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応神天皇と神武天皇の同一性

日本の古代史を紐解くにあたっては、最低限の考え方として、以下のポイントを踏まえる必要があると思っています。

1.日本最古の歴史書の位置づけ

日本の最古の歴史書とされるのが、古事記と日本書紀、いわゆる記紀と呼ばれるものです。記紀は、古代日本史を考えるうえで、大変、貴重な書物ではあります。しかし同時に、これが当時の権力者によって、作られたものであるという点、けっして忘れてはいけません。それを十分に踏まえたうえで、記紀の記述や古代史を考える必要があります。

2.記紀の記述は暗号

記紀が編纂されたのは、8世紀前半です。そして私は、古代日本史の中での大転換点は、当時の歴史書が消失してしまった大化の改新(乙巳の変)にあったと考えています。記紀が編纂された時点で、今につながる日本が新しく始まったわけですから、その前と後とでは、全く違う歴史があったと考えて当然です。そして、その前の歴史は、当時の権力者にとって、都合がいいようにうまく事実を捻じ曲げつつ、真実が分からないように作られた可能性が高いとみるべきだと思います。いわば、そこには荒唐無稽に見えながらも、暗号に秘められた真実のストーリーがあるということです。

3.蘇我氏が正統な天皇家である可能性

蘇我氏というのは、記紀のなかでは悪者扱いされています。中大兄皇子と中臣鎌足は、専横政治を行っていた悪玉・蘇我氏を討ったヒーローです。しかし、一方で実在が怪しまれる聖徳太子という蘇我系の人物もいます。実在が怪しまれるながらも、善政を行った蘇我系の人物が登場するという点、記紀の暗号として、読み解く必要があります。そのひとつの答えとして、蘇我氏が元々の正統な天皇家であった可能性です。元々の正統な天皇家である蘇我氏を討ってしまったことで、後の権力者はそれを正当化させなければなりません。歴史的事実と整合性を保つため、存在が怪しまれるような「聖徳太子」という虚像が出来上がってしまったという見方です。

さて、これらの視点を踏まえたうえで、既に前の記事でも取り上げた神功皇后と武内宿禰を見てみたいと思います。

この二人はヤマトから出発して、九州を征伐します。九州を平定すると、そこで子供が生まれました。それが応神天皇です。この応神天皇は、誉田別尊(ほむたわけのみこと)として、大分県にある宇佐八幡宮に祀られています。宇佐八幡宮は、全国にある八幡宮の総本社です。つまり応神天皇=八幡様なわけです。

ところで、この応神天皇というのは、きわめて特別な存在なのではないかと思います。何故ならば、名前に「神」の文字が入っているからです。天皇家のなかで、「神」の文字が入っているのは、神武天皇、崇神天皇、神功皇后、応神天皇の4人しかいません。これには何らかの重要な意味があると思います。

例えば、称徳天皇(女性)が、寵愛していた道鏡に皇位を譲るかどうかという大問題が起こった時、それを決める神託がなされたのが宇佐八幡宮でした。次の天皇をどうするかという一大事に際して、伊勢神宮ではなく、わざわざ九州の宇佐八幡宮の神託を確認させているのです。明らかに、宇佐八幡宮(応神天皇)が、天皇家のなかで突出した特別な存在であることが分かります。

とくに、この事件が起こったのは8世紀半ば頃です。記紀の編纂が8世紀初めごろなので、この頃の天皇家は、記紀以前の本当の歴史について、よく知っていた可能性があります。現代でこそ伊勢神宮(天照大神)が皇室のトップかのような認識になっていますが、当時の天皇家は、本当の歴史を知っているからこそ、伊勢神宮(天照大神)以上に、宇佐八幡宮(応神天皇)を畏敬の対象としていたのかもしれません。

そして、同じ九州に所縁のある天皇といえば、初代の神武天皇です。神武天皇は、元々、日向の国(今の宮崎県)にいたとされています。こちらも同じく「神」の文字が入っています。神武天皇については、初代天皇でもあるので、「神」の文字が入っているのは、ある意味、当然といえば当然です。神武天皇は、45歳の時に日向の国を出て、いわゆる「神武東征」によって、ヤマト入りをして、建国をしたとされています。

話は戻りますが、応神天皇については、少し気になることがあります。それは、応神天皇と武内宿禰の関係です。応神天皇は、神功皇后の子供です。したがって、普通に考えれば、神功皇后と神功皇后の夫である仲哀天皇の間にできた息子になります。しかし、どうやら神功皇后と武内宿禰の関係が非常に怪しいのです。仲哀天皇が亡くなった時の古事記の記述が、以下(現代語意訳)です。

 橿日宮で神託を引き出そうとしたとき、仲哀天皇は神下ろしのための琴を弾き、武内宿禰は庭に侍り、神の言葉を請い、神功皇后は神の言葉を伝えた
 ところが仲哀天皇は「嘘をつく神だ」と罵り、琴を弾くことをやめてしまった。すると神は怒り、「死の国へ行け」と告げた。武内宿禰は「琴を弾かれますように」と勧めたが、しばらくして静かになったので、そっと明かりを近づけてみると、すでに亡くなっていたという。
※関裕二「出雲大社の暗号」講談社 2010年 P.187より引用

仲哀天皇が亡くなられたとき、その現場にいたのは武内宿禰と神功皇后だけでした。そして、しばらくの間、二人は仲哀天皇の死を秘匿し続けたと言います。そんな神功皇后から生まれた応神天皇は、武内宿禰と非常に近いのです。

これについては、既に以前の記事にまとめている通りです。

例えば、武内宿禰と応神天皇で画像を検索すると、赤ん坊の応神天皇を抱いた武内宿禰の像や絵が、たくさんヒットするかと思います。

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また前述の八幡宮には、大抵、本殿の横など、極めて重要な位置に武内宿禰を祀った「武内社」や武内宿禰とも同一視される住吉大神の「住吉神社」があります。それだけ、武内宿禰と応神天皇は、並々ならぬ関係にあると言えます。これらのことを考えると、応神天皇は武内宿禰の子供だったのではないかという疑惑が出てきます。

そこで気になるのが、応神天皇と九州繋がりにある神武天皇です。神武天皇には、「神」の文字だけでなく、武内宿禰と同じ「武」の文字が入っています。こう考えてみると、神武天皇と応神天皇は、「武内宿禰」と「九州」というピースで、重なって見えてくるのです。

強引にみえるかもしれません。しかし、八幡神としての応神天皇の特殊性を考えれば、武内宿禰の「武」がその名に刻まれた初代・神武天皇との同一性を無視することはできません。「武」の文字が名前にある天皇(天武天皇、聖武天皇など)については、あらためて別記事にまとめたいと思います。

さらに付け加えるならば、武内宿禰は、蘇我氏などの古代豪族の祖とされています。そう考えると、応神天皇神武天皇も、武内宿禰系・蘇我系の可能性が出てくるわけです。記紀をまとめた新王権は、本来の天皇家が武内宿禰系・蘇我系であったことを秘匿する必要があった。しかし、事実を消すこともできないため、このように時間軸や人物像をいじくり回した可能性があるのではないかと思われるのです。

それにしても、そのようにストーリーをいじくり回してしまって、果たして、他の話との整合性が保てるのでしょうか?そのあたりについては、またあらためて別の記事でまとめてみたいと思います。

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