永平寺の限界と日常生活
紙のショッピングバッグって、とても便利です。買い物のときにもらってきて、誰かに何かを渡すとき、その中に入れて持ち歩いたりします。いろいろなサイズがあるので、サイズ別にストックしておき、用途に合わせて使っている人も多いのではないでしょうか。
でも、所詮紙です。重いものは運べませんし、濡れてしまったら破けてしまいます。
紙のショッピングバッグの話をしたいわけではありません。どんなに便利なものでも、その限界を知り、きちんと理解しなければ、うまく使うことができないということを確認しておきたいのです。
さてさて・・・昨年末、永平寺に行ってきました。座禅もしてきました。でも、何も変わりませんでした。
そりゃ、そうです。今さら、どこぞの宗教にお邪魔をして、そこで悟りを開けるとは思いません。どんなものであれ、宗教に対しては違和感をもってしまいます。
もちろん、永平寺批判がしたいわけではありません。永平寺には、永平寺の良さがあると思います。そこで修行を積まれたり、座禅を組んだりということに、意味がないわけがないです。しかし、限界があることも事実です。
紙のショッピングバッグと同じです。その限界を知っておかないと、それをうまく使いこなすことはできません。ここでは、その限界の部分について、言及してみたいと思います。
まず永平寺の参拝順路に沿って進んでいくと、割と序盤にこのような立派な広間に行きつきます。
立派な空間で、気分がいいです。ただ、ここで気になったのは、そこに飾られている肖像画でした。大変、見事な肖像画で、高僧らしき人物が描かれています。私は名前は知りません。しかし、とても偉いお坊さんのようでした。
まず、ここで違和感です。
こうした肖像画を掲げてしまうと、これを見た人々が、その人物のことを勝手に「エライ」とみてしまうことでしょう。
※これ以降「エライ」の中身は、一旦、横に置いておきます。
もちろん、実際に「エライ」のかもしれません。しかし、こういうものを掲げてしまうことには、危なっかしい側面があります。
宗教というのは、精神世界のような目に見えないものを多く扱います。見えにくいので分かりにくいです。宗教の難しさは、まさにそこにあるともいえます。
したがって、そういうものを分かりやすくするために、目に見えるかたちにするのです。
例えば、それが偶像です。偶像を使うことで、宗教が説きたい「大事なもの」は、自分の目の前にあると感じさせることができます。
しかし、それを偶像という目に見えるかたちにしてしまった瞬間、本来、宗教で解かなければならない「大事なもの」からは、かけ離れてしまうことになるのです。
その高僧は「エライ」のでしょう。
しかし、だからこそ、「そんな肖像画を掲げない」という方が、真の意味では「エライ」を体現できたと思います。しかし、それだと伝わりにくいのです。
なので、肖像を掲げるわけです。高僧の立派な肖像画を掲げてしまえば、その高僧が「エライ」人だということになります。当然、弱い人間は、「あんな風になりたいなぁ」などと憧れたりすることにもなるでしょう。
しかし、名誉欲なんてものを振り回されていいわけがありません。ましてや、禅寺で、そのような名誉欲を掻き立て、さらにそれを推奨するようにみえる肖像画には、疑問符がつきます。そのあたりで、永平寺が本来伝えないといけないものが、グッチャグチャになってしまっているようにみえるのです。
批判ではありません。ただ、そこらにちょっとした限界を感じるということです。
もうひとつ・・・永平寺には、そこで寝泊りしながら、修行をしているお坊さんたちがいます。見学をしていると、そういうお坊さんともすれ違います。
一通り見学が終わって、ロビーで時間調整をしていたら、お互いにすれ違うお坊さんたちがいました。片方は、立ち止まって両手を組んで、お辞儀をしているのですが、もう片方のお坊さんはお辞儀もしないまま、スタスタと歩いていきました。
そこでも「???」です。
おそらく片方は先輩なのか、地位が上なのでしょう。だから、お辞儀もしないで、スタスタと通り過ぎたのだと思います。でも、こう言いたくなります。
「お前はそんなに偉いのか?」
いや、偉いんです。偉いんですよ?
厳しい修行をされていて、おそらく、その厳しい修行の結果、そうやってお辞儀もしないまま、すれ違えるような身分になれたのでしょう。
でも、まだ悟りを開いたわけではないですよね?途中ですよね?それなのに、その態度で大丈夫なん?道は、まだまだ厳しいはずですよ?
人間は弱いので、ある程度までできたら、どこかでご褒美が欲しくなるという気持ちは分かります。延々と辛い修行を重ねてきて、どこかで「お辞儀をされながら、すれ違えるようになる」くらいのご褒美は、許してやってもいいとも思うです。
例えば、これが期間限定で、ある程度の修行を終えたら、「一週間の間に限って、廊下ではお辞儀をしなくてもいい」とかなら、まだ少し理解できます。でも、きっとそうではないのではないでしょうか。
そんなことを感じながら、今、私たちが何気なく過ごしている日常こそが、かなり質の高い「永平寺」のようなものではないかと、あらためて思うのでした。
永平寺、機会がある方は、是非、行かれるといいのではないかと思います。人によっては、そこで得られる経験が、人生を左右するようなきっかけになることだってあるでしょう。ですから、まったく否定しません。
でも、必ず限界があります。
そこで、悟りを開けるとか、最終地点に辿り着けるようなことは、ほぼ難しいのではないかと思うのです。
結局、私たちにそれだけの強い気付きを与えてくれるものは、普段、私たちが過ごしている日常のなかにあると思ったりします。それは辛かったり、苦しかったりするかもしれません。でも、それこそが最高の「永平寺」です。
ツールは限界を知って、上手に使っていきましょう。そしてまた、日々の時間こそがもっとも大切です。それを大事にしていきましょう。
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