関帝廟で覚えた違和感
河口湖農園で作業を始める前、極力、神社に寄るようにしています。富士山は、コノハナサクヤヒメという神様で有名です。富士山周辺には、コノハナサクヤヒメを主祭神とした浅間神社が、あちこちにあります。
作業前、このコノハナサクヤヒメにご挨拶するのです。
※私個人としては、コノハナサクヤヒメよりもイワナガヒメ推しですが、それはちょっと置いておきます。
それとは全然違うのですが、先日、横浜に行ったときに中華街の関帝廟にお参りしてきました。写真、全然撮っていませんが、こんな感じのところです。
私、三国志大好きです。中学生の頃は、光栄の「三国志」ゲームで遊びまくりました。そのなかでも関羽は、最も好きな武将です。智勇を兼ね備えた名将で、仁義にも厚い!!みたいな?
今の中国共産党をみていると、「中国でそんなことある?ほんまかいな?」と思わなくもないですが、とにかく憧れの人物です。
関帝廟に入ったら、有料のおみくじがあって、それで願い事をするというので、ちょっとやってみました。その時、いくつかのジャンルから選択するのですが、そのなかから私は「健康」を選びました。その時、係の人からお祈りの方法を教えてもらいます。
でも、ここでちょっとした違和感を覚えます。
自分の健康を願うのです。まぁ、当たり前?
うん、当たり前かもしれません。健康のほかにも金銭(商売)や縁談といったものもあります。いずれにしても、「自分の幸福」を願うのです。
うん?・・・それも当たり前?
そう、当たり前かもしれません。ただ、私がいつも神社で参拝している時は、そんなことを考えたことがありません。
きれいごとでも何でもなく、手を合わせてお願いすることなんて、そんなことばかりです。まさか「自分の・・・」なんて、全く考えていませんでした。
しかし、関帝廟の係員からは、「自分の・・・」とお願いしなさいと言われたのです。私が違和感を覚えたのは、その部分に対してでした。
まぁ、それがここの流儀でもあるので、結局、「自分の健康」をお祈りして、関帝廟をあとにしました。
あとから、その違和感について、自分なりに考察してみました。
結論として、私が感じた違和感の正体は、「自分のことは、自分で責任をもってやっている」ということから生じているようです。
ココ、ポイントです。そんなのわざわざ神様にお願いすることではないと思っているのです。
さらに話は変わります。
「利己的」は悪とされがちです。できれば「利他的」であるべきと考える人たちは多いかもしれません。
しかし私は、そもそもこの二つの概念を対立させるべきではないと考えます。
自分のことだけを考えたら「利己的」になります。そりゃ、言うまでもなく「悪」と切り捨ててもいいです。
一方で「利他的」に偏ってしまって、自己を滅してしまったら、そこでおしまいです。生き方として、そういう生き方もアリだとは思いますが、残された人々に深い悲しみを負わせることにもなります。自暴自棄になってもいけません。
では、どうするべきか?
ポイントは「個と全体」、「自我と宇宙」の一体化です。私の記事の中では、既に何度か取り上げているテーマです。
まさに瞑想のようなものは、そうした「一体化」を促すための作業であると考えます。
このように「個と全体」、「自我と宇宙」を一体化させてしまうと、利己的は利他的でもあり、利他的は利己的と同義になってくるのです。
利己的の意味も、利他的の意味も、自分自身の生き方や存在の意義づけによって、大きく変えられるということです。
神様レベルにまで、自分の存在価値を昇華させるような人たちは、きっとそんなことが当たり前のように理解できるのではないかと思います。
で、そうだとしたら、神様の社の前で、わざわざ「自分自身でコントロールできる自分のこと」をお願いするなんて、野暮ったくて仕方ありません。
「自分のことは、自分で責任をもってやっている」んです。いちいち、自分以外の神様にお願いする必要はありません。
関帝廟は、関帝廟のスタイルでいいと思います(よしっ!関帝廟の話に戻ってきたぞ!)。それ自体は、エンタメとしての楽しみ方があります。けれども、そこに本質があるとは思いません。
さらに話を戻して、私は引き続き、コノハナサクヤヒメにご挨拶に行きます。そのたびに「みんなの幸せ」と「世界平和」を願います。
そうしているうちに「個と全体」、「自我と宇宙」の一体化の重要性に気づく人たちも増えてくることでしょう。そうなれば、世界は大きく変わってくるはずです。
それこそ「神人」の時代です・・・あ、今回はこの話はやめておきます。
いずれにせよ、世界中の人々が「利己的」と「利他的」が同義であると気づくようになったら、全く別の世界が広がってくるように思うのでした。
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