにせよ、状況は人それぞれですし、一概に何が正しいということは言えません。

したがって、どんな対応をするにしても、大切なのは、そこに愛はあるのか?ということなのではないでしょうか。

愛から生まれたものであれば、誤解が生じてしまったり、そのことで一時的に憎しみや恨みが生まれてしまったとしても、いずれ真意は伝わってくれるものだと信じたいものです。

最後に、こんな投稿をご紹介しておきます。

親として、子供たちにこんなものに参加するかもしれない余地を残しておくことは、絶対にできません。生きてさえいてくれれば、何とでもなる・・・。



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