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「持統天皇と藤原不比等」の正統化

本題に入る前に、私は日本古代史を、ただの昔の話と考えていません。これは現代にも通じる立派な社会問題のひとつとして考えています。

例えば、保守の人たちが「日本大事!」、「国家を守れ!」、「皇室を維持しろ」、「男系は伝統だ!」などという話をします。

それらの主義主張を否定するつもりはありません。しかし、そういう人たちが日本という国の成り立ちや、天皇とは何なのかについて、どういう認識なのだろう?という点、考えてしまうのです。

例えば、その歴史観が、古事記や日本書紀によるものだとして、「その書物、鵜呑みにしていいのですか?」というのが、私の問題提起です。ついでに言っておけば、幕末から明治にかけてだって、国体を巡る怪しい動きがあります(それはここでは触れません)。

日本という国を大切に思うのであれば、その日本に対する深い理解が必要です。本来、日本がどういう国だったのか、本当の姿はどうだったのか。私はきちんと知ろうとする努力が必要だと思っています。

マスコミによる情報操作は認めないのに、私たち日本人の根源である「日本」に対する情報操作には目をつぶるというわけにはいきません。真実を知らない人は、いつも真実を知る人に振り回される・・・そんなのゴメンなのです。

さて、それでは本題に入ります。

大化の改新でヒーローとなっているのが、蘇我氏を討った中大兄皇子中臣鎌足であることは言うまでもありません。この時、それまでの歴史書が焼失してしまっているため、天武天皇の時代に、新たな歴史書の編纂事業が始まりました。その結果、古事記や日本書紀は、日本最古の歴史書となっています。この記紀(古事記と日本書紀)の成り立ちや背景については、既に別記事にまとめている通りです。

記紀は、漫然と正しい歴史書とみるべきではありません。当時の政権を正統化する意図があったという見方が重要です。そう考えたとき、誰を正統化したものなのかをよく考える必要があります。そして私は、持統天皇と藤原不比等が、そのカギを握っているのではないかと思っています。

元々、記紀については、天武天皇が命じて作られたと言われています。これをそのまま信じれば、天武天皇の正統化に編纂されたという解釈になるかもしれません。しかし、もう少し考えなければいけないです。

大化の改新で主人公の一人であった中大兄皇子(天智天皇)が亡くなってから、あの有名な壬申の乱がありました。細かいことは置いておいて、この時代、皇位争いがかなり熾烈であったことは間違いありません。そういう視点で、この時代を見ていかなければならないのです。

天武天皇在位が673年~686年です。記紀の成立年が、それぞれ712年と720年ですから、それらは天武天皇の時代からだいぶあとの話になります。記紀成立までの間、持統天皇、文武天皇、元明天皇、元正天皇という治世を経ていることになります。その間、何が起こっているかを考えるためにも、一旦、系譜を確認してみましょう。

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実は、こうしてみてみると天皇家において、天武天皇側の男系としての血筋は途絶えていることが分かります。皇室は、50代・桓武天皇のところから先に続いていきます。男系の血筋としては、天武天皇ではなく天智天皇のものになっているのです。

ここで注目すべきは、持統天皇です。天武天皇と持統天皇は、夫婦です。陵墓も同じところにあります。

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ウィキペディアには、天武天皇の項目に「その治世は続く持統天皇の時代とあわせて天武・持統朝などの言葉で一括されることが多い」という記述すらあります。つまり、天武天皇と持統天皇は、それだけ一体とされているのです。

しかし、上の系譜をみれば明らかなとおり、持統天皇は血筋で言えば、天智系に入るわけです。ここに非常に重要なポイントがあります。

記紀では、天武天皇と持統天皇が非常に仲睦まじく、ここにはまるで争いがなかったように書かれてあります。しかしその実、(天武天皇自身ではなくとも)天武系の皇族とは、権力争いがあった可能性を考えなければなりません。両系の間には、壬申の乱という骨肉の争いがあったのも事実です。

このストーリーに真実味をもたせるのが、藤原不比等の存在です。藤原不比等は、大化の改新で中大兄皇子(天智天皇)と並んで、悪臣・蘇我氏を討ったことでも有名な中臣鎌足(藤原鎌足)の息子であり、あの摂関政治で有名な藤原氏の実質的な始祖ともいえる人物です。いわば、超大物です。

しかし、この超大物、実は天武天皇の時代にはサッパリ出てきません

『日本書紀』に不比等の名前が出るのは持統天皇3年(689年)2月26日(己酉)に判事に任命されたのが初出で持統天皇所生である草壁皇子に仕えていた縁と法律や文筆の才によって登用されたと考えられている。また、こうした経歴から不比等が飛鳥浄御原令の編纂に参加していたとする説もある
※ウィキペディア「藤原不比等」より引用

藤原不比等が、歴史上の人物として最初に出てきたのは、天武天皇が亡くなった後、持統天皇の時代になってからなのです。数えで32歳だったようです。少し引っかかりませんか?大化の改新の大功臣であった人物の息子が、それまで表舞台に全く出ていなかったのです。

元々、壬申の乱のとき、天智系(大友皇子)と天武系(大海人皇子)が争っているわけですから、藤原不比等が天智系側の人物だったとしたら、割と簡単な構図で、説明ができます。

持統天皇&藤原不比等=天智系

天智天皇の娘&藤原鎌足の息子=天智系

これには、いくつかの記紀の記述がヒントになります。記紀には、数多くの神話が語られていますが、あれらはただの空想話ではありません。何かしらの史実を含んだ暗号文として捉える必要があります。

ひとつのポイントは、天照大神の国のトップとしての成り立ちです。

天照大神は、伊勢神宮の内宮に祀られている神様として有名です。伊勢神宮の外宮には、豊受大神が祀られています。仮に神様に性別があるとしたら、天照大神は男性で、豊受大神が女性ということになるでしょう。ペアになっているわけですから、男性・女性となりますが、通常、陽が男性陰が女性となります。太陽神としての天照大神は、男性であったと思われます。

しかし、例えば古事記において、天照大神には「大日女尊(おおひるめのみこと)」という別名がつけられています。あきらかに女性です。したがって、現代においても、天照大神は女性であるというイメージが定着しているように思います。

さておき、この女性と思しき天照大神は、出雲大社の大国主大神から国を譲り受けます。いわゆる「出雲の国譲り」神話です。

この時、天照大神の使者として活躍するのが、大国主大神の元に遣わされる武甕槌命(たけみかづちのみこと)と経津主命(ふつぬしのみこと)の二柱です。この二柱の活躍により、見事、天照大神は大国主大神から国を譲られることに成功するのです。

つまり、天照大神の部下として、武甕槌命と経津主命という二柱の神様の活躍があってこそ、天照大神は国を持つことができたわけです。

さてさて、ここから藤原不比等が興したとも言える、藤原氏に目を移していきたいと思います。

藤原氏の祖神は、天児屋根命(あめのこやね)という神様になります。この天児屋根命を祀った神様として、最も有名なのが春日大社です。その春日大社のご祭神は、このようになっています。以下、春日大社のHPです。

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ご覧いただければ分かる通り、国を譲り受けた女神・天照大神を支えた功臣である武甕槌命と経津主命が、バッチリ祀られています。この二柱は、天児屋根命よりも、先に表記されているくらい重要だと言えるかもしれません。それだけ、藤原氏にとって、武甕槌命と経津主命という神様は特別だということです。

つまり、記紀のなかで表されている天照大神と武甕槌命・経津主命の構図は、大化の改新後、記紀をまとめた時代である持統天皇と藤原氏を表していると思われるのです。

国のトップ=天照大神(女神)、功臣=武甕槌命・経津主命
国のトップ=持統天皇(女性)、功臣=藤原不比等(藤原鎌足?)

記紀は、天武天皇によって編纂が命じられました。しかし、こうしてみてみると、それらは持統天皇・藤原不比等の正統化に使われた可能性があるとみなければなりません。そこには、一代では終わらない天智系と天武系の権力闘争があったと考えられます。

蛇足ですが、武甕槌命と経津主命は、元々、それぞれ茨城県と千葉県にある鹿島神宮と香取神宮に祀られている神様です。とくに鹿島神宮では、シカが神様の使者とされていて、奈良公園のシカ武甕槌命(鹿島神宮)のシカとされています。

広大な敷地を持つ奈良公園の一部は春日大社の境内でもあります。 その春日大社の祭神、武甕槌命(タケミカヅチノミコト)は鹿島神社(茨城県)から神鹿に乗ってってやってきたと伝わるため、鹿は神の使いとして古くから手厚く保護されてきました。 現在も奈良の鹿は天然記念物として大切に保護されています。
奈良市観光協会HPから引用

もう少しツッコんでいうと、藤原氏タカミムスビという神様とも、重ねられている部分があるかと思っています。ただ、この話まで入ると、またいろいろとややこしくなりそうなので、今回はこれくらいにしておきます。

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